第7話 ハミー・デッターと嘘つき魔術師

 波打つ焦茶色の髪を持つ戦士ハラヘリウスは、戒律(アライメント)【悪】を表す黒のローブを着た魔術師ハミー・デッターや案内鰐(ナビゲーター)のナビらとともに、身体をキンキンに冷やされてしまった兵士たちを中央砦に運び込んだ。


 この被害は同じく黒のローブを着た魔術師モランボンが使う<アッサ・ヒスパード・ライ>の呪文によるもので、ハミーによれば「野郎がその気なら、あの場にいた全員を対象に取れただろうな。加減してくれたのは助かったぜ」とのことだった。


 しかしそのハミーも、同様に冷やされた東砦の兵士たちが運び込まれていることを知ったときには顔を引きつらせたのだが。

「東砦の連中、ここに避難してたのか……。そりゃ他に行くところもねえよな」

「どうだハミー。冷やされた守備兵は合わせて数十人規模だが、治せそうか?」


 外壁と建物の間にある広場の一角でハラヘリウスが尋ね、ナビが不安そうに見上げると、ハミーは腰に手を当てて舌打ちをした。

「やれるかやれねえかなら、やれる。が、これだけの人数だからな。高級回復呪文を使っても、しばらくは安静にしてねえと」

「そうか。では、その間に我々はモランボンともう一人の戦士を退治するとしよう」


 ハラヘリウスは顎に手を当てて頷いた。そこへ中央砦のトマルマン隊長がやって来る。ハミーが冷えきった東砦の守備兵をこの場に集めてもらうよう頼むと、トマルマンは建物へと向かっていった。


 しばらくして、動けない者たちを動ける者が二人一組で抱え続々と連れてきた。全員が広場に横たえられたところで、ハミーが印を組み呪文を唱える。

「<オー・アーライ!・アン・コーナベ>!」


 ハミーの体から濁った茶色の光が放たれ、広場全体を覆っていく。

「ああ、温かい……」

「体の芯からあったまるぜ……」

「ぱんつぁー・ふぉー……」

 安堵の声が、至る所から聞こえてくる。ハミーは安心したように息を吐き、地面に大の字になって寝転がった。


「これで山は越えたぜ。隊長さんよ、後は毛布でも敷いてゆっくり寝かせてやんな」

「すまん。君にはどれだけ感謝してもし足りんな。……しかし、持たせた護符が何の役にも立たんとは」

 トマルマンがぼやくと、ハミーは目を閉じたまま無精髭の目立つ顎を掻いた。


「呪文の痛手を防ぐ護符ってのは、それに込められた魔力以下の威力であればまるっと遮断できるんだ。だが、威力で上回られたら全通しになっちまう。量産型の護符とはいえ、あの大嘘つき野郎、人間性はともかく力量は文句なしだな」


 トマルマンたちが戻っていった後、赤みを帯びてきた日差しの中で、ハラヘリウスはハミーの隣に腰を下ろして問うた。

「大嘘つきか。先刻さっきは知らないと言っていたが、やはりお前は、あのモランボンのことを知っているんじゃないのか?」


 問われたハミーは、「俺が知ってるのはあいつじゃねえ。大賢者ストラボンの方さ」と喉で笑った。

「本当のストラボンの一番弟子は、ショハンボンてお人でな。俺が若い頃に六十前だったから、生きてりゃ七十を三つ四つ過ぎたくらいか」


 そこでふと、昔を懐かしむような顔を見せた。

「実力人格、ともに文句なし。タンコウボンやブンコボンなんて優秀な弟子もいて、教室はそりゃ賑わってたもんさ。中にはビニボンてえ『飲む打つ買う』が大好きなろくでなしもいたが、これがまた俺とは馬が合ってな。楽しかったよ、あの頃は」


 ハラヘリウスの眼が優しくなった。放蕩無頼に見えるこの男にも、よすがとして大事に抱える過去があったのだ。してみると、彼がモランボンを嫌悪するのは。

「思い出に泥を塗られたようで気に食わん、というところか」


 まあそんなもんだ、と言ってハミーは大儀そうに上体を起こした。手近な石を手に取り、中空に向かって放り投げる。

「ショハンボンの爺さんや、ストラボンの跡を継いだ孫のイソフラボンが野郎のことを知ってるのかが気にはなるがな。ともかく、は俺が潰す」



 翌朝、ハラヘリウスたち三人はトマルマンに断りを入れて再び東砦へと向かった。道中に人の気配らしきものもなく、モランボンともう一人の戦士がいるはずの砦も、わずか数十mにまで迫ったというのに静まりかえっていた。


「人の気配が全然しませんね……」

 ナビが不安げに呟く。周囲を見渡したハミーも首をかしげた。

「本当に二人きりでここに来たのかよ。自信過剰かクソ度胸かどっちだろうな」


 どっちでもいいさ、とハラヘリウスは快活に笑った。空は青く晴れ渡り、背中から吹いてくる風が肌寒い中にも蒼い草の匂いを運んでくる。なんと素敵な勝負日和であることか。


「我々がやることは変わらん。ではまず、朝の挨拶といこうか」

「おうおう、律儀というか馬鹿正直というか。ま、幸いこっちは風上だ。呪文で声を風に乗せられるようにしてやるから、待ってな」

「大丈夫だ。問題ない」


 ハラヘリウスはハミーを制すると、砦に向かって大きく息を吸った。中にいるであろう二人に届けと、腹の底から声を出す。

「ハラヘリウスここにあり! 指一本触れてもみよ!」


 雷(いかづち)のような大音声だいおんじょうに、隣にいたハミーが耳を押さえのたうち回った。加減しろ馬鹿、という震え声のかぼそい抗議が聞こえる。

 まだ見ぬ戦士への期待に胸を膨らませ待つことしばし。砦の門が、ゆっくりと開かれていった。


 出てきたのは二人。

 一人は黒のローブを着た壮年の魔術師、モランボン。その斜め前に立つ戦士は、三十路前のハラヘリウスと同年代か若干若いか。仮にモランボンの体格をハミーと同程度とするなら、彼もまたハラヘリウスと遜色のない体躯の持ち主に見えた。それが身の丈ほどの大剣を背負っているのだから、間合いでは完全にハラヘリウスを上回る。


 戦士は背負っていた大剣を外し、鞘ごと地面に突き立てた。続けて、これもまたハラヘリウスに劣らない大音声が轟く。

「今は風向きが悪く、魔法で声を乗せられないとのことなので、代わって失礼する! 我こそは大魔道士モランボン! ハラヘリウスよ、そのっ首おとなしく差し出せい!」


 突き立てた大剣を片手で引き抜き、戦士は軽々と肩に担いだ。そのまま堀にかかる橋を渡って悠然と歩いてくる。後ろでは、予想通りモランボンがのたうち回っていた。


 戦士はハラヘリウスたちから20m程度の距離を置いて歩みを止めた。モランボンが追いつくと、少し横に動いて距離を空ける。ハラヘリウスもそれに合わせ、戦士の正面になる位置に動いた。


 すると、モランボンもハラヘリウスを追い体の向きを変える。視線を外された格好のハミーが不機嫌な声を出した。

「お前らがなんでこいつを狙うのか知らねえが、てめえの相手は俺がしてやるよ」


「どこの馬の骨か知らんが、貴様に用などないわ。そこでキンキンに冷えていろ。<アッサ・ヒスパード・ライ>!」

 印を組んだモランボンから黄金色の光線が放たれ、ハミーを襲う。しかしそれは、寸前で見えない壁に当たったかのように弾け散った。


「弾かれただと!? 貴様、いったいどんな護符を持っているんだ!?」

「自作の護符に決まってんだろうが。てめえは黙ってここで終われ。<モン・ゴゾコ・コーナッツ>! ……あ゛っ」


 ハミーの呪文とともに、薄褐色の煙が猛烈な勢いでモランボンへと押し寄せて体を包み込む。が、直後に強い東風が吹き、モランボンのみならずハミーの周囲に残っていた煙が流されて戦士とハラヘリウスにもかかった。


 ――む、煙がこちらに……。っま!! 何なのだこれは!? M○Xコーヒーの喉に粘り着くような甘さとは違う、むしろ爽やかさすら感じる甘さだが、とにかく甘ったるい! 甘すぎて、鼻の奥から脳がかれていくようだ……!

 あまりの衝撃に声も出せず、ハラヘリウスは地面に両膝をついた。激しく咳き込み、あるはずもない水を求めて地面を掻きむしる。


 モンゴゾ・ココナッツ。

 ベルギーのランビックという自然発酵ビール(培養した酵母ではなく、醸造所内に自然に存在する酵母で発酵させるビール。乳酸菌も入っているため酸っぱい)をベースにココナッツの果汁を加えた、フルーツビールの一銘柄。

 爽やかな甘さながらも強烈なココナッツの香りが特徴で、屋内で飲む際は要注意。

 かつて吾妻藤四郎なる者が友人宅での飲み会にこのビールを持参した際には、開栓した途端に吹きこぼれ、ビールまみれになった手を石鹸で念入りに洗ってもしばらく匂いが取れなかったという逸話が残されている。

 ――リン民明ミンメイ書房『日本人の知らないビールの世界』より抜粋――


「ハラヘリウス様、大丈夫ですか!? お水飲んでください!」

 ナビが器用に運んできたカップの水を一息に飲み干し、ハラヘリウスはようやく一息つくことができた。できることなら鼻の奥から脳に至るまでまるごと水洗いしたいところだが、戦場いくさばでそんな真似をするのは自殺行為だろう。


 力を込めて踏ん張り、立ち上がって前を向く。モランボンは言うに及ばず、ハラヘリウスより多量の煙を浴びた戦士も転がって悶絶していた。

 ハラヘリウスは、もつれそうになる脚を叱咤しつつ全力で走った。戦士を助け起こし、背中をさする。


「君! 大丈夫か! しっかりしろ!」

 戦士は意識もはっきりせず、ただ呻き声を出すだけである。遅れてナビが持ってきた水を飲んで、ようやく生き返ったようだった。


「……すまん。助かったぜ。あんたらは命の恩人だ」

 ふらつきながらも、戦士は大剣を杖にして立ち上がる。深く息を吐き、ハラヘリウスとナビに頭を下げた。


 気にするな、とハラヘリウスは笑った。ふと見れば、モランボンの側にいつの間にかハミーが立って見下ろしている。三人も近づくと、モランボンは血走った目を見開き凄絶な笑顔を作った。


「貴様ら、俺を倒したからといっていい気になるなよ……。俺が敗れたことが伝われば、弟のワサンボンが黙っていないだろう……。今からせいぜい震えておくがいい……。まあ、俺の方がワサンボンより強いがな。兄より優れた弟など存在しないのだ……」

 モランボンは激しく咳き込み、ついに動かなくなった。


「じゃ、こいつを中央砦まで引きずってって隊長に引き渡しゃ、万事解決だな」

 ハミーがひどくつまらなそうな顔で言った。

「そうだな。私刑にするより、官憲に裁いてもらうべきだろう」

「砦を襲撃した凶悪犯罪者ですからね。金一封でも出れば、だいぶ路銀の足しになるんですけど。あ、手足縛ったら僕の背中に置いてくださいね」


 ハラヘリウスとナビは、対照的に満足げである。モランボンをナビの背に載せると、ハラヘリウスは自分と同等以上の体躯を持った戦士の肩を叩いた。

「では、戻るとしようか。そういえば、まだ君の名を聞いていなかったな」

「ああ、俺は……」

 と、同道しようとした戦士は不意に弾かれたように飛び退いた。


「危ねえ危ねえ、あやうく一緒に行くところだったぜ。つい流されちまったが、俺もあんたの敵だからな!?」

 言われて、ハラヘリウスはおお、と手を叩いた。

「そういえばそうだったな。煙の甘さでどうでもよくなっていた」


 戦士はわざとらしく咳払いをした後、大剣を握った右腕と右脚を引き、左腕と左脚を前に出して見得を切った。

「問われて名乗るもおこがましいが、知らざぁ言って聞かせよう。泣く子も黙る『北風三兄弟』の三男、“風の”マタサブロスとは俺のことさ」


 ハラヘリウスを真正面から見据え、マタサブロスは不敵に笑う。取って食われそうな威圧感を跳ね返し、ハラヘリウスもまた虎のように笑った。

「北風三兄弟か。聞き覚えがあるな。たしか長兄が“北風小僧の”カンタロスで、次兄が“木枯しの”モンジロスだったか。ジンギトオスという、本格の親分の元にいると聞いていたが」


 マタサブロスの顔色が変わった。芝居がかった体勢を戻し、自嘲に顔を歪める。

「三年くらい前に、まあ色々とあってな。親分も俺ら兄弟も、今じゃバラバラよ」

「ふむ。まあ深くは訊かないことにしよう」

「ハラヘリウスの大将。あんたに恨みはないが、いやむしろでかい借りがあるが、その首貰い受ける」


 マタサブロスは大剣を鞘から抜いた。右手一本で軽々と振り回した後、両手で大上段に構える。ハラヘリウスは彼の苛烈でありながら邪気のない剣気を受け止めると、腰に提げた長剣の鯉口を切った。

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