第9話

 

 玄関を出ると、何故か緊迫した空気が流れていた。


 秋と雪子と、春斗。


 なんだか久しぶりな気がする幼馴染が何故ここにいるのかと思い、すぐに今にも泣きそうな顔で俯く雪子を見てなんとなく状況が把握できた。


「何してんの」


 ぱっと見、雪子を間に挟んでタイプの違う男子高校生が睨み合う光景は安っぽいドラマのように見える。

 案外それは間違いではないので、苑子は純粋にその光景を面白がった。


「苑子先輩っ、おはようございます!」


 これでもかと笑顔を輝かせて挨拶する秋の姿に苑子はにっこり笑い返した。


「おはよう、秋くん」


 自分でも分かるくらいに可愛い笑顔を返したと思う。

 ぱっと、一気に顔を真っ赤にして幸せそうなオーラを垂れ流す秋の姿は純粋に可愛かった。

 そして分かりやすく苑子の首に見える赤い痕を注視し、慌てて目を逸らそうとしているのが可笑しい。

 今時これだけ分かりやすく、素直な態度も珍しいだろう。

 正直、秋は苑子が面倒臭がるタイプの人種だ。

 雪子も趣味が悪いと思っていたが、やはりそこは姉妹なのだろう。


(意外と、相性は悪くなかったな)


 朝の爽やかな空気を吸い込みながら、苑子は昨日の秋とベッドで「仲良く」したことを思い浮かべる。

 存外身体の相性は悪くなかった。

 煩そうだが、苑子に順従な様子は色々と便利かもしれない。


「ごめんね? ちょっと寝坊しちゃった」


 だから、もうちょっとだけお付き合いをしてあげてもいいかなと苑子は思ったのだ。

 それに今の雪子のあからさまに傷ついたような顔はやっぱり見ていて愉しい。


「いえっ、俺がその、 テンション上がり過ぎて、めっちゃ早く来ちゃっただけなので」


 大きな体を縮めて、わざわざ苑子の顔色を伺おうと控えめに覗き込んで来る秋に若干絆された感もある。

 一体いつから来ていたのか知らないが、春とはいえまだ朝の空気は冷たい。

 何の気もなしに苑子は屈んだ秋の両頬に手を伸ばす。


「冷たい」


 指先から熱を奪われる。

 本当にいじらしい秋の様子に苑子は感心した。


「君って、本当馬鹿だね」


 思わず何も考えずに苑子は素で言葉を吐き出す。

 当の秋は苑子の思わない接触に硬直した。

 そんな傍から見ると仲睦まじいカップルの姿に雪子は悔し気に足元を見た。

 この場をそのまま無言で立ち去る勇気もなく、かと言って二人がいちゃくつく姿も見たくないとその心境は複雑である。

 一方、一人放置された状態の春斗は本格的に眉を顰めて落ち込む雪子と素でいちゃいちゃし出す見知らぬ男と腐れ縁の幼馴染の様子を見比べた。


「えへへへ」

「何笑ってるの」

「だって…… 苑子先輩の手がすげぇ温かくて、気持ちいーから」

「きもい」


 朝だからか、頭がまだぼんやりしている苑子は特に猫を被ることなく素で秋のふわふわとした能天気な笑顔を見て率直な感想を呟く。


「えっ」


 気持ち悪いと言われて目に見えてショックを受ける秋に対して何かフォローすることなく、いつの間にか握りしめられた両手をそのままに秋の頬を揉んでみる。

 特に意味はない。

 しかし、他人からはどう見てもいちゃついているようにしか見えない。


「苑子」


 そんなふわふわとした空気を切り裂くような鋭い呼びかけに、秋のとろとろとした顔が一気に引き締まる。

 自分の彼女を当たり前のように呼び捨てにする男に秋はイラついた。

 呼ばれた方の苑子は久しぶりに聞く幼馴染の声に視線を向ける。

 苑子の視線が自分から外れたことに、秋のテンションは更に下がった。

 温まったはずの頬が心臓ごと冷えた気がして、思わずぎゅっと苑子の両手を握りしめてしまう。

 離れていくその手に縋るような秋の行動に苑子は特に咎めもせずにそのままにした。


「何」

「そいつ、お前の彼氏って言ってたけど」


 苑子は先ほどまでの三人のやりとりを知らないため、ごく普通に肯定した。


「うん。彼氏だけど」


 その言葉に更に表情を暗くする雪子に反して苑子の手をぎゅうぎゅうに握りしめていた秋の表情が一気に明るくなる。

 今にも尻尾を振り出しそうなその様子に苑子はよしよしと頭を撫でてやりたくなった。


「……随分趣味が変わったな」


 だが、どこまでも無機質な声で痛い所を指摘してくる春斗に、苑子は眉をしかめる。

 幼稚園から高校まで腐れ縁が続いているため、苑子の男遍歴を誰よりも春斗は知っているのだ。

 把握されているともいえた。


「……さっきから、なんのつもりだよ」


 ついに我慢が限界に達したのか、苑子の目の前だというのに秋はあからさまに威嚇するように春斗を睨みつける。

 その不機嫌な声に含まれた苛立ちと焦燥に臆することなく春斗は淡々と答えた。


「俺はそいつの幼馴染。ずっと、昔からの」


 噛んで含ませるような物言いに、秋の額に青筋が浮かぶ。


「お前よりも、ずっとそいつのこと詳しいからさ。忠告でもしてやろうかと思ったんだけど」


 苑子は春斗の秋に喧嘩を売るような物腰に内心でうんざりしていた。

 見た目と常に固まったような表情筋のせいでクールだとか、他人に無関心だとか誤解されがちだが、春斗は昔から思い込みが激しく、ある意味で一途な男だ。

 不器用ともいえる。

 苑子が直情タイプの人間を苦手とする原因でもあった。


「秋くん。春斗の言うことなんて気にしなくていいよ」

「でも……」

「行こう」


「初恋」を拗らせた幼馴染は苑子にとっては天敵に等しい。

 普段は学校ですれ違っても挨拶すらしないのに。

 こういうときにしつこく絡んで来るのだ。


(本当、めんどうくさい奴)


 これ以上春斗が何か面倒なことを言い出す前に苑子は秋の腕にしがみ付いた。

 動揺と嬉しさが混じったような秋の表情にもう一度至近距離で囁く。


「ね、行こう? 遅刻しちゃうよ」


 甘えるようにすり寄る苑子に秋の心臓が跳ねあがる。

 鼻腔を擽る、昨日散々嗅いだ苑子の匂いにくらっとした。


「は、はいっ!」


 気づけば元気良く返事を返し、苑子の望むままに雪子と春斗をほったらかしにしてその場を離れる。

 春斗の横を通るとき、突き刺さるような敵意を感じたが、もう腕に当たる苑子の柔らかな胸の感触に秋は夢中だったため、苑子が振り返り、春斗に舌を出していたのを秋は気づかなかった。


 苑子の挑発を見たのは春斗のみだ。


「あいつ……」


 憎々し気に睨み返す春斗に、苑子は嘲いを返した。


そして。


「……」

「……」


 取り残された雪子と春斗。

 しばらく立ち尽くしていたが、そろそろ行かないと遅刻してしまうことに二人とも気づいていた。

 だが、互いに気まずい思いを抱いているせいか、どうしても沈黙がしばらく続いてしまう。


 先に沈黙を破ったのは春斗の方だ。


「……行くぞ」

「う、うん……」


 春斗のその物言いは昔から変わらない。

 昔からどこかぶっきら棒で、それでも人見知りの雪子に手を差しのべたり、泣いているのを不器用ながらに慰めてくれる「優しいお兄ちゃん」だった。

 実の姉の苑子と比べものにならないほど雪子に優しく構ってくれた。

 それが変わったのは小学校に上がってからだろう。


 雪子が、春斗を避けるようになったからだ。


 学年が上がるごとにどんどんカッコよくなる幼馴染のお兄ちゃんは、いつしか雪子にとって遠い存在となった。

 ネガティブでコンプレックスの塊の雪子は少しずつ歪んだ考えに憑りつかれたのだ。


 春斗が雪子に優しいのは、姉の苑子が好きだから、と。


 誰に言われるでもなく、雪子は自然とその答えに辿り着いてしまった。

 そうでなければ平凡な雪子に春斗のような完璧な男が構うはずがないのだ。


 本当は、姉の苑子と同じぐらいに目立ち、異性にモテる春斗の隣りを歩くのは苦痛だ。

 嫌でも野暮ったい自分との差を感じ、コンプレックスを刺激される。

 それに、他の生徒に見られて妙な噂も立てられたくなかった。

 ありきたりな苗字のおかげで今のところ高校で雪子と苑子が姉妹だと知る人物は限られているが、いつそれがバレるか分からない。

 しかし、だからと言って春斗の誘いを断る勇気もなかった。

 春斗に嫌われたくないという気持ちもまた強かったのだ。


「……久しぶりだな。こうして、一緒に登校するの」

「そ、そうだね……」


 春斗とこうして言葉を交わすの久しぶりだ。

 苑子と春斗とは違う中学に進学し、更に中学のときは親の車で登校していたため、偶然朝会っても他人行儀な挨拶が精いっぱいだった。

 だから、気まずい。


(……どうしよう)


 さっきまで苑子と秋の様子を見て凍えるように冷えた心臓が、今は早鐘を打ち、熱く昂っている。

 隣りを歩く春斗を見る勇気がなかった。

 幼馴染の優しいお兄ちゃんは、相変わらずカッコイイ。

 ドキドキが止まらない。


 春斗は、雪子の「初恋」相手だった。


(春斗くん…… 全然変わってない…… むしろ、昔より恰好良くなってる)


 どこまでも優しく、甘く、苦く、そして痛い初恋だ。


(春斗くん……、さっき、秋くんに嫉妬してた……よね?)


 あんな風に誰かを睨む春斗を見るのは久しぶりだ。

 春斗のあの苛烈な視線はいつも苑子か雪子を苛める女子に向けられていたからだ。

 その事実に胸がまたつきんっと痛くなる。

 心がまた傷だらけになっていくのを雪子はどうすることもできなかった。


(まだ…… お姉ちゃんが好きなんだね)


 よく考えれば雪子の初恋も、二度目の恋も。

 全て姉に奪われているのだと気づき、雪子は改めて自嘲した。

 つくづく、姉は自分のものを奪うのが好きらしいと、乾いた笑みが自然と浮かぶ。


「また、泣いたのか?」

「……え」


 自分の思考に入り込んでいた雪子は春斗がいつの間にか立ち止まり、肩を掴んで来たことに驚いた。

 雪子のガラス越しの大きな瞳が丸く見開かれ、春斗はそれに目を細める。

 眼鏡の淵に触れながら、春斗の手が雪子の痛々しく腫れた目尻をなぞった。


 雪子の頬が真っ赤に染まる。


「目が赤い」


 突然の接触に、何も言えずに固まる雪子に春斗はどこか苦しそうに表情を歪めた。


「誰に泣かされた?」


 春斗のその台詞は雪子にとって非常に懐かしいものだ。

 昔、いつも泣いている雪子に春斗は優しく問いかけた。

 そして、まるでヒーローのように雪子を苛める全てを排除しようとしてくれた。

 雪子を守ってくれたのだ。


(春斗くん……)


 春斗はまったく変わっていなかった。

 そのことに、雪子の胸が、目の奥が熱くなるのを感じた。


「誰が、お前を泣かしたんだ?」


 穏やかな、雪子を慰めるような声に、雪子の凍った心が溶けていく。


「っ……」


 春斗の指に濡れた感触が伝った。







 秋は苑子の手を握りしめながら、天にも昇るような気持ちでいた。

 そんな幸せを満喫している秋に苑子が欠伸を袖で隠しながら話しかける。


「あいつのこと、気にしなくていいから」


 美人は欠伸しても美人だなとうっとりと苑子の横顔を見つめていた秋は少し反応が遅れてしまった。


「あ…… はい?」

「あの顔面筋肉永久凍土の男のこと。いつもあんなんだから気にしなくていーよ」


 苑子が話しているのが例の幼馴染だというムカつく男のことだと気づき、秋の顔が微かに強張る。


「……はい」


 その目に嫉妬が宿るのを苑子は気づかずに話を続けた。


「あいつ……春斗っていうんだけど。幼馴染というか、ただの腐れ縁だから。見ての通り学校も一緒で学年も一緒…… もしかしたら後で変なちょっかいかけてくるかもしれないけど、無視していいから」

「……」


 ざっくりとした苑子の説明に秋の心が余計にざわつく。

 わざわざ幼馴染の恋人にちょっかいをかけるなど、普通ではない。


(それって…… あの男も苑子先輩のことが……)


 どうも朝のあの出会い頭の不穏な態度やその後のあからさまな牽制といい、春斗という男が秋に敵対心を持っているのは明白だ。


 それは何故か。


 その理由を考えれば、単純な秋は一つの答えしか見つけられなかった。


「つまり、恋のライバルってことですね……」

「え」


 そして、その考えを思わず口に出してしまうのが秋という男だった。

 ぼそっと低い声で呟く恋人に、苑子は目を丸くする。

 それに気づいた秋は慌てた。

 もしかしたら苑子は春斗の気持ちを知らないのかもしれない。

 ここであえて春斗の恋心を苑子が知って、妙に意識でもされたら秋は嫉妬でどうにかなるかもしれないだろう。

 そして自分の迂闊な失態に悔やんでも悔やみきれないはずだ。


「ただの独り言ですっ」


 だが、秋の予想以上に苑子は人の感情や思考に敏感だ。

 漸く目覚めかけた思考ですぐに秋の考えを読んで内心で失笑した。


「まぁ、秋くんがどんな「勘違い」してるのか知らないけど」


 いや、おおよその検討はついているが。


「とりあえず春斗にまた苛められたら言ってよ」


 たぶん、あの妙に妄信的な幼馴染は何かやらかすはずだ。

 悪意など一欠けらもなく、純粋な気持ちで。

 何か、ちょっかいをかけるに決まっている。


(本当、健気なことで)


 そのとき、秋はどういう行動を取るのだろうか。

 苑子が飽きて秋を振るよりも早く。

 もしかしたら、先に苑子を振るのは、秋の方かもしれないと、苑子はのんびりと考えていた。


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