第17話


 昔の話だ。


 苑子がピアノを辞めた日のこと。

 突然教室を辞めるという苑子と珍しくも付き添って来た母。

 普段は厳しいピアノの先生が、焦ったように母を説得するのを苑子はぼんやり蚊帳の外で聞いていた。

 内心で先生が焦るのも無理はないと思いつつ。

 もうすぐ発表会があり、苑子もまた珍しく真剣に練習していたことを、その先生は嬉しそうに応援してくれていたのだから。


『本当にごめんなさい、先生。この子、いい加減で飽きっぽくて。初めからピアノを続けるのが無理だったんです。ご迷惑をおかけして、他の子達にも本当に申し訳ないと思っています』


 心底申し訳なさそうに平謝りする母の背中を見ながら、苑子は何も言わない。


『この衣装も…… せっかくのご厚意は大変有難いんですけど、この子にはやっぱりもったいないです。お返ししますわ』


 母が丁寧に差し出した紙袋の中には発表会で着る予定だったドレスがある。

 教室の先生がいけないことだと知りながら、こっそり苑子に渡してくれたものだ。

 とても綺麗なドレスだった。

 もしかしたらピアノよりもその衣装を着た自分を皆に披露したいという気持ちの方が強かったのかもしれない。

 だからきっと難しい課題曲にも挑戦しようと思えたのだ。

 当時の先生はそれを人参にして苑子のやる気を引き出していた。

 苑子がどれだけそのドレスを気に入っていたのか知っていた先生はもうあげたものだと、だから返さなくともいいとさえ言った。


『いいえ、先生。これはお返しします。もっとこのドレスが似合う子が他にたくさんいますもの』


 やんわりと困ったように笑うばかりの母に、先に折れたのは先生の方だ。


『……本当に残念です。苑子ちゃんには才能があり、その成長を見るのが私の楽しみでした』


 見送られる際、ずっと黙っていたままの苑子の頭を、長く伸ばした髪の毛を一筋手に取って、先生は本当に残念そうに苑子に語り掛けた。


『せっかく、発表会のために伸ばしたのにね……』


 まだ幼い苑子は無性にそのとき、泣きたくなった。

 そして、笑いたくなった。

 別に苑子は発表会のために髪を伸ばしたわけではない。

 苑子は厳しくも、決して嫌いではなかった先生に、初めて自分の秘密を打ち明けようと思った。

 だから、こっそり先生に耳打ちしようかと思ったほどだ。


『苑子に才能ですか?』


 でも、結局母の前でそれをする勇気が当時の苑子にはなかった。


『まさか。そんなもの、この子にあるわけないじゃないですか』


 先生の手の代わりに母の手が苑子の頭に置かれる。


『この子は本当に、何もできなくて。お姉ちゃんなのに、ちっとも言うことを聞かない、困った子なんですよ』


 そのときの髪の毛が軋む痛みを今でも覚えている。


『それよりも先生。どうか雪子のことを大事に見守ってやってください。あの子、とにかく身体が弱くて…… でも、とっても大人しくて優しい子なんです。何かあったらすぐに連絡をください』


 もう苑子の存在を忘れた母の姿を見ながら、苑子はもう伸ばす意味のない髪を切ろうと思った。

 髪を伸ばしたところで、本当に褒めて欲しい者は結局苑子を見てはくれないのだから。







 そして、今現在。


 目の前の光景を見て「まあ、そうなるよな」というのが苑子の率直な意見だ。

 見つめ合う男女。

 慈しむように、誰が見ても好意が透けて見える熱い視線を妹の雪子に注いでいるのは苑子の彼氏だ。


(いや、元か)


 これはもう完璧にアウトだろう。

 誰が見ても。

 秋のあの対応も、今のあの表情も。

 それをうっとりと受け止める雪子の、今にも抱かれたそうな女の顔も。

 身から出た錆とはいえ、一抹の虚しさを感じる。

 悔しいことに、苑子が手さえ出さなければ秋は永遠に雪子の好意を知ることはなかっただろうという事実。

 なんだかんだ苑子の嫌がらせが雪子の恋を実らせてしまったことに、やってしまった感が半端ない。

 抱かれ損とはこのことかと、苑子は自嘲する。

 たぶん、一番のとばっちりは平静を装っている隣りの幼馴染だろうが。


「二度目の失恋おめでとう、春斗くん」


 未だ苑子の手首を掴んで放さない春斗に嫌味たらしく囁けば、春斗の焦点の合っていない目が漸く苑子を捉えた。

 ぼうっと雪子達の姿を見つめていた春斗は苑子の手首を掴んだままだということにも今まで気づいていなかったらしい。

 振り解くようにして乱暴に苑子から手を放す春斗は嫌悪も露に憎らし気に苑子を睨んだ。


「残念だったね。今回はいいところまで行ったっぽいのに」


 もったいない。

 そのまま雪子を押し倒しちゃえば良かったのに、と苑子は口の中で呟いた。

 恋愛というか、自分に向けられる好意に残酷なまでに鈍感な雪子をせっかく手に入れるチャンスだったのに。

 さっきの激怒だってどう考えても春斗の存在があったから表に吐き出せたのだろう。

 春斗の長年の献身愛が漸く報われたのかと思った。


「ふん。乗り換えられたお前に言われたくねぇよ」

「春斗が余計なことさえしなきゃ、今も秋くんとラブラブできていたよ」


 やっといつもの調子が戻ったのか、吐き捨てる春斗に苑子は特に怒ることもなく笑った。

 ふざけた苑子の態度に、春斗は無関心を貫く。

 その目はただ一途に、こちらの存在などとっくに忘れ、幸せそうに笑う雪子に注がれていた。


「あーあー…… 振られちゃったなぁ」


 どこか虚しい苑子の言葉に返事を返す者はいなかった。







「お腹がへった……」


 売店で昼食を買おうと思ったが、碌なものがなかった。


 カラカラになった紙パックのストローを齧りつつ、苑子は一人音楽室でぼうっとピアノの鍵盤を眺める。

 ピアノの椅子に片膝抱えたまま座り、目を瞑ると、腹の虫が微かに聞こえた。

 友人達に連絡して何か分けてもらおうか。

 学校を抜け出してコンビニに行くか。

 そんなことをうつらうつらと考えている間に昼休みはどんどん過ぎていく。

 くだらない茶番に付き合わされた時点で今日の昼休みは散々といえた。

 教室にそのまま戻ればより煩わしくなると思い、こうして一人寂しく時間を潰している。


「悔しいなぁ……」


 誰もいない音楽室。

 誰もいないからこそ、苑子は口を尖らせて足をじたばたさせた。

 子供っぽい仕草を笑う者はいない。


「あーっ! 悔しいっ!」


 ばんっと怒りのまま鍵盤を叩くと嫌な音が静かな音楽室に虚しく響いた。


「ムカつく…… 雪子の奴ぅ……!」


 美味しいところを全部攫って行きやがった。 


「あー……! イライラする……!」


 センスも何もない、破壊衝動に任せたまま鍵盤に八つ当たりをする。

 

「春斗のクソ野郎っ!」


 こんな姿をかつてのピアノの先生に見られたら相当怒られるだろう。

 心なしか肖像画の音楽家達の視線も険しい。


「そもそも春斗が邪魔さえしなきゃ…… なんなのあいつ? 余計なお節介しやがって…… あのむっつりスケベが。 大人しく雪子でマスでもかいてろ、くそ早漏野郎!」


 久しぶりに我慢できないほどのストレスが溜まっていたらしい。

 こんなのは本当に久しぶりだ。

 元から切り替えが早いというか、ストレス耐性が高いのかムカつくことがあっても怒ることをすぐに諦めるタイプの苑子には珍しい。

 頭に過ぎるのは今朝の馬鹿みたいに嬉しそうな秋の顔。

 次いで雪子とのなんだか甘酸っぱい感じのやりとり。

 よくよく考えればちょうど昨日の今ぐらいに苑子はあそこで秋に告白されたのだ。

 確かに苑子も悪いが、秋の切り替えの早さ、薄情さ、いや、気の多さも相当ではないのか。


「昨日まで童貞だったくせに……」


 その脱童貞の手助けをしたのは苑子だ。

 秋だって十分いい思いをした。

 苑子の仕打ちもそれでノーカンになるのではないか。


「秋くんの、ばかっ」


 無意識に口から出そうになった浮気者という罵りが苑子の滅茶苦茶な今の心境を表している。

 別に秋などすぐに捨てられる程度のものだと思っていた。

 だが、意図しない第三者のせいで、おまけにあの雪子に奪われたと思うと、気分が悪い。


「ばかぁ、もう秋くんのばかぁ……」


 こんなふてくされた苑子を見た者は未だかつて一人もいない。

 プライドの高い苑子が自分のこんな情けない姿を人に見せるはずもなかった。


「あの……」


 そんなめそめそした苑子に、秋は恐る恐る声をかけた。


「苑子、先輩?」

「…………秋くん?」


 最初、それは幻聴だと思った。

 そうであればどれだけ良かったことか。


「苑子先輩、いきなりいなくなって、俺連絡とかいっぱいしたんですけど繋がらなくて…… 教室に行ったら、苑子先輩のお友達の、あゆちゃん? 先輩が、たぶん、ここにいるだろうって……」

「……」


 あゆの奴め。


 スマホを確認すれば確かに秋から怒涛の連絡が来ていた。


「……いつからいたの?」

「……昨日まで、ど、童貞だったくせに……、からです」


 苑子は一気に頭の中が冷静になるのが分かった。

 先ほどまでの荒れ狂う嵐のような激情は鳴りを潜め、代わりにどうしようもない脱力感に見舞われた。

 今まで誰にも見せたことがない苑子の駄々をこねる姿。

 むずがる赤ん坊なら可愛いが、苑子がやったら滑稽なだけだろう。

 実際に秋はあちらこちら視線を彷徨わせて苑子の顔を見ようとしない。


「何しに来たのさ……」


 もう、勘弁して欲しい。

 嫌味や皮肉を言う気力もない。


「昼飯を、その一緒に……」

「……雪子と食べれば?」


 何言ってんだこいつとばかりに、恥ずかしいところを見られたという羞恥すら忘れ、苑子は不愉快気に秋を見た。


「え、だって約束したじゃないですか」

「……したけど。もうそれナシでいいよ」


 これでも一応親切心で言ったのだ。

 もう既に雪子に惹かれたであろう秋を思って。


 だが、良くも悪くも秋は初めて出会ったときと何一つ変わらない。

 苑子の機嫌を損ねないように、恐る恐ると近づき、片膝立てた姿勢の苑子から絶妙に視線を逸らしつつ、下手に出て話しかけて来るのだ。


「嫌ですか? 俺と昼飯食べるの…… 俺の事、嫌いになっちゃったんですか?」

「……ん?」


 なんだろう、この違和感は。


「俺の事、もう飽きちゃいましたか?」

「……?」


 苑子はこのとき思った。


 何言ってんだこいつ、と。


 目をうるうる潤ませて見つめて来る年下の元カレ。

 体格の良い秋にそんな目で見られても苑子には気持ち悪いとしか思えなかったが、なんとなくこの訳の分からない男がまだ苑子に対して好意を抱いていることだけは分かった。 

 男の本能かもしれないが、思いつめた顔をしているくせにその目は苑子のスカートの奥に集中している。

 誰もいないと思って片膝を立てたままのせいで苑子のパンツは丸見えとまではいかないが男心を誑かすには十分なほど見えていた。


「……何回も聞くけどさ、秋くんはもう知ってるんだよね? 聞いちゃったんだよね? 私が、君と付き合った理由」

「……はい」


 しょんぼりと見えない耳を伏せる秋。


 うん。


 まともな反応だと苑子はほっとした。


「じゃあ、普通に怒っていいんだよ? このやろーって」

「なんで、怒らないといけないんですか?」

「……」


 逆になんでとこっちが聞きたい。


「え。怒ってないの?」


 くりっと目を瞬かせて問う苑子に、薄っすらと頬を染めながら秋は首を傾げた。

 このとき秋が驚きのあまりどこか幼げな反応を返す苑子に内心で可愛いと悶えていたことを苑子は知らない。

 イメージに合わない先ほどのじたばたぶりも秋は可愛いとしか思わなかった。


「なんか怒るようなこと、あります?」

「……」

「苑子先輩?」


 何か変なことを言ってしまったのかと、苑子の反応に慌てる秋はどこから見ても秋のままだ。


「……秋くんさぁ、本当にあのとき全部聞いてたの?」


 おかげですっかりといつもの調子を取り戻した苑子はいつものように若干偉そうな態度で頭をかく。

 先ほどまでの情けない姿から一転、清々しいほどの変わりようだ。


「聞いてましたけど……?」

「じゃあ、怒ってるよね? てか、怒っていいんだよ?」


 怒りよりも哀しみが強いのかとも思ったが、秋は相変わらずさばさばしている。

 湿っぽい苑子と違い、爽やかだ。

 調子が狂うとばかりに困ったように眉を寄せて、どこか不満気に秋を見下ろす苑子に、秋もまた意味が分からないとばかりに困ったような顔で頬をかく。

 困った顔の下で秋は苑子のどこかふてくされたような表情に内心で激しく心を揺さぶられていた。

 常に余裕な表情を浮かべ、年上らしく落ち着いた態度で接して来る苑子。

 初心な秋を揶揄うような仕草さえも様になる苑子が初めて見せる素の表情は意外なほど幼い。

 とてもいい。


「えー…… なんで怒んないのさぁ?」


 惚れた欲目を抜きにしても駄々をこねる苑子は大変可愛らしかった。


「殴られるのは、さすがに嫌だけど……」

「な、殴る!? いや、俺、絶対にしないっすよ!? 苑子先輩に暴力なんて……っ!」


 どっからそんな話になるんだと慌てる秋だが、苑子はどうしても納得がいかなかった。


「本当に! 俺、全然、まったく! これぽっちも怒ってませんって!」

「なんでもするって言っても……?」


 あまりにも秋の反応があれすぎて、ほんの少し、つまらない。

 詰られたり、泣かれたり、怒られたりしたらしたで面倒だと思うのに、こんな風にまるでなんてことのないような反応を返されると逆に自分が大した存在ではないように思えてちょっとムカついてしまう。


「いや、本当に、本当に、気にしてないんで……」


 苑子の不満に気づかないのか、秋はひたすら誤解を解こうと必死に首を横に振る。

 苑子が爆弾を放り投げるまで。


「……エッチなことしてもいいよって言っても?」

「えっ……!? えっち!?」


 エッチって、エッチなことって……


 秋は頭を沸騰させながら目を泳がせる。

 そしてちらちらちらちらと苑子の顔を見て、唇を凝視し、次いで襟に隠れた首筋をチラ見し、胸を見てから臍へ下へと視線を下す秋はひどく正直であった。

 そんないかにもスケベな秋に何故だか苑子はほっとした。


「したくないの?」


 こてんっと苑子は自分的に一番可愛い角度で首を傾げてみせる。


「し、し…… しっ、し、した、い…… ですっ! 苑子先輩と、えっちしたいっす!」

「よし」


 葛藤の末、観念したらしい秋は耳まで赤くして項垂れている。

 だが、その情けない姿こそ苑子の求めていたものだ。

 今までのやりとりすら忘れて苑子は満足気に頷く。


(あれ? なんの話してたっけ?)


 漸く見れた苑子の笑顔に秋はほっとすると同時に期待する自身を抑えておずおずと手に持っていた袋を差し出した。   


「これ、あゆちゃん先輩達からの差し入れです」


 コンビニのビニール袋の中には苑子の好きなゼリーや菓子パンが入っている。


「おすそ分けだ、そうです」


 後であゆ達を褒めてやろうと苑子は思った。




 

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