第18話


 苑子が音楽室で不貞腐れる少し前のこと。


 桜の花びらがまるで雪子と秋の未来を祝福するように舞い落ちる裏庭で。


「ごめん、俺、苑子先輩と昼飯の約束してるんだ」

「え……」


 意味が分からないとばかりに当惑する雪子に秋はその足元に転がったままの弁当箱を拾い渡す。


「中身無事だといいな。じゃっ!」


 きらめくような爽やかな笑みを浮かべる秋。

 そのまま立ち去ろうとする秋の服を咄嗟に雪子は掴んだ。

 雪子は自分の大胆な行動に慌てながらも、特に怒ることもなく首を傾げる秋に理由の分からない焦燥が募る。


「ん? 何?」

「ま、待って! どうして…… お姉ちゃんのこと……」


 まだ姉のことが好きなのかという問いを雪子は呑み込む

 そんなはずはないと、必死に嫌な予感を振り解き、落ち着けと自分に言い聞かせた。。


「もう、いいんだよ? 秋くんはその、優しいから…… でも、もうお姉ちゃんのことは、忘れた方がいいよ…… きっと、苦しむのは秋くんだもん……」


 秋が傷つかないことを願い、雪子は祈る様にその顔を見上げた。

 だが、雪子の想像を裏切って秋はなんてことのない顔で笑った。


「ああ。そういうことか」


 苑子のことになると途端に視野が狭くなる秋だが、別に特別鈍いわけではない。

 雪子の話もよくよく理解して、納得しながら聞いていた。


「ありがとう、心配してくれて」

「そ、そんな…… ありがとう、だなんて……」


 耳まで赤くして俯く雪子に秋はにこにこと感謝の気持ちを伝える。

 早く苑子を探しに行きたい気持ちはあったが、雪子に対する感謝の気持ちもきちんと伝えたかった。

 感謝といっても、きっと雪子は嬉しくないだろうが。


「俺、本当に雪子さんには感謝してるんだ。こんなこと言うのは変だけど、本当に嬉しかった。雪子さんに好かれてたことが」

「……っ」

 

 秋の言葉に、雪子の頬が鮮やかに色づき、ふわっと、まさに花開くような可憐で慎ましやか笑みがその小さな顔に浮かぶ

 長い前髪や眼鏡が本当に邪魔だと思うぐらい雪子は可愛らしかった。

 目を潤ませながら上目遣いで見られた秋は内心で感嘆したほどだ。

 以前苑子にも言ったが、雪子は容姿が整っている。

 そして今はどこか清廉な色気すらあり、こんな顔で見られたらどんな男でもイチコロだろうなと秋は思った。

 そんな雪子に好かれていたことを秋はまったく知らなかった。

 秋は確かに異性にモテていたが、奥ゆかしい雪子は秋の周りにはいないタイプだ。

 見るからに大人しそうな雪子が勇気を振り絞って必死に苑子に噛みつき、また見ただけで心が痛むような表情で罪悪感を口にする姿には一種の感動すら覚えた。

 雪子がそこまで強く自分を想っていることに秋は興奮したのだ。


「……私、秋くんのこと、好きなままでも、いいの…………?」


 だからこそ、雪子のその言葉に秋は驚き、その細い肩を掴みながら強く肯定した。


「当たり前だろ! むしろ俺はもっと雪子さんに好かれたい」


 秋のその真剣な表情に、雪子はじんわりと身体の中心から熱くなるのが分かった。


「め、迷惑じゃ、ない……?」

「じゃない」


 秋の言葉に雪子はまた泣いてしまった。

 一体どれぐらい泣いたら涙が涸れるのかと不思議に思うほど。

 泣いた雪子に慌てる秋を見て、雪子は泣き笑いを浮かべた。


「ふ、ふふ…… ごめんなさい…… 嬉しくて……」


 嬉しすぎて、涙が止まらない。

 慰めて来る秋の手の温もりを堪能しながら、雪子は幸せいっぱいに泣いた。

 一層このまま秋の温もりを感じながら死にたいと思うほど幸せだ。


「……俺も泣きそうなぐらい嬉しかったよ」


 秋の落ち着いた声が耳を擽る。

 次に秋は何を言うのだろうかと、雪子の胸が期待で高鳴った。

 幸せに酔い痴れる雪子に、秋は愛し気に囁く。


 秋もまた、自身の幸福に、「幸運」に酔っていた。


「雪子さんが俺を見つけてくれたことが、俺を好きになってくれたことが、嬉しくて仕方がないんだ」


 あまりにも擽ったい秋の熱の籠った告白に雪子はうっとりとその顔を見上げる。

 恋しい男を見る雪子の視界に、秋の精悍な顔が映った。

 秋もまたうっとりと恋に溺れるような目で雪子を見つめていた。


「雪子さんのおかげだ。ありがとう、本当にありがとう」


 ただ、

 


「雪子さんのおかげで、俺は苑子先輩と付き合えた」



 その視界に雪子は映っていなかった。


「……え?」


 そのことに気づいたとき、雪子の涙は止まった。

 拍子抜けするぐらいあっさりと。

 呆然とする雪子に構わず、秋は照れたように語り続けた。


「俺、最初苑子先輩に告ったとき、正直無理だろうなって思ってた。あんな綺麗な人が、俺みたいな年下とか相手にしないだろうって」


 秋は昨日の情景を思い浮かべながら、喋り続ける。

 固まったままの雪子を放置して。


「でも、それはもう覚悟してた。とにかく俺の存在だけでも知って欲しくて、振られた後も何回でも何十回でも、しつこいぐらい告り続けようって決めてたんだ。持久戦なら勝ち目はあると思って」


 実際に昨日の秋はもうとにかく必死だった。

 自分から告白するのは初めてであり、いくら剛胆でマイペースなところがある秋でも色んな噂を抱える苑子はしょっぱなからレベルが高すぎた。

 苑子に鬱陶しがられて嫌われる可能性もあったが、何度も何度も押しかければ面倒くさがって一度はチャンスをくれるかもしれない。

 ちょっとでも興味を持ってくれれば万々歳だと、自分に言い聞かせながら告白をしたのだ。


 そんなことを怒涛の勢いで喜々として秋は雪子に語った。


 雪子には酷な話かもしれないが、ずっと誰かに自分の決死の覚悟を聞かせたかった秋はもう止まらない。


「だから、なんで苑子先輩、俺と付き合ってくれたのかなって昨日からずっと考えてたんだよ。だって、苑子先輩年下は苦手だって噂だし…… 俺みたいなビジュアルも性格もタイプじゃないっぽいし……」


 噂に聞く苑子の歴代彼氏の特徴を分析しても、秋が彼らと共通するのは「顔がいい」ぐらいだ。

 そのときに春斗の名前も出たが、実際に付き合った形跡がなかったため秋はスルーしてしまった。


「いくら今が幸せでも、不安になるというか…… 苑子先輩が俺のどこを好きになったのか、気に入ったのか分からないと対策が立てられないだろう? いつ苑子先輩に捨てられるか、飽きられるかってずっと悩んでいるわけにもいかないし……」


 そう。

 苑子と付き合えたことは確かに嬉しい。

 死ぬほど嬉しい。

 だからこそ秋は心の片隅で不安を覚えていた。

 一体苑子は秋のどこを好きになってくれたのか。

 ただの暇つぶしならば、このチャンスを逃さずに積極的にアプローチができる。

 でも、もしも苑子に明確な理由があった場合、どうにかそれを生かさなければならない。

 そうしなければいつか苑子に捨てられてしまうだろうと漠然と秋は確信していた。


 秋の知る苑子は、そういう女だからだ。


 そんな苑子を承知で秋は告白をした。


「だから、さっきの苑子先輩の言っていることを聞いて、俺すっげぇ納得したの。むしろほっとしたぐらい」


 心底安心したような、満面の笑みを浮かべて秋は語る。


「なんで苑子先輩が雪子さんに嫌がらせしたいのか知らないけどさ…… ああそうなんだって思った。雪子さんが俺を好きだから、だから苑子先輩は俺と付き合うことにしたんだって分かったとき、滅茶苦茶納得した」

「……あ、き、くん?」


 雪子の生気のない顔色を気遣いながらも、秋は止まらない。

 目の前の雪子は秋にとって、まさに幸運の象徴だ。

 どこか苑子の面影を見せる雪子に、秋は苑子がこの短期間で見せてくれた色んな表情を思い出していた。

 最後に思い出したのは、あの日見たあの表情だ。


 あのとき秋は、恋に堕ちた。


「全部、雪子さんのおかげだ! 雪子さんが俺に惚れてくれたから、苑子先輩が俺に興味を持ってくれた…… 俺と付き合う価値があるって思ってくれた」


 今にも死にそうな顔で呆然と自分を見上げて来る雪子が愛しかった。

 苑子が雪子を嫌う理由なんて知らないし、今は必要ない。

 今、一番重要なのは、もっと別のことだ。


「ありがとう、俺を好きになってくれて」


 雪子にとってはきっと酷い話だろうが。

 それでも秋は雪子に感謝した。

 残念ながら、とうの雪子は秋が何を言っているのか、まだよく分かっていなかったが。


「……雪子さんに、お願いしたいことがあるんだ」


 涙すら枯れて、幸せから一転。

 怯えるように秋から逃げようとする雪子の肩を強く掴む。


 少しでも、長く、苑子の心を繋ぎとめるために秋は全力を尽くすと決めたのだ。

 この幸運を、チャンスを逃す気はない。


「これからもさ、ずっと俺の事、好きでいて欲しいんだ」

「あ、きくん……?」


 もうこれ以上秋の声を、話を聞きたくないとばかりにいやいやする雪子に秋は容赦がなかった。


「雪子さんの気持ちには応えられない。でも、嬉しいし、出来ればずっとそのまま俺に惚れてて欲しい。すげぇ、我儘だって分かってる。酷いこと言ってるって。でも……」

「やぁ…… は、なして」


 秋の言葉に熱が籠る度、興奮するたびにその身体が熱くなるのが雪子にはわかった。

 その熱が怖ろしくて、悍ましくて仕方がない。


「苑子先輩に、俺と付き合う価値があるって思ってほしいんだ。俺も頑張って苑子先輩に、俺自身に惚れてもらえるようにするから。だから、しばらくはまだ…… 俺のこと好きでいてくれよ。なっ?」

「……っ」


 答えられない雪子に、秋は初めて冷たい眼差しを向ける


「……好きならそれぐらい、できるよな?」


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