第8話

 

 どうやら雪子はもう出たようだ。

 欠伸をしながら、ダイニングに入って、苑子はとりあえずテレビをつけた。


「苑子」


 機嫌の悪そうな母親の呼びかけにさっさと出れば良かったと苑子は自分の選択の過ちに気づいたがもう遅かった。

 

「ねぇ、あんたまた雪子に何かしたの!?」


 いつの間にか見ていた朝のワイドショーは消され、目の前で深刻な顔で自分を睨みつけて来る母親の声だけがダイニングに響く。

 キッチンに放置されていたトーストされていない余った食パンをもそもそと食べながら、苑子はいつもの通りに適当に流した。


「別に」


 苑子に母親の相手をするのは簡単な作業だ。

 ただ相槌を打つだけでいい。


「嘘つかないで。昨日からあの子、何も食べずにずっと部屋に籠って泣いていたのよ? 今朝も全然ご飯に手をつけないし……」

「ふーん」


 ちらっとテーブルの上を見れば確かに皿に載った熱々のオムレツやベーコン、手作りドレッシングがかかった新鮮な生野菜サラダ、スープが美味しそうに湯気を立てている。

 ミルクたっぷり入ったカフェオレが一口もつけられずに放置されてもったいないなと苑子は思った。

 きっとそのカフェオレは苑子の好きな味だろう。

 こっそりとこのまま飲まれず捨てられるだろうカフェオレを引き寄せ、パンで乾いた口の中を潤す。


(うま)


 苑子と雪子の好みは似ている。

 好きな食べ物も色も服もキャラクターも。

 だから母親が雪子のために淹れたカフェオレは苑子にはとても美味しく感じられる。


 そんな苑子の呑気な様子に母親の眉間の皺が深くなった。


「ねぇ? お母さんの話ちゃんと聞いてるの?」


 なんて卑しい子だろうと母の目を見なくとも何を考えているのか手に取るようにわかったが、苑子はまったく気にしていなかった。


「雪子は生まれつき身体が弱いのよ? あんたと違うのよ?」


 内心でいつもの母の説教にまたかという言葉を苑子はなんとかカフェオレと共に流し込んだ。


「お願いだから、いい加減大人になってちょうだい。あの子の何が気に入らないか分からないけど、あなたは雪子のお姉ちゃんなのよ?」


 だんだんと母親の声が甲高くなっていくのが分かったが、それはいつもと同じである。

 カフェオレで味気ない食パンを流し込み、残された雪子の朝食に手を付けようとすれば、母は大きなため息をつき、そのままテーブルの朝食を全て下げる。

 そして、苑子の眼の前でそれらを全てゴミ箱に捨てた。


(あーあーもったいない)


 駄目か、と思い、奪われなかった残りのカフェオレと食パンを飲み込む。


「……本当に、どうしてあんたはそんなに冷たいの? 雪子はあんなに大人しくて、優しくて、可哀相な子なのに……」


 苑子に背中を向けたまま、キッチンから母の説教が続く。

 正直母親の話はほとんど聞き流していた。

 だいたい言っていることはいつもと同じだ。


「雪子は昔から辛くても我儘も言わないで、お母さんの言うことをちゃんと聞いていたけど、あんたは昔から思いやりがなくて、何をやってもすぐに飽きて、途中で放り出して……」


 後でコンビニで何か買おうかなと思いながらもとりあえず食パン一枚を完食する。

 それかお昼の売店まで待つか。

 朝は食パンだし、お昼はおにぎりにしようかと苑子は考えていた。


「雪子が病気がちで、友達がいないのを知ってわざと家にお友達を呼んだり、誕生日にプレゼントなんて大量に貰ってきたりして…… それがどれだけ雪子の心を傷つけたか、分かる?」


 だいたい母親が話すのは昔のことが多い。


 アルバイトをするようになり、自分で電話代も食事代も稼ぐようになった苑子は日中ほとんど家にいないのだ。 

 今の苑子がどこで何をしているのかを、そもそも母は知らないのである。

 苑子が三日ぐらい家に帰らなかったときも、雪子に言われるまで気づかなかったぐらいだ。

 

(そういえばそんなことがあったな〜 いつだっけ?)


 苑子だって成長するのだ。

 昔のように誕生日プレゼントを貰って帰ったその日に親に怒鳴られて泣きながら返しに行ったり、お菓子やケーキを捨てられたり、唯一手元に残った友達からの手作りのリボンを妹にあげるはめになったり、というヘマをもう二度としたりしない。

 友達の目の前で、妹を仲間はずれにして可哀相だと思わないのかと頬を叩かれれば嫌でも学習する。

 どんな能天気な馬鹿でも目が覚めるというものだ。


「ピアノ教室だって…… 才能と根気がないからってすぐに止めちゃってね。本当に、あんたにはお金をかけるなんて溝に捨てるようなもんよ」


 ぼんやりとそういえばなんでピアノを止めたんだろうと考えて、ちらっと消されたテレビ画面に映る自分の顔を見つめる。

 黒い画面に映るショートヘアの自分を見て、なんとなく曖昧な記憶が蘇ってきた。


 ピアノは正直嫌いではなかった。

 むしろ好きだったのだろう。

 妹が同じ教室に入り、その頃から月謝のことで母親にぐちぐち言われても続けたいと思うぐらいには好きだったと思う。


「聞いてるの!?」


母親のヒステリックな叫びに、少しぼうっとしすぎたなと苑子は反省した。


「とにかく、あんたがどうせまた雪子に意地悪したんでしょう? 全部あんたが悪いんだから、雪子に謝りなさい!」

「……」

「いい? あんたはお姉ちゃんなの。あの子を守って、全部譲ってやる義務があるの? 分かった?」

「はーい」


 苑子はとりあえずいつもの様に頷いた。

 それに一応満足したのか、早く食器を洗って出て行ってと催促する母親に素直に頷く。

 食器と言ってもマグカップだけだから楽なものである。

 機嫌が悪そうだし、下手に逆らってまたヒステリックに怒鳴られたり、物でも投げられたら堪らない。

 最悪私物を捨てられるはめになる。

 ここら辺の扱いは匙加減が必要なのだ。 

 母親のあれは一種のヒステリックであり、気にするだけ損であることを苑子は長年の経験で知っている。

 昔の母親はもうちょっと違った気がするが、あまりにも昔すぎて記憶が曖昧だ。

 もちろん、覚えていることある。


『ごめんなさい、雪子…… お母さんがもっと貴方を丈夫に生んでやれば良かったのに』


 忘れた記憶も多いが、たぶん、これからも忘れられないであろう記憶も多かった。


『ごめんなさい、雪子。お姉ちゃんがあなたの栄養も健康も幸せも、全部吸い取っちゃったのね。お姉ちゃんの後に生んで、ごめんね、ごめんね……』

 

 初めはもしかしたら、ただの八つ当たりだったのかもしれない。


『どうして、あなたは妹が苦しんでいるのに笑っていられるの?』


 もしくはすぐに体調を崩し、健康な姉を羨ましがって壊れたように泣く雪子を宥めるためだったのかもしれない。


『どうして、妹の健康を全部奪ったの? どうして妹の分を残さなかったの? あなたが意地汚いせいで、あなたの妹は不幸になったのよ?』


 何をしてもすぐに熱を出す娘と、それと一つ違うだけで元気に公園を駆けまわる娘を見て、母に何か思う所があったのかもしれない。


(どうでもいいけど)


 今の苑子には全てどうでも良い話だ。



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