第90話 出発前夜

 出発の三日前。彼らは、辺境伯夫妻に謁見して、出発の挨拶を行った。既にこれまでの話は、内々に伝わり、話し合いが持たれ、調整や承諾は済んでいるのだが、デイヴィッド様や隠密のエース三名が、二度と帰って来られないかもしれない旅に出るのだ。爵位の継承や人事の問題などがある。正式に、彼らを送り出すというけじめは、つけなければならなかった。


 私はこの時になってやっと、辺境伯夫妻から、大事な嫡男を奪い、帰れない旅へ向かわせたことに思い至った。彼はこの領にとっても、無くてはならない人材だ。彼が担うであろう次代のダッシュウッドは、さぞ繁栄しただろう。デイモン閣下が力不足なわけではないが、彼をダッシュウッドから奪うことは、あまりに惜しい。一時の思いつきで、軽はずみな提案と手引きをしたことに、私は心から後悔した。


 だがしかし。


「デイヴィッド。此度の決断、天晴れである。ダッシュウッドの男として、愛する女を護り切り、見事敵の首を挙げて見せよ」


 辺境伯は、デイヴィッド様の目を見据え、そう告げた。腹の底から力の籠もった言葉に、私まで揺さぶられた。


「カイル、フェリックス、アンナ。いや、フェリチャーナ殿下、フェリーチャ殿下、キール大使。息子をよろしく頼む」


「勿体なきお言葉」


 そして、グロリア様からは。


「騎士ダヴィードよ。よくぞわらわを母に選んで降り立った。そなたはダッシュウッドであると同時に、ギャラガーのすえでもある。我らに敗北の二文字はない。ギャラガーに仇なす者に鉄槌を下し、目にもの見せて参れ」


「は」


「そなたに武神の加護ぞある」


 デイヴィッド様を鼓舞する力強い言葉。そうだ。今世の彼は、この二人を両親に選んで生まれて来た。今度こそ、必ず勝利を掴むだろう。


「兄上。ご不在の間は兄上に代わり、私がダッシュウッドを守ります。お早いご帰還を」


 デイモン閣下から。隣にいるアーネストうじが、同意して頷いている。これにて壮行の謁見は終了だ。夫妻、四人、そして立会人の順で退出すると、外でグロリア様から呼び止められた。


「アリス。そのような顔をするでない」


 彼女は、まるでお母さんみたいに優しい目を向ける。


「息子が一人前の男になって、自らの道を進むことは、母親にとってこれ以上ない喜びぞ。況してや相手は、我らが宿敵の魔王じゃ。我らに代わって息子が仇敵を討たんとするなど、ほまれでしかないのじゃぞ?」


 まあ、まだ子を持たぬアリスには、分からぬだろうがな。グロリア様は、いたずらっぽく笑った。そして私がその場で号泣を始めると、そっとハグしてくれた。




 あれから、四人とは気まずいままだ。彼らの友好的な態度は変わらないのだが、私の心の整理がつかない。私の部屋に、何度かフェリックスうじが訪ねて来たが、ずっと居留守を使った。だが、


「お嬢、入るぜ」


 今回に限って、彼は私に無断で入室してきた。隠密の彼にとって、鍵など無いに等しい。


「…乙女の部屋に、無断で入ってくるとか」


 私はベッドの上で枕を抱え、そっぽを向いている。


「いいだろ、俺はこれでもお嬢の夫なんだからよ」


 彼はベッドに腰掛ける。


「…自分の女を置いて、帰って来る気のない旦那なんか、いらないよ」


「…違ぇねえ」


 私たちは、しばらくそのまま無言だった。


「…あのさあ」


「何だよ」


「…私このまま行ったら、処女のまま死んじゃうんだけど」


「ぶっ」


 フェリックス氏が取り乱した。


「ずっと言おうと思ってたんだけどさ。もうデイヴィッド様に義理立てしなくていいんだし、ずっと妻に手をだす気のない男が、私の夫をやってるのって、可哀想だと思わない?」


「…すまねぇ。いつか先のことだと思ってたが、もう出発するんだった。結婚、解消しねぇとな」


「そういうことじゃねぇだろ!」


 私は起き上がり、フェリックス氏の胸倉を掴んだ。


「アンタ馬鹿なの?!こんな可愛い女を捕まえといて、一切手出しして来ない挙句、もう帰って来ませんだとか、どんだけ失礼なわけ?!」


「だから、言ったろ!俺が女に手ぇ出したら、ヤベえんだって。俺は惚れた女を壊したくねぇんだ。分かれよ!」


「惚れ…」


「いつか交代しなきゃいけねぇって、ずっと分かってた。分かってたけど、したくなかったんだ。もうちょっとだけ、もうちょっとだけって引き延ばして、このザマだ。でも、悪ぃ。俺じゃ本当に、お嬢を幸せには出来ねぇんだって…」


 何を言っているんだ、この男は。


「…何でアンタが、私が幸せかどうか、決められんのよ」


「お嬢…」


「何よ、魅了がどうしたよ。やれるもんならやってみなよ、弱っちいくせに。私の方が全然強いんだから!」


 あまりに腹が立って、糞味噌にけなしてやった。男の子にやっちゃ絶対ダメなヤツ。こういう性格だから、モテないんだよな。分かる。


 でも、フェリックスうじの反応は、私の予想とは違った。彼は真剣な眼差しで、


「…後悔、しねぇんだな」


 そう言うと、私にゆっくりと唇を重ねて来た。

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