第7話

〈雪子〉


 朝から食欲がないと告げると母は大慌てで雪子の熱を測ろうとした。

 更には病院で診てもらおうと心配するその姿に雪子はうんざりする。


 幼い頃から病弱で、何かと過保護な母は雪子をまるで赤ん坊のように扱う。

 一方で姉は母親からの過干渉から逃れ、いつも自由に行動している。


「本当に大丈夫? 無理しないで休んだら?」

「うん…… ただ食欲がないだけだから」


 玄関先でも続く会話に苛立ちながら、雪子は早く家から出たかった。

 秋くんが帰った後、逃げるように部屋に引き籠もり、ずっと泣いていたせいか、目が腫れている。

 何度も心配した母に部屋をノックされたが、雪子は全てを無視した。

 いつものようにまた姉が何か意地悪をしたのかと扉の外で微かに母が姉を叱る声も聞こえたが、ちっとも心は晴れず、むしろ余計に雪子は泣いた。


「せめてサラダぐらい食べたら? スープとか…… 雪子の好きなカフェオレとか?」

「……ごめん、本当に食欲ないの」


 引き留めようとする母を怒鳴らないように意識しながら、雪子は自分でも分かる暗い顔で靴を履いた。


「いってきます……」


 いつもギリギリまで寝坊しているだらしのない姉と万が一でも顔を合わせたくなかったのだ。

 だが、逃げるように玄関を開けてすぐに雪子は後悔することになる。


「あ、おはよう」


 満面の笑みを浮かべた失恋相手が目の前にいたのだから。


「秋くん……?」

「ごめん、朝早くに」


 声が上ずっていないのか、こんなときでもくだらないことを考えてしまう。

 青白かった頬が一気に赤く色づくのが自分でも分かった。

 反射的に目の前の秋くんの爽やかな笑顔に胸がときめいてしまう。


「えっと…… 苑子先輩は……?」


 すぐにそのときめきは痛みに変わってしまったが。


「……まだ、寝てると思う」

 

 ぽわっと分かりやすく幸せオーラを放ち、そわそわと視線を彷徨わせて姉について尋ねる秋くん。

 秋くんは姉への好意を隠そうともしない。

 雪子はずっと、その素直で明るい性格に惹かれて遠くから見つめていた。

 だからこそ嫌でも秋くんが姉に本気なのが分かって辛い。


(どうしてお姉ちゃんなんだろう……)


 姉には敵わないと思いながらも、その鬱屈とした気持ちを拭い去るのは難しい。

 苑子の馬鹿にしたような声が頭の中に蘇り、息が苦しくなる。


「あ、ちょっと早く来過ぎたかな……?」


 きっと、姉と登校する約束をしていたのだろう。

 約束の時間が過ぎても出て来ない姉に、どこか不安気な顔で佇む秋くんは、なんだか飼い犬みたいで可愛かった。

 こんな秋くんを見たのは初めてだ。


「ま、また寝坊してると思うから、先に行った方がいいと、思う……よ?」


 秋くんの顔を見ると必然的に昨日の光景が目に浮かび、雪子はつい視線を反らしてしまう。

 それでもなんとか話かけることが出来て、雪子はこんな状況にも関わらず胸が熱くなった。

 赤く火照た顔でちらっと秋くんに視線を移せば、じっとこちらを見下ろして来る真っ直ぐな視線とかち合う。


「……な、なにっ」

「んー? あ、ごめん。じっと見ちゃって」


 少し屈んでいた腰をあげ、秋くんは少しだけ気遣うように雪子をじっと見つめる。


「目、腫れてる?」


 大丈夫かと、顔を覗き込まれ、近すぎるその距離に、緊張で雪子の足がふらつきかけたとき。


「おい」


 不機嫌な「幼馴染」の声が雪子と秋くんに降りかかった。




〈秋〉


 秋は堂々と目の前に立つ男の顔を見て首を傾げた。


(誰だ、こいつ)


 身長は同じぐらいだろうか。

 着ている制服も同じだ。

 ネクタイの色の違いを見て、秋はすぐに一個上の「先輩」だということに気づいた。


「は、春、斗くん……」


 雪子の驚いたような声に、秋は警戒心を解く。

 知り合いかと軽く会釈すると切れ長の目で睨まれた。


「そいつに何してんの」


 なんとも顔立ちの整った男に不審者のように睨まれながらも、秋は持ち前の性格の良さでにっこりと笑って返す。

 雪子の様子を見れば知り合いだと分かる。

 どんな関係かは知らないがとりあえず穏便に対応するべきだろうと冷静に思ったのだ。


「雪子……さん、の知り合い?」


 ふと、雪子のことをなんと呼べばいいのか考えたが、無難にさんづけにした。

 堅苦しい気もしたが、正直雪子との距離感を秋は計りかねているのだ。

 恋人の妹というなんとも微妙な立ち位置にいるので、将来のことも考えればここは出来るだけ友好的な関係を築きたいと秋は考えている。 

 苗字で呼ぶのもなんだかよそよそしいし、しかし同い年だからと言って呼び捨ては馴れ馴れしすぎるだろうなと一応の配慮をした結果だ。


「だったら何?」


 そんな秋の配慮なども知らず、目の前の男は感情を伺わせないような無表情で睨んで来る。

 むしろより一層警戒心が強くなったようだ。

 一体何が男の気に障ったのか分からないが、初対面であまりにも失礼じゃないかと秋は笑顔の裏でむっとした。

 そんな笑顔と無表情で対立する二人の間にピリピリとした緊張感が漂う。

 真ん中に挟まれた形の雪子は顔を青褪めさせ、震えていた。

 祈る様に両手を握りしめて、おろおろと長身の二人を上目遣いで伺う。

 零れ落ちそうな大きな目が次第に潤み始めている。


(……いや、早くなんか誤解解いて欲しいんだけど)


 ちらっと横目で雪子の様子を見ていた秋は笑顔が若干引きつき始めていた。

 唯一この場で二人を知っている雪子が何か言わないと延々とこの奇妙な睨み合いが続きそうなのだ。

 意外と短気な秋はもしも雪子が苑子の妹でなければ確実に不機嫌を顔に出していただろうなと思った。


「……で? こいつ、誰なわけ?」


 と、秋が何か言葉を発する前に目の前の男が雪子に視線を向けた。

 さらっとした黒髪に、涼し気な切れ長の目。

 どこか冷たそうな無表情といい、なんとも雰囲気のある美形だ。

 よく犬属性とか、爽やかと称される秋とは対照的である。

 そんな冷たい雰囲気の男の問いかけに、雪子は目に見えて怯えていた。

 どこか強張っているようにも見える。

 雪子をよく知らない秋には分からないし、興味もなかった。

 秋にはこの雪子が常に怯えているような、おどおどしているような印象しかない。

 どうやらそれは当たりのようだ。

 いつまでも口ごもって何も言わない雪子には正直困っている。

 人見知りっぽいとは思っていたが、ここまでとは思わなかった。


「さっきからこいつに絡まれていただろ」

「……はぁ?」

「あ、ち、ちがっ」


 男の言葉にさすがの秋の笑顔もひきつる。

 思わずガラの悪い声が出た。

 慌てたように説明をしようとする雪子になんとか我慢している状態だ。

 さすがに苑子の家の前で変な騒ぎは起こせない。


「この人は…… その、お姉ちゃんの……」

「……苑子の?」


 見知らぬムカつく男の口から苑子の名前が出たことに秋の顔が歪む。

 初対面の気に食わない男の口からまるで慣れ親しんだように恋人の名前が自然と出たことが気に喰わなかった。


「お姉ちゃんの…… あの……」


 核心をなかなか言わない雪子への苛立ちもあった。

 目の前の男が誰かは知らないが、早く誤解を解いて欲しいし、自分のこともさっさと説明でもなんでもして欲しいと思った。

 一体何を口ごもる必要があるのだと、秋は崩れかけた笑顔をなんとか保ち、雪子のもごもごとした言葉を遮るようにして男に言い放った。


「俺、苑子先輩の彼氏です」


 どうもはじめして先輩。

 よろしくはしなくていいっす。

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