第10話

 

 苑子と秋が付き合ってからまだ一日しか経っていない。

 だが、勇気ある1年があの苑子に堂々と告白をし、そして見事にそれを成功させたという一種の武勇伝は苑子のクラスを中心にそれなりの噂となったらしい。


 当の噂の勇気ある1年、もしくは毒牙にかかった哀れな1年こと、間宮秋は周りの好奇心に満ちた視線など気にもせずに苑子に話しかけている。

 他学年の教室にいるというのに気負う様子など微塵もない。

 意外でもなんでもなく、秋の神経は図太いのだ。

 大柄な体を一生懸命に縮ませ、机に両肘をつけて身を乗り出すようにして喋る様子は甘えたな大型犬そのものだ。

 その尻尾を高速で振っているのが分かる。


「秋くん、もうすぐHR始まるよ?」

「大丈夫です! 俺、足速いんで! チャイムがなったらダッシュで教室戻ります!」

「……あっそう」


 短いスカートにも関わらず大胆に脚を組む苑子にドキドキしながら、秋は少しでも苑子と同じ空気を吸いたい一心でまったく大丈夫ではない返事をした。

 そして当の苑子も後輩であり彼氏でもある秋が周りから好奇の目で見られたり、この後担任に怒られようがなんだろうが大して興味もなかったため適当な相槌を返すのみだ。

 別に秋がべったりと自分の机にしがみ付いていも特に不愉快でもなければ嬉しくもなく、朝からテンションの高い秋に反して苑子のテンションは凪いでいた。


(本当、犬みたい)


 きゃんきゃんっと主人に何か伝えようとする様子を見て苑子は今日何度目かの同じ感想を抱いた。

 自分よりもずっと上背があるのに必死に背中を丸めて上目遣いに苑子に話しかけるところは確かにポイントが高い。

 無意識にその短い髪の毛を撫でたり、頬っぺたを抓ったり、鼻を摘まんだり、唇を引っ張ったりと遊んでしまうぐらい。

 気まぐれに苑子が与える悪戯は秋にとっては心擽られる甘いご褒美であり、思わず股間の辺りをもぞもぞさせてしまうぐらいには下半身に迫るものがある。


(苑子先輩…… やっぱ、エロい)


 頬杖をつき、どこか気だるげにスマホを弄る横顔は憂いに満ちているように秋には見えた。

 実際はただ眠いだけなのだが、苑子レベルの容姿になるとどんな表情でも絵になってしまう。

 秋の場合は更にそこに恋心というピンクのフィルターがかかっているためか、とにかく苑子の動作一つ瞬き一つ見てもドキドキと馬鹿みたいに心臓が高鳴るのだ。


(俺、昨日、苑子先輩と…… エッチ、しちゃったんだよな……?)


 今でも、あれは都合の良い秋の夢だったのではないかと疑ってしまう。

 背中の爪痕や歯形、キスマークがなければ秋はただの妄想だと思ったかもしれない。

 それだけ、苑子とのエッチは「夢」のようだったのだ。


(ヤバい…… 幸せすぎるだろう、俺!) 


 目の前にいる誰もが認める可愛い自分の彼女。

 可愛くて最高にエロい彼女と、初めてのエッチをした。


(苑子先輩……マジで好き……♡)


 昨夜も夢に出て来たいやらしい苑子の痴態。

 馬鹿みたいに朝に処理をしたはずなのに、思春期真っただ中の秋の性欲と妄想は止まらない。

 なんせ、目の前に本物の苑子がいるのだから。

 その髪から、首筋から漂って来る甘い匂いに秋は興奮を抑えるのに必死だ。


(キス、したい……)


 昨日とは打って変わってだいぶ冷たい苑子の態度を気にすることもなく、秋の視線はさくらんぼ色に色づく苑子の唇に集中する。

 あまりにも熱心に、気づけば机に身を乗り出すようにして苑子の唇に集中していた秋に、苑子はふっと唇の形を緩めた。


 当然のように秋の心臓が期待に飛び跳ねる。


「ねえ、秋くん?」

「はっ、はいっ!」


 そんな秋の不埒な思考を見抜いたようなタイミングの良さで苑子が声をかける。

 慌てたように身を屈めて苑子をわざわざ見上げるようにして体勢を変える秋。

 もぞもぞと膝を擦り合わせる秋を見下しながら、苑子は静まり返った教室で一人笑った。


「もう、HR始まってるから」


 教壇で疲れたように嘆息する担任に手を振りながら、苑子は別れの餞別とばかりに間抜けな顔でこちらを見上げてくる秋の額を小突いた。


「ハウス」


 惚れた欲目を抜きにしても、そのときの苑子の悪戯めいた笑みは最高に可愛くて、魅力的だった。







 さて、自身の教室にすごすごと戻った秋は担任の叱責に上の空で答えつつ、苑子のあの別れ際の可憐な笑顔を反復しながら窓の外を見て溜息をついた。


(あー…… 苑子先輩に会いたい……)


 まだ別れてから十分も経っていないのに、もう秋は苑子に会いたくて会いたくて仕方がなかった。

 後で職員室に来いと担任に言われても今の秋の心は苑子を中心に回っているため、誰が見ても上の空だ。

 ついこの前まで中学生だったとは思えないほどの立派な体格をした秋が無言でいるだけでなんだか威圧感がある。

 そのため担任もなかなか強く言えなかった。


(苑子先輩……)


 先輩は今何をしているのだろうか。

 流れる雲を見つめながら、秋は思いを馳せた。


(苑子先輩……)


 もぞもぞと秋は机の下で狭そうに脚を組みながら、頬杖をつく。

 苑子の真似をしながら秋はぽっと頬を染めつつ黄昏る。

 恋に溺れる青年特有の切ない溜息を吐き出しながは。


(また、したいなぁ……)


 何を、とまで考えて慌てて雑念を振り払う。

 不埒な欲望を抱く自分を叱咤しながら、それでもどこか腰が浮くような感覚に若い下半身が反応しようとする。

 昨日の今日でがっつきすぎだろうと慌てながら、ふわふわと蕩けた脳がつい期待してしまう。


(キス、俺からしても、嫌われない、よな?)


 せめて、あの唇の感触をもう一度味わいたい。


(苑子先輩と、キスしたい…… てか、会いたい。今すぐ声、聴きたい……)


 頭の中の苑子が頬を染めてうっとりと秋の首に腕を回す。

 真っ白な裸で。


 また、昨日のベッドの中のシーンを鮮明に思い返してしまった秋の顔は真っ赤だ。

 

(あ、あぶねー……)


 思わず内股になってしまう程度に、生々しく思い出してしまった。


(ごめんなさいっ、苑子先輩! 俺、やっぱ、先輩とまたエッチしたいっ 思い切りおっぱい揉んで、いっぱいキスしたいです! それから、あと……)


 あれやそれやと元童貞が精いっぱい思いつく限りのエロいことを考えて脳内いっぱい苑子の妄想で埋め尽くされた秋は自己嫌悪と興奮の狭間にいた。

 むにむにと何かを揉もうとする両手を抑え、うわー、ごめんなさいっとあまりにも明け透けな自分の欲望に首まで赤くして一人悶絶する。


 ちなみにこの状態で秋は一限目を乗り越えた。

 担当の教師も秋に関わりたくなかったのだ。

 そんな、一人でじたばたと見悶える秋に、恐る恐る声をかける者がいた。


「おーい…… 間宮?」


 挨拶する程度の同級生から声をかけられても、秋は自分の恥ずかしい妄想に夢中だった。

 軽く無視する。


「なぁ、おい、無視すんなよ。お前に客だって、2年の、」

「苑子先輩っ!?」


 2年、という単語にがたっと椅子を倒して立ち上がった秋に、親切にも声をかけた同級生はびくっと怯えた。

 起き上がると改めて分かるが、秋はデカいのだ。

 平均身長のモブはその威圧感に完全に飲み込まれていた。


「えっ、どこっ!? 苑子先輩、どこにいんだよ!」

「ちょっ、いたっ、痛い!」


 肩を掴まれてぶんぶんがくがくと揺さぶられながら、モブは背後の扉を指差す。

 慌てて満面の笑顔でそちらを向いた秋はだったが、すぐにその笑顔が凍りついた。

 瞬時に秋の恋に浮かれて潤んでいた目に苛立ちと敵意が浮かび上がる。


「ひぃっ……!?」


 そんな秋の表情とテンションの変化を間近で見てしまったモブは悲鳴を上げた。


「……なんの用だよ」


 爽やかイケメンと知らぬ間に周囲からそう評価されている秋は爽やかとは程遠い、嫌悪感を露にしながら、睨みつける。

 涼し気な顔立ちで春斗はそれを受け止めた。







 苑子は好奇心丸出しの友人達から質問攻めにあっていた。


「一体どんな心境の変化なわけ? 朝から一緒に登校とか」

「もしかして、今回は本気だったりするの?」

「あの一年の子、顔いいもんねぇ~」


 わいわいきゃあきゃあとまだ苑子は一言も口を開いていないというのに、随分と盛り上がっている。

 自身の机周りを囲む面々に苑子は呆れながらも、いつもよりはだいぶ機嫌良く相手をしてやった。


「うん。そんな感じ」


過去の事例を踏まえ、苑子は牽制も込めて軽く頷く。

 類は友を呼ぶというように、男にだらしない苑子の周りにはやはりだらしない女が群がるのだ。

 つまみ食いやちょっかいをかけさせないようにそれとなくアピールする苑子に、一層騒ぎが増した。

 それに軽く口角を釣り上げながら苑子はスマホ画面を操作し始める。

 その画面に写るやりとりの一部を見た友人の一人が目を輝かせた。


「噂の彼氏?」

「そう。お昼のお誘い」


 どこか甘やかな声で肯定する苑子に、彼女達の好奇心は更に高まる。

 苑子がこんな風に彼氏の誘いに乗ることは珍しい。

 また、女から見ても非常に整った顔に含むような笑みを浮かべて頷く様子はなんだかとっても色っぽいのだ。

 思わず頬を染める彼女達の視線は苑子のさらさらな髪の間からちらほら見える赤い痕につい行ってしまう。


 苑子がビッチというのは有名な話だ。

 そして面食いであることも。

 苑子は飽き性なせいか、付き合ったと思ったらその翌日には別れたりと気まぐれに自分に好意を向ける男達を振り回す習性がある。

 そのせいか男関係のトラブルは絶えない。

 束縛を嫌う苑子と上手く付き合い、楽しむには適度な距離感が不可欠だ。

 だからこそ、彼女達は敏感に苑子の異変を察していた。

 当の苑子もわざと今の彼氏が他の男とは違うのだと周囲に思わせている。

 むしろ、普段は煩わしい取り巻き達にはぜひ面白おかしく噂を広めて欲しいと思った。


 その方がきっと楽しい。


「でも、意外じゃない? あの子顔はいいけど、1年でしょう? そのちゃんのタイプでもなかったし」


 ふわふわと髪を揺らしながら、友人の一人が不思議そうに呟く。


「漸く苑子にも本命が見つかったってことでいんじゃない?」

「でも、付き合ったのって昨日からでしょう?」


 横から苑子の肩に凭れるようにして、友人は意味深に囁く。


「ね? どこがそんなに良かったの? 他の男と何が違ったの? 何がそんなに良かったの?」 

「意外と身体の相性が良かった」

「……他は?」

「あとは、煩いけど私に絶対に逆らわないとこ。なんでも馬鹿正直に言うこと聞いてくれるとことか?」


 苑子らしいなと思いながら、黙って聞いていた内の一人がなんだか釈然としないような顔で呟く。


「今までの苑子の元カレ達も結構な下僕だったと思うけど……?」

「そうだっけ?」


 無言で頷く友人達に、苑子はもう飽きて来たのか話題の彼氏とのやり取りに今は集中しているらしい。

 それをいい事に小声で友人達は囁き合う。

 苑子にはしっかりと聞こえていたが、興味はないらしく放置していた。 


「……やっぱり、違うよね? 扱いが」

「あれ見ちゃうと、そのちゃんの元カレ達悲惨じゃない?」

「なんか怖くなってきた……」

「確かに怖い」

「正直、想像つかないんだけど。最長三か月、最短三十分で男に飽きちゃう苑子のガチ愛とか」

「その情報古いわ。最短三分だから」

「え。うちは最短三秒だって聞いたけど」


 きゃあきゃあと小声ながらもメンバー数はそれなりのためか、あまり隠れていない友人達のひそひそ話に苑子はよくもまあ、他人のあれやそれの話にそんな夢中になれるなと呆れつつも感心していた。


「あーあー…… でも惜しいなぁ。私、絶対そのちゃんの本命は春斗君だと思ってたのに〜」


 ぴくっとタイムリーな名前が飛び出したことに一瞬苑子のスマホをいじる指が止まる。


「それ、思った」

「春斗君マジイケメンだし。なんでこのバカ高受けたのかってくらい頭いいもんねぇ~ 一年のときは絶対に苑子を追いかけて来たんだって思ってたもん」

「幼馴染の美男美女カップルとかって。今考えるとうちら相当夢見てたよね〜」


 どこか遠くの出来事のように友人達の好き勝手な会話を聞きながら、苑子はなんとなく嫌な予感がした。

 別に信憑性のない噂や憶測で話している彼女達に怒っているのではない。

 無駄にハイスペックな幼馴染は高校でも苑子に対して無関心を装いつつ、そのクールな顔の裏でストーカーのように苑子を監視していた。

 苑子と春斗が付き合っているという噂は入学当初からあり、落ち着いたと思えばまたいつの間にか復活する、なんともしぶとく面倒なものだ。

 その度に批難されるのは素行の悪い苑子である。

 優等生として、また一年の頃から生徒会で活躍し、成績優秀で運動神経もよく、冷たくも見える整いすぎた顔でファンクラブまであるのではないかと噂される春斗。

 今も根強く囁かれている苑子と春斗の相思相愛説や、既に破局した説、どちらかの報われない片思い説など、苑子に新しい男ができるたびに面白おかしく噂が流されるのだ。


 その原因は間違いなく春斗のせいだろう。


 苑子にとってはいい迷惑でしかない。


「春斗君とそのちゃんのカップル…… 見たかったなぁ~」


 甘えるように苑子の首に腕を回そうとする友人に苑子は冷たかった。

 触れてこようとする手を軽く叩き、苑子は淡々と返す。


「絶対無理」


 春斗のことになると普段以上に冷たい反応をする苑子。

 苑子に春斗の話、または春斗に苑子の話は禁句であることは皆知っている。

 ある意味二人のその反応こそが周囲を誤解させる要因となっているのだが、生憎と忠告できる者はいなかった。






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