マイ・ストーリー 下

 二本の手があり、足がある。

 このような形態を持つ生き物の不便さを知ったのが、当時、進化したてのピエールであった。


 まず、歩くということができない。

 立つまでは、何とかなった。

 だが、実際に足を踏み出そうとしてみると、どうしても頭部が重りとなってしまい、重心を崩してしまうのだ。


「普段、私たちは何気なく歩行しています。

 しかし、元来、二本足で直立歩行するというのは、ひどく不安定なもの。

 何しろ、体のどこよりも高い場所に、頭部という振り子が存在するわけですからね。

 しかも、実際に歩くとなると、平面ばかりでなく、段差や障害物など、様々な問題が立ちはだかります。

 我々は、それを常に観察し、判断し、状況に即した歩き方をしているのです。

 そのために、必要なのは何か……。

 ――経験です。

 ピエール。あなたは、歩けるようになるまで、千度転ぶことを覚悟しなければなりません」


 というのは、ラーテルの弁である。

 実際、ピエールは何度も転ぶことになった。

 転んで、転んで……。

 ふと、歩けるようになったのである。


 そうなると、二本足で自由自在に歩けるというのは何とも便利なもので、ピエールは、人間という生き物がどうして栄えたか……その一端を、知ることとなった。


 並行して、ナイフやフォークなどを使った手先の訓練や、言語の学習も行われ……。

 それら、基礎的な訓練に費やしたのは、実に二年ほどである。

 自分としては、随分と時間を浪費した感覚であるが、ラーテルの方は大喜びであった。


「素晴らしい。

 たった二年で、そん色なく話せるようになり、読み書きもほぼ習得。簡単な計算までこなせるようになるとは……!

 ただ、生物としての形態が変わっただけではない。

 人間と同等か、それ以上の知性を獲得できている。

 しかも、成長期の子供と同じく体が大きくなっているのだから、これは、進化が定着したと見てよい。

 君は、まぎれもなく人間と並び立ち得る存在になったのです」


「そういうものですか……」


 そう言われても、比べるための対象がないのだから、どうしようもない。

 進化の呪法を受けて以来……。

 ピエールは、ずっと屋敷の地下室に籠もりきりなのだ。

 そんな引きこもり生活が終わったのは、ある日のことである。


「ピエール。

 基礎的なところは、ひとしきり習得できました。

 これからは、騎士となるために必要な訓練をしましょう」


 渡された本を読み終えた自分に、ラーテルはそう告げた。

 そして、全身を隠すためのローブなどを手渡してきて、こう言ったのである。


「すでに、街の外へ住む友人に話をつけています。

 さあ、いよいよ、外の世界へ飛び出す時がきたのです!」


 興奮するラーテルと共に、屋敷を出た。

 人間というのは、存外、他人に関心がないものであり……。

 書物などの知識から、おそらく、異様だと判断できる風体の自分も、問題なく街中を歩くことができる。

 ラーテルに続いて歩きながらも、観察は忘れない。


 若い男……。

 年老いた男……。

 男の子……。

 女の子……。

 大人の女……。

 犬……。

 猫……。


 それらは、ピエールにとって書物でしか知らない知識であった。

 観察混じりの街歩きを終えて、都市を覆う城壁の外へ出る。

 そこから、一刻ほども歩くと、目的の人物が住まう森であった。




--




 ――年老いた女。


 街中での観察を基に表現すると、師――エウレアはそのような人物ということになる。

 加齢により、身長が縮んだのだろう。

 実に小柄で、弱々しくすら感じられる風貌だ。

 だが、背筋はぴしりと伸びており、腰には扱いやすい長さの小剣が差されていたのであった。


「ふん……こいつが、元スライムかい?

 あんたが一生かけて研究した割に、結果はお粗末なものだね」


「まだまだ、研究途上ですよ。

 今は、彼から得られた肉片などを基に、様々な実験を進めているところです」


「ふうん……。

 こいつに、私の剣技を教えるのも、研究の内かい?」


「いえ、それは彼本人の望みです。

 ピエールの目的は、バサタ姫殿下の近衛騎士となること……。

 かつて、異国で剣聖とまで呼ばれたあなたの剣を習得すれば、それも叶うことでしょう」


「はっ! 私の剣を、そのまま覚えることはできないだろうけどね!」


 変装を解き、顔を晒した自分の前で、ラーテルとエウレアがそのような会話を交わす。

 足を払われたのは、その時だ。


「――ぐっ!?」


 歩き方を覚えて以来、久方ぶりの転倒へうめく。

 気がつけば、老婆は鞘ごと剣を引き抜いていた。

 その剣で、自分の足を払ったのである。


「油断してるんじゃないよ!

 剣を持つ者にとっては、日常の全てが戦場……。

 私がその気なら、あんたはそのまま斬り殺されてたんだよ?」


「……申し訳ありません」


 立ち上がりながら、謝罪した。

 今の一撃……。

 目にも止まらぬとは、まさにこのことだろう。


 直感する。

 彼女の剣を習得できれば、自分は格段に強くなると……。


「是非、あなたの剣を教えて頂きたい」


「もう引き受けてるよ!

 やるからには、徹底的にしごく。

 あんたにはもう、拒否権なんて上等なものはないから、覚悟しておくんだね!」


「望むところ……」


 それから……。

 週の半分はエウレアの下で過ごし、もう半分は王都のラーテル邸で過ごすという日々が始まった。


 エウレアから受ける稽古は、とにかく全てが実戦形式であり、ピエールは軟体じみたこの体を、何度となく打ち据えられたものだ。

 そうやって、稽古というより、剣を受ける木偶のごとき役割を果たしていると、ある事実が浮上してくる。


「元がスライムだからだろうね。

 あんたは、関節というものが、あってなきがものに等しい。

 こいつは、大きな強みだよ。

 普通、武芸者というのは、関節を柔らかくするためだけに、膨大な時間を使うものだからね」


「では……?」


「教えるのはここまでさ。

 だが、きっかけは与えてやったんだ。

 後は自分で考え、ものにしな。

 正統でなくとも、あんたにしかできない剣ってやつをね」


 現在の剣術を磨き始めたのは、それからだ。

 その気になれば、どこまでも曲げられる関節構造を活かし、剣を振るう。

 小柄なエウレアを相手にするため、自然、斬撃は超低空軌道のそれとなった。


「いいよ!

 普通、ここまで低い位置で剣を振るう奴なんかいない。

 どんな人間だって、これには手を焼くはずさ。

 魔物だって、一緒だよ。

 あんたは、自分にしかできない戦い方を見い出したんだ」


 と、言いながら、自分の剣をかわし、代わりに喉元へ小剣を突き出してくるのがエウレアという女である。

 結局、彼女相手には一本も取れず……。

 強くなった自信がない自分に、彼女はこう言ったものだ。


「あんたみたいな小僧にしてやられちまうようじゃ、剣聖の名折れさね。

 安心おし。

 あんたはもう十分、騎士として通用するよ。

 それとも、ここで真の達人になるまで修行するかい?

 何とも気の長い話だね」


 そう言われては、反論できないピエールだった。


「それに、あんたはラーテルから呪文も教わったし、あたしの下で一通りの家事や馬術も習得した。

 これより先は、修行で伸びるもんじゃない。

 ――実戦さ。

 実戦で腕を磨くことだね」


 鋼の剣を始めとする現在の装備一式は、この時に授かったものである。

 今、思えば、この時に師は照れていたのかもしれない。

 きっと……嬉しさで。

 そう思えるようになったのも、まさしく実戦で人の心に触れたからなのだ。


 そのようなわけで……。

 ラーテルとエウレア、二人の師が命じるままに騎士登用試験へ臨み、今に至るのであった。

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