第91話 念力集中

 ふわりと、触れたかどうかも分からないようなキス。至近距離にフェリックスうじの、吸い込まれそうな黒曜石の瞳。


 ちょっと待って。これ、今世ファーストキスだったのでは。


「ちょっ…」


 彼は黙って、私の頬に手を添え、もう一度。今度は、彼の唇の感触が分かる。黒曜石が、うっすら紫色の光を帯びて。


「…大丈夫、みてぇだな」


 彼はてのひらを頬から髪の中へ滑らせ、反対側の手で私の顎に指を添えると、今度は強く口付けて来た。


「んんっ…!」


 こ、これが噂の顎クイ…っ!都市伝説かと…!


 などと興奮する間もなく、眉間みけんからチリチリとした圧力を感じる。視界がボヤけるような、思考にもやがかかるような。背筋にゾクッとした何かが走り、思わず口から喘ぎ声が出そうになる。フェリックス氏の瞳が、次第に紫色に強く輝き出す。


 ーーー魅了。


 くっそ、これか。奴が女を壊して来たっていうのは。


 確かにこれはヤバい。私も、気を抜いたら持って行かれそうだ。だがしかし、こんなところでに負けてたまるか。見せてやろう、レベル450の超エリートスーパーサヤ人の、圧倒的パワーを!むうん、念力集中、念力集中…!




 ほんのわずかな時間だったような、それともひどく長い間、それに耐えていたような。


「…はぁっ…」


 勝った。


 私はついに打ち勝った。正直ギリギリの戦いだったが、勝ちゃあいいんだ、勝ちゃあ。


「…お嬢…」


 何だか辛そうな顔をしているフェリックスうじに、私は余裕のVサインをカマしてやった。どうだね。レベル300とは違うのだよ、レベル300とは!


「へっ、どーよ!」


 薄い胸を誇らかに張ると、彼はいつもの調子で吹き出した。


「お嬢、さっきチョコ食ったろ」


「ちょ、今それ言う?!」


 ファーストキス、顎クイ、からのコレである。どうも私は前世も今世も、ラブいシチュエーションと縁がない。


「はぁ、お嬢相手に湿っぽい話はやめだ、やめ」


 彼はベッドから立ち上がった。


「お嬢。俺は絶対帰って来る。後でリベンジしてやっからな」


 そして、ニッと笑った。いつもの人懐っこい笑顔。


「望むところだ、バーカ」


 彼は左手をひらりと挙げて、部屋から出て行った。


 ところで、彼が部屋を訪ねて来たのは、一体何だったのだろう。何だか離婚の話をしていたような気がするが、結局「帰って来るから首洗って待ってろ」ってことだったのだろうか。そういえば、魅了に抵抗レジストにすることに必死だったが、最後ちょっと大人のキスをしてしまったことに思い当たり、その後私は、一人ベッドで悶絶していた。




 俺は最初、お嬢に別れを言いに行くつもりだった。何度部屋を訪ねても居留守を使われたが、これだけははっきりさせておかなければならない。区切りをつけて、過去に向かうつもりだった。


 いや、違う。女を抱くことができない俺では、所詮お嬢を幸せになんかできない。本当はもっと早く、お嬢を手放すべきだった。さすがに諦めの悪い俺でも、過去に戻ればもう二度と会えない。お嬢もきっといい男を見つけて、幸せになるだろう。情けないが、これは逃げだ。だけど、これが最善だと信じていた。お嬢には、「幸せんなれよ」って言いに来たんだ。


 だが、お嬢から返って来た言葉は、「悔しかったら魅了してみろ」だった。


 売り言葉に買い言葉で、つい、お嬢の唇を奪ってやった。挑発したお嬢が悪い、と心で言い訳をしながら、少しずつ、魔力を込めて。いや、本当はずっとそうしたかっただけだ。必死で魔力に抵抗するお嬢の髪を掻き上げ、角度を変えて、深く。その先は、やっとのことで思い止まったが、ここが女一人の自室で、ベッドの上で男にこんなことされてるって、お嬢はそれがどういうことか、分かってるんだろうか。


 その後お嬢は、Vサインをしながら「念力の勝利」とか訳の分からないことを言っていた。この女は、こういう、深刻さと無縁なところがいい。俺が難しく考えていることを、いとも簡単に笑い飛ばしちまう。こういうところに惚れたんだった。チョコの味がしたと指摘すると、「乙女のファーストキスを!」と怒っていた。怒る姿も可愛い。


 ああ、やめだ。深刻な話はこの女には似合わない。お嬢は、俺たちが今まで不可能だと思っていたことを、あっさり実現しちまう女だ。この世界のことを思い出してから、たったの数ヶ月で魔王の復活を阻止しちまったり、皇国をわずか1ヶ月で救っちまったり、俺らを200年前に送ってリベンジさせたり。なら、俺も四の五の言ってねぇで、こっちに帰って来りゃいいんだ。出来る、出来ないじゃない。やるしかねぇだろ。


 正直、魅了がヤバいのはキスじゃなくてその先なんだが、お嬢となら、何とかなるかも知れない。その先は、帰ってからのお楽しみだ。


「さあ、一丁行って来るか」


 フェリックスは独り言ちると、ふと姿を消した。

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