スライム

 ――スライム。


 世に魔物数あれど、人間にとって最も身近で、そして、脅威たり得ないのがこの魔物であろう。

 見た目は、人の頭蓋ほどもあるゼリー状の球体。

 それに、やはり人間のそれによく似た目と、横に大きく広がる口が存在し、軟体そのものな体を自由自在に跳ね回らせて行動するのだ。


 食性は雑食で、植物の種子から昆虫に至るまで、おおよそのものは食べることができる。

 加えて、繁殖力も強く、また、耐えられない環境がないと言われるほど適応力が優れているため、大抵の場所でその姿を認めることができた。

 それゆえ、学者たちの間では、この地上で最も成功している生物こそ、スライムなのだと大真面目に語る者もいるくらいだ。


 そんな、ありふれていて……そして、弱い魔物。

 それが出現したのを見て、キースは即応した。


「初陣の相手がスライムとは、いかにもじゃないか!」


 自分たちの様子を見て、背後の馬車が目ざとく停車したのを確認してから、腰の剣を引き抜く。

 何しろ、至るところに生息する魔物であるから、吟遊詩人が語る物語にも、スライムの登場する機会は多い。

 それは大抵、序盤に登場して主人公が経験を積む糧となるというもので、そのため、戦士階級の中には、スライムを幸運の象徴と見る者もいる。


 だが、どんな風に見たところで、魔物は魔物。

 立ちはだかるのならば、排除すべき対象であった。

 まして、茂みから飛び出してきたこの個体は、群れからはぐれでもした影響か、はたまた個体としての性格か……。

 液体のごとく流動する体を大きく膨らませ、威嚇の構えに入っていたのである。


 とはいえ、今日のキースは鉄の鎧を装着しており、スライムごときがいくら体当たりをしてこようが、あるいは噛みついてこようが、恐れる必要は一切ない。

 唯一、留意すべきは……。


「こいつ相手じゃ、騎乗していると剣が届かない!

 下りよう!」


「ああ……」


 どういうわけか、自分と違い反応の鈍いピエールと共に、下馬して迎え撃とうとした。


「駄目! 殺さないで!」


 背後からバサタ姫の声が響いたのは、そんな時のことだったのである。


「――むっ!?」


「――殿下っ!?」


 相棒と共に、素早く背後を振り向く。

 すると、この旅に合わせて用意された大型馬車の車窓から、バサタ姫が大きく身を乗り出していたのであった。

 姫君とは思えぬ行動であるが、どうにも必死な様子だ。


「殿下!?

 殺すなというのは!?」


「そのままの意味よ!

 殺しては、駄目!」


 問いかける自分に、姫君が再度の命令を下す。


「し、しかし……!

 こいつはもう、僕たちを敵と――わっ!?」


 衝撃を横腹に受けたのは、そうやって問答していたからである。

 どんなに弱くとも、スライムは魔物であり、人に牙を剥く存在だ。

 目の前にいる人間があからさまな隙を見せたなら、攻撃をしてくるのも当然であった。


「痛っ……たた」


 それにしても、最弱とはいえ侮れないのが、軟体から生み出される瞬発力である。

 騎乗した騎士の背中へ体当たりを成功させた跳躍と、馬ではなく騎乗者の方が脅威だと認識する知能は褒めるべきだろう。

 もっとも、下馬しかけのところに体当たりされ、腰から地面へ落ちることになったキースに、そんなことを考える余裕はなかったが。


「……こいつ!」


 痛みは、人を沸騰させるもの。

 体当たりというよりは、打ちつけた腰の痛みに怒りを覚えながら、剣を手に立ち上がった。

 そのまま、スライムを一刀両断しようとするが……。


「だから! 駄目!」


 それを制するのが、背後から届く姫君の声である。

 反射的に振り上げた剣を、やはり反射的に引き止めた。


「し、しかし! どうすれば!?

 こいつは、斬らなければどきませんよ!?」


 またも――体当たり。

 それはさすがに左手の盾で受け止め、バサタ姫に叫ぶ。


「どうにかして、追い払って!

 わたしの前で、スライムを殺すのは嫌!」


「そ、そんなこと言われても……」


 再度の体当たりを盾で受け止めながら、情けない声を上げてしまう。

 倒すのは、簡単だ。

 この剣で、真っ二つにしてしまえばいい。

 だが、殺さず追い払うとなると、最弱の魔物が、一気に厄介な敵へと変貌した。


 何しろ、向こうはどこまでもその気であり、何ならば、キースが一方的に守勢へ回っていることから、調子づいているのである。


「なら、これでどうだ!」


 ――カン!


 ――カン! カン! カン!


 剣と盾を、盛んに打ち鳴らしてみた。

 農夫が、害鳥に対して行うのを真似してのことである。

 しかし……。


「こいつ! 馬鹿にして!」


 鳥ならぬスライムに対しては効果がなく、ばかりか、横に広い口をさらに大きく広げられてしまう始末だった。

 笑っているのだ。


「いっそ、無視して横を……?

 いや、馬の脚を狙われたら、危険だ」


 ぶつぶつと、方策を考える。


「代わろう」


 別の影が前に出てきたのは、その時であった。


「ピエール!?

 でも、殺すなという命令だぞ!?

 どうするつもりだ!?」


 キースとスライムの、攻防とも呼べないじゃれ合いに割って入ったのは、共に騎士となった男……。

 面の下に顔を隠せし騎士、ピエールである。


「やってみる」


 彼の答えは、ひどく漠然としたもので……。

 剣を引き抜くことすらしないまま、スライムへと対峙してしまう。

 傍から見れば、まったくの無防備。

 しかし、キースはその姿を見て、ある可能性へと行き着いていた。


「呪文を使うつもりか……?」


 先日、ピエールが見せた呪文は爆発を引き起こすそれと、回復の呪文であったが……。

 魔法というのは奥が深く、単に敵を攻撃したり、味方を癒したりするばかりが能ではない。

 中には、対象を眠らせたり、相手の呪文そのものを封じ込めるような術も存在するのである。

 だから、キースはピエールが、そういったからめ手の呪文をも習得しているのだと予想したが……。


「………………」


 しかし、ピエールの対応は違った。

 面で顔を隠した若き近衛騎士は、ただじっと立ったまま、スライムに視線を注いだのである。


「………………」


「………………」


 騎士と魔物……。

 まったく性質が異なるものたちの視線が、交差した。


「お、おい……」


 キースが危惧したのは、かように隙だらけな姿を晒して、スライムが攻撃してくるのではないかということである。

 背後から不意を打ったとはいえ、馬上のキースを叩き落としたことから分かるように、弱いとはいえ、スライムの突進力はなかなかのものがあった。


 また、人や獣のような歯は持たないが、ともかくも、噛みつくに足る口は備えている。

 ピエールの鎧は、胴部を除けば腰回りと肩を守るだけであり、腕部や脚部は下地を着込んでいるだけだ。

 そういった箇所に攻撃されれば、回復呪文を使えるとはいえ、無駄に痛い目をみると思えた。


「何を……」


 呼びかけるキースに対し、ピエールはスライムと見つめ合ったまま答えない。

 しかし、それこそが、彼の出した答えだったのである。


「………………」


 不意に、スライムが顔……というよりは、自身の身体そのものを逸らした。

 そして、そのまま元いた茂みの中へと入り……。

 がさがさという音と共に、気配を遠ざけていったのである。


「済みました」


 背後を振り返り、ピエールが告げた。

 面の下に隠れた視線が向けられるのは、キースでも、ましてや馬車を操る御者でもなく……。

 車窓から身を乗り出し、状況を注視していたバサタ姫を置いて他にない。


「そう……よかった」


 麗しき姫君はそっけなく言って、馬車の中へと戻ったが……。

 垣間見えたその表情は、心底から安堵したものだったのである。

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