第15話


〈雪子〉


 ずっと、今まで呆然と三人のやりとりを見つめていた雪子の静止に、男二人は目を見開く。


「雪子さん……?」

「雪子?」


 秋の訝し気な視線と、春斗のどこか痛まし気な視線に晒され、雪子の硝子のような繊細な作りの心臓が嫌な音を立てる。


「ちっ、ちがう、ちがうの…… は、ると君は…… 悪くない……っ ぁ、わ、私が…… 私が、勝手に……ッ」


 ふえっと雪子の目から涙が零れる。

 必死に涙を止めようと手の甲で滴を拭おうとするが、拭いても拭いても溢れて止まらず袖を濡らすばかりだ。

 片手に持ったお弁当箱をお守り代わりに抱え、嗚咽を洩らしながら泣き腫らす雪子に慌てたのは春斗だ。


「ごめん、俺のせいだ…… 全部俺が悪かった。雪子は何も悪くないから」

「ふっ、ふぇ…… はっ、はると、くん……」

「雪子はよく頑張ったよ…… 自分から行動を起こせるようになった。もう、昔と違って今の雪子は凄く勇気があるよ。何も謝ることなんかない」

「っ…… ご、ごめん、なさいっ! か、かってな、ことして……っ」


 よしよしと春斗の大きく温かな手で頭を撫でられる。

 その心地の良い安心感に、雪子の涙が止まらない。

 雪子は後悔していた。

 雪子があのとき春斗に秋を苑子に盗られたことについてずっと心の内で溜まっていた鬱憤を吐き出しさえしなければ。

 こんな、知りたくもない真実を秋が知ることもなかった。

 雪子は、ただ初めて知る高揚感に酔っていた。

 ずっと、憧れだった幼馴染に慰められ、キスされて、まるで春斗の力強い意志を分けてもらったような、姉に立ち向かえる勇気を与えられたような気がしたのだ。

 もう昔のように怖い事から目を瞑り、優しい幼馴染に手を引かれるだけの自分は、もういらない。

 変わりたいと、春斗の抱擁の中で雪子は初めて自分から何かを成そうと決めた。

 春斗にだけ重荷を背負い込ませたくない。

 姉にどんな秘密があるのか、知ればきっと後悔するかもしれない。


 でも、きっと雪子は知らなければならないのだ。

 傲慢で美しい姉の本性を。

 その悪意から大事な人を自分で守らなければならないのだ。


(そうだ…… 変わらなきゃ、私が、変わらなきゃ……!)


 優しい春斗。

 優しい秋。


 雪子のことを思ってくれた春斗の言葉をちゃんと聞かなかった自分を恥じながら、胸の内にあった感情が徐々に大きくなっていくのが分かる。

 春斗が側にいてくれるから。

 雪子を守ってくれる春斗のおかげで、消えかかっていた雪子の心がどんどん熱くなる。


(私が…… 守らなきゃ)


 意を決した雪子はそっと春斗の側から離れる。

 途端に震えそうほどの寒気に襲われた。

 それでも雪子は、真っ直ぐ姉を、苑子を見た。


 全ての元凶のくせに、どこか冷めた目で雪子達のやりとりを観察する姉の姿が目に入ったとき。


「お姉ちゃん……」


 雪子の胸から熱い塊が迫り上がるのが分かった。

 軽薄な笑みを浮かべる苑子に雪子は耐えられないとばかりに吐き捨てる。


「お姉ちゃんは、最低だ」







 雪子をよく知る苑子と幼馴染の春斗。

 二人にとって雪子の行動は予想外だった。


「……ねぇ? なんで?」


 元から腫れ気味だった目を更に赤く腫らし、悔しそうに憎らし気に唇を噛みしめたまま、雪子は間近にある苑子の顔を睨み、罵倒した。


「なんで、そんな、酷いことができるの? 秋くんの気持ちを踏みにじって……! 人の心を弄ぶなんて、最低だよッ!」

「……」


 逃がさないとばかりに、いつの間にか雪子の手は苑子の細い手首を捉える。

 苑子の華奢な手首が微かに軋んだ。

 元々虚弱な雪子程度の力だからこそそんなに痛みはないが。


「ふざけないでっ わ、私が、私がっ、秋くんのことを好きだから…… 好きだから、付き合うって、意味分からない、そんなの、可笑しいよ!」

「……だから、さっきから言ってんじゃん。雪子が秋くんを好きだから、付き合う価値があるの? 分かる?」

「分かんないよっ! お姉ちゃんのこと、全然分かんないっ!」


 近距離で叫ばれ、苑子は気だるげな外面とは裏腹に、初めての雪子の分かりやすい怒りを内心で嗤った。

 顔を真っ赤にして、涙をぽろぽろ零して、怒りのみで吠える雪子を見て、かつてない爽快感を覚える。

 昨日の雪子のつまらない反応と大違いだ。

 きっと、春斗が側にいるからだろう。

 雪子一人で苑子に噛みつくことなど、できるはずもないのだからと、苑子は思っている。


「秋くんの気持ちを弄んで、傷つけて…… なんで、そんな酷いことができるの? 信じられない! お姉ちゃんは可笑しいよ、人の気持ちが、痛みが分からないなんて……!」


 雪子が怒れば怒るほど、興奮すればするほど、苑子は笑い出したいほど愉快だった。

 実際に嗤っていたのだろう。

 くすくすと、いつの間にか自分の耳に入って来る笑い声がより一層可笑しかった。


(私が可笑しい? 人の痛みが分からない?)


 正論だ。

 否定する要素など欠片もない。


「お姉ちゃんは人として最低だよ!」


 初めて聞くかもしれない、雪子の怒鳴り声に苑子はほくそ笑んだ。


(今更だよ、ばーか)


 自分がどうしようもない人でなしの阿婆擦れだってことぐらい、ずっと前から知ってる。

 そう言われて、そう「望まれた」のだから。

 その通りに、「望むまま」に苑子は育ったのだ。

 ただ、それだけのこと。

 ある意味、苑子ほど親孝行な娘も珍しいだろう。


(まぁ、褒められたことはないけど)


 苑子の顔の笑みはますます深まる。

 とても無邪気で、可憐な、花開くような笑み。

 それは荒れ狂う雪子から見ればひどく冷たく、禍々しいものだ。

 雪子の涙でぼやけたはずの視界で、何故か苑子の笑みだけは鮮明に見えた。

 もしかしたらそれは、雪子の願望が見せる幻だったのかもしれない。


 雪子は恐ろしかった。

 姉が分からない。

 何故、全てを持っている完璧な姉がわざわざ雪子を苛めようとするのか。

 雪子には何もないと知っているくせに、更に雪子から大事なものを奪い獲ろうとする強欲さも、目的のために人の気持ちを簡単に傷つける無慈悲さも、好きでもないという男に簡単に身体を許す貞操観念の低さも、何もかもが理解できず、ひたすら恐ろしくて汚らわしかった。


「なんで、笑ってられるの……?」


 怒りか嫌悪か恐怖か、訳も分からなく背中に嫌な汗をかきながら、雪子は苑子が愉快で仕方がないというように自分を笑うのを見て、目の前が一瞬真っ赤に染まるほどの激情に支配された。


「ねぇ、お願いだから、ちゃんと反省してよ……! 謝ってよっ」


 こんなにも近いのに、どうしてか遠い。

 どうして雪子の気持ちを分かってくれないのか。

 苑子に伝わらないのか、それが哀しくて悔しくて、腹立たしい。


「馬鹿に、しないでよ……!」


 息切れを起こしながら、雪子が片手に抱えていた弁当箱が音を立てて地面に落ちる。

 苑子の手首を掴んでいた手とは反対の手が、苑子の顔に向かって振り降ろされようとしていた。


 だが、苑子の頬を目がけて飛んできたその手は、見覚えのある男の手によって制止された。


 雪子の手を止めたのは、秋だ。


 苑子と雪子の目が驚きで見開く。

 気づけば雪子は秋に手を握りしめられ、苑子から遠ざけるように腰を抱かれていた。

 そして、苑子もまた逆に雪子から遠ざけるように、春斗に腕を引かれ、乱暴に引っ張られた。

 あんなにも強く雪子に握りしめられていた手首はあっさりと解放され、爪の痕だけが痛々しく残っている。

 元から力の弱い雪子の拘束は二人の大柄な男の力で意図も容易く解かれたのだ。


「あきくん……?」


 一瞬前まで冷静な判断など何一つできなかった雪子はいきなり変わった視界の風景と、燃えそうなほど熱い男の胸板を頬に感じて、呆然と呟いた。






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