後編

 悲痛な叫びが辺りに響く。千夏がベランダから乗り出して下を見ると、マグは自転車のカゴに無事、着地に成功していた。カゴの中に厚めのバッグが入れられていたので何とか助かったようだ。

「そこ、そこを動くんじゃないわよ!!」

 千夏が言うと、自転車の持ち主であるおじいちゃんは「あぁ!? なんじゃってぇぇ??」と聞き返すが、千夏はもうベランダにいない。

 体力がどーの言っている場合ではなかった。千夏は走った。足がもつれそうになりながら走った。そして、先ほどの場所に辿り着くが自転車がない。辺りをキョロキョロと確認すると、ふらふらと危なっかしい様子で自転車を運転するおじいちゃんが見えた。

「待ってー! 待ってくださぁぁぁい!!」

 自転車に追いつくと、カゴを確認。マグは千夏の鬼のような形相に恐れ慄き、カゴからぴょんと抜け出した。

「あぁ〜れっ」

 気の抜けるような声を出すおじいちゃんに見向きもせず、千夏はまた追いかけっこを再開する。

「割れるからやめてってばー」

 もう泣きたい気持ちであった。追うのをやめてマグを自由にさせてあげることもできる。でも千夏はそうしたくなかった。あのマグをどうしても諦めることができないのだ。

 マグは時に転がり、時に跳ねながら、道を進んでいく。割れずに済んでいるのが不思議なくらいのアクティブさである。千夏はそれをひたすら追う。

 そして、ある公園のベンチの前で、マグは立ち止まった。

「ここって……」

 千夏の甘い記憶が蘇った。


 弘樹と付き合って初めてのデートの日。その帰り際、なんとなく離れがたくてこの公園に寄り道をしたとき、弘樹がひとつの袋を手渡してきた。開けるとそこには箱がひとつ入っており、中身は桜色のマグカップだった。千夏が雑貨屋で見かけて気に入ったものの、金欠だったために買うのを諦めた品だった。

「長いこと見てたから」

 弘樹は照れくさそうに笑っていた。千夏は嬉しくて思わず弘樹に抱きついて、そのまま二人はキスをした。


「今更なんで思い出させるのよ〜。あぁ、もう認める。未練があるって認めるわよ」

 千夏はその場にへたり込む。本当はショックだった。やり直せるなんて思っていたわけではないのに。弘樹の結婚は千夏にとって大打撃と言ってもよかった。弘樹と別れたあと、千夏にも恋愛のチャンスはあった。でも誰とも付き合わなかったのは弘樹の存在が千夏の心の片隅に残っていたからに他ならない。弘樹にもらったマグを捨てられないのが、その証拠だ。

 マグは、へたり込んだ千夏の目の前で、じっと佇んでいる。どこが目なのかわからないが、こちらを見つめているような気がした。

「何よ。あんた、私を笑いたいわけ?」

 千夏が睨みつけると、マグはふるふると左右に揺れた。否定しているらしい。

「じゃ、何のためにここにきたのよ」

 すると、マグはまた移動を始めた。

「次はどこに行くのー」

 スタコラと進んでいくマグに、千夏は渋々ついて行くことにした。

 しばらく歩いて辿り着いたのは、「フルール」というケーキ屋さんだった。

「……私を思い出に浸らせたいの?」

 こじんまりとしたこのケーキ屋さんは、二人のお気に入りのお店だった。クリスマスや誕生日にフルールのケーキを買うのが定番だった。喧嘩した翌日、きまり悪そうにここの焼き菓子を手渡してきた弘樹の姿を今も鮮明に思い出せる。

「うぅ、忘れられなくなるじゃん」

 千夏がベソをかきはじめると、マグは何か言いたそうに、その場でダンッダンッと跳ねた。

「何? 怒ってんの?」

 マグはまた地団駄を踏むようにダンッダンッと音を立てる。

「ねぇ、割れるからやめてって何回言わせるのよ」

 そのとき、千夏はフルールに紐付いたもう一つの出来事を思い出した。


 あれは十一月のことだった。千夏はその日、予定よりも早く仕事が終わったため、その足でフルールへ向かっていた。甘いお菓子が食べたかったのと、クリスマスケーキの予約もついでに済ませてしまおうと思ったからだ。

 近くまで来たときだった。お店の扉が開き、そこから弘樹が出てくるのが見えた。弘樹も予約にきたのだろうか。予約は任せると言っていたのに、と千夏は首を傾げながら駆け出そうとした。しかし、千夏の足は動かなかった。弘樹の後ろから、ボブカットの女の子が出てきたからだ。寒いのにミニスカートを履いて細く綺麗な脚をさらけ出している彼女は、弘樹が差し出した手に手を重ねた。そして絡めるように繋いだ手は、二人の親密さを物語っていた。

 千夏は寄り添うふたつの背中が見えなくなってもその場から動くことができなかった。


「そうだよ。最低だった。弘樹は、最低だった」

 今でも涙が出そうになる。悲しい、という気持ちと同時に、あの時の怒りが蘇る。

 以前、梓が「浮気を知った瞬間、一気に冷める」と話していたことがあるが、千夏は違った。裏切られたと頭ではわかっていても、心はそれを受け入れられなかったし、好きという気持ちも消えなかった。千夏はあのとき、自分が見たものを忘れてしまいたかった。

 そう。だから千夏は、何も見なかったことにした。弘樹を問い詰めることも別れを切り出すこともしなかった。梓にすら話していない。

 それでもやはり亀裂は元に戻らない。二人の間に流れる空気は明らかに以前と違うものになった。どこか余所余所しく、薄い膜で隔てられているような感じがあった。次第に連絡の頻度は落ち、会う回数も減っていった。

 それから程なくして結局、二人は別れた。浮気の事実はお互い最後まで明言しなかった。

 あの頃の涙をいつも受け止めてくれたのが、マグだ。マグは千夏の全てをずっと見ていた。

「もう、なんなわけ。あんた、私をどうしたいの」

 千夏がそう言うと、マグはさっきより一層強く、体を地面に叩きつけ始めた。マグにはもう既に、ヒビが入っている。さっきの逃走劇のせいでできたものだ。

「ねぇ、何してんの」

 ドンッドンッ。ヒビはだんだん大きくなる。

「やめてよ。もう帰ろう」

 ドンッドンッドンッ。マグは叩きつける力を次第に強くしていく。

「お願い、マグ」

 千夏の頬に涙が流れた瞬間、マグは割れた。さっきまで跳ね回っていたマグはもうピクリとも動かなかった。千夏は泣きながら割れたマグの欠片を拾い集める。もう戻りはしないのだ。

「わかった。わかったわよ。ちゃんと捨ててやるわ」

 千夏はスウェットの袖でゴシゴシと乱暴に涙を拭う。

「大丈夫ですか? 片付けましょうか?」

 頭上から声がして顔を上げると、フルールの店員さんが立っていた。手にはホウキとちりとり。

「すみません。お願いします」

 千夏がぺこりと頭を下げると、店員さんは「いえいえ」と微笑んだ。

「大切なマグカップだったんですね」

 店員さんの言葉に千夏は頷く。

「はい。でも、そろそろ手放さなければなければならないものだったので」

 部屋に戻ったら梓に返信をしなくちゃ、と考えながら、千夏はにっこりと笑った。





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逃走するマグカップ 楠 悠未 @hanamochi_ifu

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