第20話 春斗の初恋


〈春斗〉


 春斗は昔から周囲の人間から冷めていると認識されている。

 だが、それはまったくの誤解だ。

 本当の春斗は馬鹿がつくぐらい素直で、正直で、好き嫌いが激しい。

 春斗は周囲に無関心なのではなく、1と0しか知らないだけだ。

 それと決めたことは何が何でも守り通す。

 気に入ったものはいつまでもいつまでも大事に大事に手元に置いておく。

 不器用であり、純粋すぎるほど一途な男だ。

 それが春斗という男である。

 頑固親父、熱血漢、昭和どころか戦国時代の武将ばりの熱い内面に反し、笑えるぐらいに春斗の顔は少女漫画のヒーロー、それも冷たく心を閉ざし、過去にトラウマを抱える冷酷な美青年仕様なのだ。

 それは悲劇であり、喜劇でもある。

 だが、当の春斗は逆にこうも考えた。

 物心がつくかつかないかぐらいの年齢に、皆が自分を冷静沈着な人間だと思い込んでいる現状はさほど悪いものではないと。

 元から人と会話するのは得意ではないし、むしろ煩わしい。

 優しい男よりも無言で全てを完璧に熟す男の方がカッコいいはずだ。


 リーダー格の熱血レッドやクールな青を通り超して春斗は敵か味方かも分からないミステリアスなブラックになりたかった。

 正義の味方が窮地に陥った時に颯爽と現れて皆を救い、無言で立ち去るようなそんな男に、幼い頃の春斗は本気でなりたかったのだ。


 だから春斗は人知れずに努力を重ねた。

 吐きそうなぐらいに不味い牛乳を毎日飲み続け、愛犬と毎朝トレーニングし、人気のない公園でこっそり逆上がりの練習などもした。

 人知れず(親を抜きにして)クールで知的なナイスガイを目指して頑張る春斗の計画は完璧だった。


 そんな春斗には年相応に好きな女の子がいた。

 春斗は髪の長い女の子が好きだった。

 髪の長い女の子は女の子らしいから、というのが春斗の主張である。

 当然のように一目惚れした女の子は綺麗な黒髪を長く伸ばしていた。

 春斗の知るどの女の子よりも綺麗な黒髪にはいつもキラキラ輝くアクセサリーやリボンが光っている。

 ひらひらふわふわとしたドレスのような服を来て、優しそうな母親にだっこされている姿はどこかのお姫様のようだ。

 恥ずかしがり屋なのか、初めて公園で挨拶したときは雪のような白い肌を真っ赤にして今にも泣きそうな顔で母親の胸に顔を埋めていた。


「ごめんなさい。この子、身体が弱くてあまりお友達と遊んだことがないものだから、きっと怯えちゃったのね」


 よしよしと慈しむように小さな背中を撫でる女の子の母親の声はまるで子守歌のように柔らかく愛情に満ちていた。


「雪子っていうのよ。仲良くしてあげてね?」


 雪子。


 なるほど、確かに雪のように白くて儚い女の子にはぴったりの名だと思った。


「春斗君っていうの? この子、貴方のことが気に入ったみたい。春斗君、雪子のお気に入りの絵本に出て来る王子様とそっくりなんですもの」


 母親の言葉に反応するように、涙で潤んだ目でちらっと雪子は春斗の顔を盗み見し、慌ててまた目を伏せた。

 その仕草が小動物のようで春斗は胸の奥がむずむずするような感覚を抱いた。


「これからも、雪子と仲良くしてね」


 雪子の母親の言葉に春斗は大きく頷いた。

 一瞬だけ見た、雪子のはにかんだような笑みに春斗は幼いながらも自分が恋に墜ちたことを自覚していたのだ。

 母親経由で初対面を果たしたせいか、或いは春斗が不器用ながらも必死に雪子の恐怖を和らげようとあの手この手を使い機嫌をとったおかげか。

 人見知りが激しすぎる雪子はいつしな春斗にはとてもよく懐いた。

 それがより春斗の自尊心や優越感を煽ぎ、気づけば春斗は雪子に夢中だった。

 皆にカッコいいと思われる男になりたいという幼稚な春斗の願いはいつしか雪子に頼られる、好かれる男になりたいに変貌した。

 それだけ雪子はとても可愛らしく、目が離せなくなるような、危さがあったのだ。


 雪子は本当に身体が弱く、臆病な子だった。

 見慣れないお姫様のように着飾った子がある日突然公園に現れば周りの注目を浴びる。

 実際に雪子に声をかけて一緒に遊ぼうと誘う女の子もいた。

 だが、雪子は春斗以外の子からの視線に怯え、いつも慌てて自分の母親か春斗の後ろに隠れてしまう。

 雪子の傍にはいつも彼女の母親がおり、病弱な娘の様子をいつもにこにこと見守っていた。

 その母親に泣きつく雪子をおろおろと不安そうに遊びに誘った女の子達が見ている。

 親切心で誘った彼女達に雪子の母親は心底申し訳ないような、哀し気な表情を浮かべて謝った。


「ごめんなさい。貴方達が悪いわけじゃないの。雪子には一つ年上のお姉ちゃんがいてね、そのお姉ちゃんがいつもいつも雪子のことを苛めるから、雪子はとても臆病になってしまったのよ」


 雪子を慰めていた春斗はそのとき初めて雪子に姉がいることを知り、素直に驚いた。

 一つ年上ということは春斗と同い年のはずだ。

 でも、一度も春斗は雪子の姉を見たことがない。

 また、一度も雪子の母親が雪子から離れているのを見たことがなかったのだ。

 身体が弱い雪子は今は幼稚園にも通えずずっと家で母と二人きりだという。

 だから、雪子に姉がいるのも、雪子の母親が二児の母であることも、春斗には強い違和感があった。


 そして謎に包まれた雪子の姉との出会いは春斗にとって最悪な出会いとなる。

 後から聞くと苑子の方は春斗のことを一方的に知っていたらしい。

 小学校だけではなく幼稚園も同じだったのだが、何事も興味関心の波が激しい春斗は当時の苑子をまったく意識していなかったのだ。

 春斗が苑子に苑子として出会ったのはある日の夕暮れのことだった。

 卒園し、漸く小学生になったばかりの春斗は毎日早く雪子が小学生になることを望み願っていた。

 気の早い話だが、会える時間が減ってしまったことに春斗は内心でひどく落ち込んでいた。

 雪子もまた哀しみ泣いていることが唯一の救いだ。


 その日、春斗は公園の一番高い鉄棒に挑戦しようと周囲に人気がなくなるのを確認してからこっそり逆上がりの練習を始めた。

 明日の体育は鉄棒をやるのだ。

 入学したばかりの一年生でこの高さをクリアできる者は当然ながらいない。

 そもそも低学年向けの高さではないのだから。

 そんなことは百も承知の上で春斗は自分がその一番にならなければならないと張り切っていた。

 見た目と違い春斗は無謀なチャレンジが大好きなのだ。

 そして雪子の尊敬するようなキラキラとした眼差しを思い浮かべ、何度も何度も挑戦する。

 気づけばもう空に星が見えるぐらい暗くなっており、さすがに夢中になりすぎたと汗でびしょびしょの額を撫でながら春斗はもう帰ろうと思った。

 門限はとっくに過ぎており、もしかしたら仕事帰りの母親が慌てて春斗を探しているかもしれない。

 さすがの春斗も親の雷はまだ怖いのだ。


 早く帰って謝ろうと思ったとき、春斗は漸く気づいた。

 じっと、ブランコに座りながらこちらを見ていた存在に。

 視線が絡み合った直後、火照た体に冷水をぶっかけられたような錯覚を春斗は抱いた。


 見られた。


 よりにもよって「雪子」に。


 一瞬、春斗は雪子に格好悪いところを見られたと絶望したが、すぐにそれは雪子とはまったく違うものだと分かった。

 何故なら、雪子はそんな風ににたにたと笑わない。

 雪子はいつもはにかむように、野原に咲いた小さな花のような笑みを春斗に向けるのだから。


「もう止めちゃうの? あともうちょっとだったのに」


 思わずムッとしてしまうような、小馬鹿にするような見知らぬ女の子の台詞に春斗の表情筋は相変わらずいい仕事をしてくれた。


 誰だ、こいつというのが率直な感想だ。


 内心では悔しいやら恥ずかしいやら、誰かに言いふらされるのではないかと怯えたが、春斗が出した結論は無視だ。

 それに、その女の子は髪もぼさぼさで服も皺だらけで地味だった。

 男の春斗の服装の方が華やかな気さえする。

 頭の先から色褪せたスニーカーまで値踏みし、春斗は関わらないでおこうとその場を立ち去ろうとした。


「よっ、と」


 ブランコから飛び降りた女の子は春斗の冷たい態度を気にすることなく近づいて来る。

 立ち去ろうとした春斗だが元来の負けず嫌いが発動し、思わず睨みつけたままその行動を見守った。

 春斗の睨みはその顔立ちの良さも相まって年に似合ず大層迫力があったが、女の子はけろっとしている。

 そして、春斗が挑戦していた同じ高さの鉄棒に当然のようにほっそりとした両手を置く。

 訝し気な視線を向ける春斗に、女の子はにやっと笑った。

 そのとき春斗はどうしてこの女はこうも嫌な笑い方しかできないのか、と思ったそうだが、すぐにその思考は霧散した。

 春斗はいつもの無表情が嘘のようにぽかーんと目を丸くして女の子を、隣りの自分が挑戦していた鉄棒に捕まり軽々と一回転した女の子を凝視した。

 テレビで見たどこかの雑技団のような軽い身のこなしだ。

 一気に身長を抜かれ、上から見下ろされる形となった春斗は随分と気の抜けた表情を晒していたらしい。

 けらけらとそんな春斗の間抜け面を女の子は笑った。


「こんなのも出来ないなんて、噂の春斗君って本当は大したことないんだね」


 薄紫の空を背景に、無邪気に笑う女の子。

 無邪気というには聊か邪気が強い気もするが。


 これが苑子との、春斗の生涯の天敵との出会いである。




*




 窓から関係が破綻したはずの苑子と秋が寄り添うようにして帰るのを見た。

 視力の良い春斗が目立つ容貌の二人を見間違えるはずはない。

 相変わらず歩きスマホを止めない苑子に楽し気に、頬を緩ませて話しかける秋。

 二人の距離感や、秋のでれでれとした顔。

 どこをどう見ても、恋人同士である。

 それも、彼氏の方が夢中になっているパターンの。


 春斗の中で何故という戸惑いと混乱はすぐに消え去った。

 悠長に理由を考えている暇などない。

 結果が大事なのだ。

 春斗の目に映る憎たらしい二人の背中。

 今朝のように連れ添って歩くことはもうないであろうと思っていた。

 元から歪な関係をわざわざ春斗は「修正」してやったのに。


 失敗した。


 春斗の決意を、思い全てを嘲うかのように、秋を見上げた苑子の横顔に笑みが浮かぶのが見えた。

 なんの偶然か皮肉か。

 大勢の生徒がひしめき合う校門前で、苑子は何気なく後ろを振り向き、春との視線に気づいたようだ。

 昔から、暗い部屋にも構わずに漫画やゲーム、スマホの画面を見ているくせに、苑子の視力は春斗と同じくらい良かった。

 春斗が苑子の無防備な表情を見たのはいつ以来だろう。

 その後に浮かぶ、苑子の勝ち誇ったような嘲り笑いに、春斗は全身が燃えるような錯覚を覚える。

 情けない顔で春斗に気づきもせず、甘えるように苑子に顔を近づける秋と、それを拒否せず、また春斗に一瞬の嘲笑だけを向けて歩き去って行く苑子に、春斗は強い憎しみを抱いた。

 苑子に対して殺意にも似た衝動が湧き上がる。

 今すぐに飛び出して、その華奢な首を締めたくなる。


 春斗は遠ざかる二人の姿をしばらく睨みつけたが、決して追いかけるようなことはしなかった。

 衝動のまま、苑子に対峙することの愚かさを春斗は学んでいる。

 今の春斗が真っ先に気にかけなければならないのはあの二人、いや苑子ではない。

 熱くなっていた春斗の熱を冷ますように、目の前の窓の硝子に水滴が静かに落ちて来る。


(雪子)


 そうだ、雪子だ。

 今、彼女はどこにいる、どこでどうしている?

 誰よりも繊細で壊れやすい幼馴染の泣き顔が目に浮かび、一気に全身が冷えた。


 雪子を探さなければ。

 それは一種の強迫観念だった。

 探して、見つけて。

 それで一体どうするのかも分からないまま。

 何も分からないまま、春斗は周囲の視線に構うことなく校内を走り回った。


 雪子、雪子。

 早く、見つけなければ。

 きっと、今も独りで泣いているあの子を。

 姉に虐められて泣くあの子を。



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