第100話 鈴木裕貴
知らない天井だ。
白い天井、蛍光灯。耳元ではかすかに電子音がして、腕には点滴の針が刺さっている。
「あら、鈴木さん、目が覚められましたか。検温です」
巡回の看護師さんが、俺の顔を覗き込む。
後から聞かされたところによると、俺は、インターン先の研究所で倒れていたところを、発見されたらしい。過労だったそうだ。何だか忙しいところだな、と思っていたら、仕事の指揮系統に問題があり、三人分くらいの仕事を振られていたそうだ。産官学連携事業の肝煎りのプロジェクトだということで、ゼミから推薦されて派遣されていたのだが、俺が倒れて
だけど、そんなことはどうでもいい。
俺はさっきまで、寮棟の一室で、エリオットと暮らしていた。昨日の夕方、ちょっと喧嘩して、朝になったら謝ろうと思って。仲直りしたら、一緒に美味しいものでも食べて、ハグし合って、お互いの体温を感じながら眠って。
学園で記憶を取り戻したのが、四年前。彼のパーティーに加入したのが、二年半前。そして一緒に暮らし始めたのが、半年前。
しかし、俺が倒れてから目が覚めるまで、たった二日しか経っていなかった。
間もなく退院した俺は、休学して自宅療養となった。しばらく大学に通わなくて良くなるのと、俺の様子がおかしいのとで、俺の下宿は引き払い、姉貴の部屋に居候させてもらうこととなった。いつもならこれ幸いに俺のことをこき使う姉貴が、何だか優しい。レトルトだけどお粥とか作って持って来てくれる。槍でも降るんじゃないだろうか。後から聞くと、目の焦点が合ってなくて、放っておくと危なさそうだったから、らしい。何人か医者に診てもらい、色々調べられたけど、何かの数値がヤバかったとか。俺は鬱だったか適応障害だったか、何かの病名を付けられて、安静にしろってことになった。
俺が大学を休んだって、誰も困らない。俺の卒業が遅れるだけだ。見舞金なども出て、しばらく生活費には事欠かない。家庭教師のバイトも、インターンの前に全部やめていたし。生徒や親御さんには惜しまれた。良くしてもらっていたのに、最後まで見られなくて申し訳ない。
家庭教師…。図書室で、俺の前で、夢中になって俺の知ってることを吸収しようとした、薄いブロンドの髪から覗く、綺麗な紫色の瞳。つい、数日前まで、そこにあったのに。
今の俺は、空虚だ。
姉貴は、逆に何もしないのがマズいんだ、ということで、少しずつ俺に作業を手伝わせるようになった。俺は姉貴の原稿に、黙々と着色して行く。こういう作業は、デジタルになってもちっとも減らない。逆に精密な描画が出来るようになったからこそ、アナログよりも余計に時間がかかる。
姉貴の下書きが仕上がるまでの間、俺は久しぶりにクロッキー帳を取り出した。手持ち無沙汰だと、自分でもなんかヤバいのは分かる。俺は無心に鉛筆を走らせた。透き通るような美しいブロンドの髪を後ろで一つに括り、ちらりと見える白い首筋が、ぞっとするほどセクシーで。長いまつ毛と、ちょっと下がった目尻に、吸い込まれそうな紫の宝石。すっきりと通った鼻筋、薄い唇。ついこの間まで少年だったのに、すっかり大人の男になって。その指の長い、大きな手で、俺を抱きしめて、髪を掻き上げて、あの声で、俺を呼んで…。
気がついたら、彼のことを、何枚も何枚も描いていた。無意識に流した涙で、クロッキー帳は濡れていた。
姉貴は何か言いたそうに、俺を見ていた。そんな姉貴に、俺は聞いた。
「ねえ、姉貴。ラブきゅん学園って、持ってる?」
さすがはサブカルを
みんな知ってる。でも、誰も俺の心を動かさない。
いよいよ俺がヤバいらしいっていうことで、姉貴は彼氏を呼び、俺を飲みに連れ出した。そう、俺が去年成人した時にも、姉貴と彼氏さんとで飲みに連れて行ってもらったことがある。あの時連れてきてもらった店もここで、あの時流れていたのが、あのヴァレンタインの…。
姉貴の彼氏はいい人だ。俺を何かと気にかけて、気さくに話しかけてくれる。俺が上の空で、「そうっすね」しか返さなくても、根気良く。彼らはお互い忙しくて、なかなか結婚話が進まないんだけど、今回俺がこんなことになって、更に婚期が遅れるようなことになったら申し訳ない。彼は「今はそんなこと考えなくていい」と俺を慰めてくれるが、俺もいつまでも姉貴や彼に甘えていられない。何とか一人で生きていく算段を立てなければ。
その時、どこかで聴いたことのある曲が流れ出した。
『
そうだ。どうしたって、忘れられるわけなんかない。こんなに人を好きになったことなんて、なかった。心も体も、君のことを覚えている。
君は、俺のこと、覚えていてくれているだろうか。
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