姫君の思い出

「殿下。

 夜風は、体に毒となります」


 油皿に差した紐に灯る火は、なかなかに頑強なものであり……。

 歩く振動や夜風にもびくともせず、周囲を薄く照らしてくれた。


「心配ないわ。

 毒になるほど、長居するつもりはないもの。

 ただ、来る時に窓から見えたこの木が、少し気になっただけ」


 姫君の言葉に、そっと油皿を上へ掲げる。

 そうして照らし出した老木は、無数の根でもって太き幹をしっかりと支えており……。

 新芽が早くも若葉に変じているその様は、ピエール自身にも懐かしき思い出を想起させた。

 ならば……。

 ならばきっと、バサタが見ているものも……。


「お掘りの内側に、これとよく似た木があるの。

 小さい頃は、そこがお気に入りの場所だった」


 不意に、独り言のような口調で、バサタがそう漏らす。


「だった……?

 今では、そうではないのですか?」


 問いかける自分に、バサタは何も答えない。

 ただ、やはり独り言めいた口調でこう続けたのである。


「ねえ、ピエール?

 どうして、あのスライムを殺さず逃がしてくれたの?」


「それが、殿下のご要望でしたゆえ……。

 弱く、矮小なスライムとはいえ、命は命……。

 それを無闇に奪おうとしない優しさには、感銘を受けました」


 ピエールは、嘘をついていない。

 ただ、いつ感銘を受けたのか……。

 その時期について、ぼかしただけだ。

 だから、これは真実の言葉として、バサタに届いたはずだった。


「別に、どんな魔物でも見逃すわけじゃないわ。

 あなたたち騎士が、命がけで戦ってくれていることくらいは、分かっているつもりだもの。

 でも、どうしても、スライムだけは殺さないでほしいの」


「何か、事情がおありで?」


 いけしゃあしゃあとしたものだと、我ながら思う。

 自分は、その理由について、よく知っているのだ。


 ただ、どうしても、バサタ自身の言葉としてそれを聞きたかったのである。

 それだけで、地獄のようなあの苦痛と、十年に渡る血の滲むような研鑽が、報われると思ったから……。

 しかし、振り返りながらバサタが返したのは、ピエールが期待した言葉ではなかった。


「帰りましょう。

 そろそろ、体が冷えてきたわ」


「……はっ」


 姫君の言葉にうなずき、先導するために前を歩く。

 ぼそりとした言葉が聞こえたのは、背中からだ。


「ありがとう、ピエール」


 ……もしかしたら。

 自分にも、頬を赤くすることができているのかもしれないと、そう思った。




--




 それから、一ヶ月……。

 一行の旅路は、極めて順調に進んだ。

 一日につき、およそ十里ほどの距離を毎日進み、目指す辺境伯領へとついに到達したのである。

 道中は、ピエールにとって驚きの連続であったという他にない。


 まず、第一に驚いたのは、何といっても、治安の良さであった。

 ごくたまに魔物と遭遇しても、せいぜいがスライムや、それと同等程度の弱小種族であり、ピエールとキースには問題とならない。

 護衛二人の間では、スライム担当がピエール、それ以外はキースの担当という具合に、暗黙の役割分担が形成されたものだ。


 ピエールが危惧していたような賊といえば、これは皆無であり、街道を行くのは商人や旅人など、無害な人々ばかりである。

 かように平和な光景を作り出すのに貢献しているのが、たまに姿を見かける各領地の騎士たちであった。


 時に、騎乗し……。

 また、時には徒歩で……。


 街道周辺の地域を巡回し、出くわした魔物を積極的に狩っているのである。

 ピエールとキースが迎撃しているのは、いわば、その討ち漏らしなのであった。


 そのような任務を、騎士の隠語で箒働きというらしい。

 読んで字のごとく、箒でごみを掃くかのように魔物を掃討し、街道の安全を確保しているのだ。


「ああやって、人々が安心して徒歩の旅を楽しめるよう、街道周辺の魔物は常に排除されている。

 当然、野盗なんかも、騎士を恐れて出てこない。

 僕たち騎士は、作物を育てるわけでも、商売をするわけでもない。

 いわば、食うだけで何も生み出さない存在さ。

 でも、こうやって人々を守ることで、国が豊かになるのへ貢献できる。

 人の行き来は、金の行き来ってね。

 父さんは、箒働きこそ、騎士の最重要任務だと言っていたよ」


「なるほど……奥深いものだな」


 これは、ピエールにとって、心からの言葉である。

 今まで……。

 ピエールにとっての騎士というものは、姫君を守り、悪竜へと立ち向かうような……華々しき英雄であった。

 実際に、民の日常を守るというのが、どれほど泥臭く地道な働きであるか……想像できていなかったのである。


 しかし、実際には、この箒働きのような人目に触れづらい仕事こそが、人々の生活を支えていた……。

 なんと尊く、立派なことであろうか。

 すでに騎士となった身でありながら、ますます、騎士という身分への憧れを強くしてしまったピエールなのであった。


 そのように、奥深さという点においてピエールを驚かせたもう一つが、食事である。

 王都から距離を置く度、宿で出される食事の内容が様変わりしていくのだ。


 特に大きいのが、旅の半ばから目にするようになった米であり、異国由来の調味料である。

 王都で主に食べられているのはパンであるが、辺境伯領へ近づくにつれ、炊いた米の出てくる頻度が上がってきた。

 加えて、調味料として、醤油やジャンという品も使用されるようになってきたのだ。


「驚いたな。

 私は、料理というものは、焼いた肉や野菜に岩塩を削ってかけ、食すだけだと思っていた」


 これは、ある日、宿の一室でキースと交わした会話である。

 王都においては、素焼きの肉や魚を大皿に乗せて出し、おろし金と岩塩を添えておくのが一般的な料理だった。

 いざ食べる際には、個々人が好む分だけ塩を削り、料理へかけるのである。


 そちらも美味いが……。

 醤油やジャンを使った料理は、何とも刺激的で、重層感のある味であった。


「醤油やジャンは初めてかい?

 辺境伯領といえば、砂漠を挟んで東国の国々へ接している重要地点だ。

 国防というだけでなく、交易の観点で見てもね。

 向こうで作られた調味料が、こうしてこちら側へ流れてきているのさ」


 食卓を挟んだキースが、感心する自分に解説してくれたものだ。


「交易というと、こちらからは何が出ていっているのだ?」


「一番多いのは、薬草かな?」


「薬草? あんなものをか?」


 ――薬草。


 一般的にそう呼ばれているのは、夜干しで乾燥させたライナット草へ、さらに数種の種子などを調合して混ぜた加工品である。

 飲み込めば、軽い傷程度ならたちまち治してくれるこれは、ありふれているといえば、あまりにありふれた品であり……。

 戦闘者の心得として、自分もキースも、腰袋に入れて常に携帯していた。


「あっはっは! 確かに、我が国ではあんなものだ!

 子供の小遣いでも買えてしまうしね。

 でも、国境を超えた他国においては、違う。

 向こうでは、ライナット草を用いた薬草ほど効果のある品が作れない。

 だから、あちらの商人たちはこぞってこれを買い漁って、向こうに帰還したら高値で売りさばくわけさ」


「商売というのは、右から左へ流すものなのだな……」


「そういうこと!」


 このようなものは、まだまだほんの序の口……。

 人々の暮らしぶりや、土地ならではの特産品など、ピエールを驚かせるものは数多い。

 その全てにいちいち関心を示し、キースや、時には侍女たちにおのぼりだとからかわれ、少しだけ距離を縮められたと思うピエールだったのである。

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