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 いつもぎらぎらと希望を宿していた瞳も色褪せ、溢れんばかりに輝いていた白銀の髪の毛は今、破れた蜘蛛の巣のように瓦礫の下を這っている。頬に触れてみると、氷のように冷たい、乾いた、生気のない肌だった。何度呼び掛けても、反応がない──記憶の中の彼女は、あんなにも溌剌としていたというのに。


 フエルテに戻ったときにはもう、ベルソフは灰色の骸になっていた。自分がもっとしっかりとしていれば、守れたはずなのに。崩壊のとき、隣にいてやることができたはずだった。せめて、彼女を一人で死なせずに済んだはずで。


 ──自分は、彼女の信頼に値しなかったのだ。


 化け物ポーヴェヒと人類の生存を賭けた戦いの中、じりじりと後退していく前線に取り残された砦で、アシャリは兵士として、そしてベルソフは技術者として、最善を尽くそうと足掻いていた。彼女も、自分も、まだ諦めてはいない。少なくとも、アシャリはそう信じていたのだ。


「アシャリ、ちょっと来てくれたまえ。君に渡したいものがある」


 決戦前夜、と言っても良かった。どうにかこうにか維持していた現状が崩壊する間近のことである。その頃には補給も途絶えていて、職員たちはみな憔悴し切っていた。ベルソフはどうにか意味結界アンブレラの大型化ができないかと苦心して、なかなか果たせず、追い詰められているのが傍目にも分かったほど。


 呼び掛けられて、アシャリは何の疑問も抱かずに素直に近づいた。「どうしたんだ」と言い終わる前に、腰元へベルソフの手が伸びる。驚いて身を硬くした刹那、ばちばちと弾けるような痛みが走った。


「何を……っ!」


「装置を接続しただけだ。私の特別製でね。意味結界のためにも、しばらく手が離せなくなるから、君が私の知らないところでくたばったりしないよう、お守りに」


 アシャリは体を見下ろした。さきほど痛痒を感じた辺りから、無数の管が生えている。関節が幾つか付いており、きゅるきゅると、軟体動物のように蠢いている。「歩行補助機チューブ、か?」と問うと。


「まあ、そんなところだね。君の専用機、とでも言えば喜んでくれるだろうか。そのように調整してある」


「へえ」


 そのときは何も疑っていなかった。久しぶりにベルソフの笑みを見たからかもしれない。まるで死にゆく母親のように、穏やかな笑みだった。それに気が付かなかった。気付けなかった。


 翌朝アシャリが目を覚ますと、彼は自室のベッドではなく、砦が化け物の群れに呑み込まれていく様を遠く見下ろす丘陵にいた。足元では歩行補助機がきゅるきゅると動いている。一歩また一歩と進む鋼鉄の触腕を草が撫でていた。


「……は?」


 ──あれを止めなければ。


 大切だった居場所の終わりを目の前にして、真っ先に体が考えたことはそれだった。頭が追いつくのも待たずに駆け出す。途端、足を引っ張られるようにして倒れ込んだ。


「おい、何している。やめろ」


 黒いチューブが足に絡みついている。これでもアシャリは戦闘員だ。この程度の拘束、抜け出せないことはない。だのに、解けなかった。気持ちばかりが焦る。引きちぎろうとして、頭をベルソフの顔が過ぎって、躊躇ってしまった。歩行補助機は、まるで幼子が必死にしがみつくようにして離れない。底なし沼のようだと思った。


 消えていく。塗り潰されていく。ベルソフのいるはずの場所が。彼女が愛して、守ろうとした砦が。


 アシャリは値しなかった。彼女に希望を抱かせ得る存在には、なれなかったのだ。


 歩行補助機が拘束を緩めたのは、全てが終わって、化け物たちが次の餌場を求めて去っていった頃だった。まるで転がり落ちるように走る。ベルソフ、──ベルソフ! お前が死ぬはずがない、きっとお前も脱出しているはずだ、そうだよな──? 必死に自分へ言い聞かせる。走る。ベルソフ、お前だけは──


 残っていたのは瓦礫の山だった。白亜の壁は塗料の下の混凝土コンクリートを露わにし、剥き出しの機械が火花を立てて燻っていた。長靴ちょうかの下でガラスの割れる音がする。


 アシャリはそこで、魂の片割れの亡骸を見た。

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