第6話

 

〈雪子〉


 それが恋だと気づいたときにはもう引き返せないほど好きになっていた。

 でも、自分から声をかけることは出来なかった。

 だって、雪子にそんな勇気はない。

 雪子はずっと昔から、小さい頃から大人しく、気が弱く、地味だ。

 派手な姉とは違い、自分に全く自信がなく、目立たない。

 初めから、恋を自覚した瞬間から、雪子は諦めていたのだ。

 同じ委員会で席が隣りになったときや廊下をすれ違ったとき、体育祭で小声で応援したりしたときだけ、優しく気さくな秋くんの朗らかな笑みが自分に向けられる。

 それがその他大勢と同じ扱いでも雪子は満足だった。

 それだけで、幸せだったのだ。


『なら、なんで高校まで追いかけるの?』


 そんな、慎ましやかな雪子の気持ちなど分かりっこない姉の、苑子の言葉が蘇る。

 こっそりと撮った秋くんの写真を姉に見られたことが雪子の不幸の始まりだった。

 雪子は昔から運が悪い。

 そして、昔から雪子のことを冷たく見る姉が苦手だった。

 そんな姉に自分の好きな人がバレた日、もしかしたらそれが雪子の人生で一番不幸な日だったかもしれない。

 姉に怯え、逆らうことができない雪子が震えながら秋くんについて話したときの、姉のあの見下したような顔、嘲笑を、覚えている。


『へぇ…… これがあんたのタイプなんだ』

 

 秋くんの写真を一通り眺めた後、我慢できないとばかりに笑う姉に、嫌な予感を覚えた。

 しかし、雪子にはどうすることもできない。

 秋くんを馬鹿にしたように見ていた姉に反論することも、スマホを奪い返する勇気もなかった。

 昔からそうだ。

 苑子はとにかく気分屋で、傲慢で我儘で、雪子を意味もなく嫌っていた。


 しかし、雪子には姉に逆らう勇気も気力もない。

 ただひたすら我慢するしかない。

 そうやって雪子はずっと我慢してきた。

 思い返すと雪子が不運なのも、過去に起きた嫌なことも全部姉のせいだ。

 姉の苑子は雪子にないものを全てを持っている。

 姉のその我儘な性格のせいで雪子は辛い幼少期を過ごして来た。

 頑張って違う中学に入学し、なるべく関わり合いにならないよう、地味で平凡で、平和な生活を謳歌しようと受験を頑張った。

 それでも苑子という美しすぎる姉の存在のせいでずっと雪子は肩身の狭い思いをし、自尊心を失い、植え付けられたような後ろ向きな性格のせいで中学でもまともに友達ができなかった。

 そんな中学時代唯一心から喜び、輝いていたのが秋くんを遠くから見るときである。


『なんで告んないの? 告って付き合えば?』

『……別に、付き合いたいとか、そんなこと思ってない……』


 付き合いたいなんて、思っていない。

 だって、雪子では秋くんに釣り合わない。

 こんな、なんの取柄もない凡庸な女が。


『私は……お姉ちゃんとは、違うから』


 ずっと大輪の花のような姉と比べられていたせいで、雪子は必要以上に自分の容姿にコンプレックスを持っていた。

 もちろん、姉に雪子の気持ちなど分かりっこない。

 どれだけ学校で怒られても、家族に迷惑をかけても、全く反省せず、気にもせずに次から次へと彼氏を作っては捨てるような姉に、雪子の気持ちなどわかるわけがないのだ。

 傷つけられる人の気持ち、奪われる人の気持ち、何も持っていない人の気持など、姉に理解できるはずがない。

 いつだって自分勝手で、雪子の欲しいもの全部を持っていた姉に。


『てか、隠し撮りして、高校まで追いかけるって、もうストーカーじゃん』


 心底馬鹿にしたように言う姉が雪子の惨めな気持ちを理解することは永遠にないだろう。


『気持ち悪い』


 綺麗な顔を歪ませて、吐き捨てた姉に、雪子は今も昔も、ただ泣いて耐えることしかできない。


(お姉ちゃんなんて、きらい)


 雪子から全部奪って行く姉が嫌いだ。

 雪子が、秋くんのことが好きだってこと、知っているのに、知っていたのに。


(どうして……)


 こんな日が来るなんて、想像していなかった。

 姉と秋くんが2階に行ってから、何分経ったのだろうか。

 雪子は、姉が何をしているのか知っている。

 過去に数回、姉が「彼氏」を部屋に連れ込むのを見た。

 二人の部屋は向かい合わせだ。

 姉が部屋の中で男と何をしているのか知らないはずがない。


 だから、雪子はまだ自分の部屋がある2階に行くことができなかった。

 鞄を抱え、必死に耳を塞ぎ、少しでも2階の部屋から聞こえる音が聞こえないようにする。

 一層のこと家から飛び出したかったが、雪子の足は力が抜けたようにその場から動くことができなかった。


 どうして、どうして。

 どうして、秋くんが家にいるの?

 どうして、お姉ちゃんとキスしていたの?


『これ、私の彼氏』


 嘘だと咄嗟に否定したが、姉が嘘をつかない人間だということを雪子が一番よく知っていた。

 嘘を付くことなどもせず、姉は人を傷つけることができる。

 雪子と違って姉は何かを誤魔化したり、我慢したりする必要がないのだ。

 それが雪子には羨ましくて仕方がない実に羨ましい。

 だが、今一番羨ましいのは、妬ましいのは秋くんの存在だ。


 姉が、苑子が秋くんと付き合っている。


「最低……っ」


 知っていたくせに。

 雪子の気持ちを知っていたのに、どうしてそんな残酷なことができるのだろう。


(私には、何もないのに……)


 姉と違って可愛くも綺麗でも器用でもない、地味で凡庸で、無個性な雪子。

 こんな自分を好きになってくれる人なんていないってわかってる。

 それでも、秘めた秋への想いは、雪子の希望だったのだ。


「なんで、なんで…… なんで、私だけ……っ」


 どうしてお姉ちゃんは綺麗で、私は醜いの?

 どうして私はお姉ちゃんと違って何も無いの?


 まだ幼く、この世の不条理も悪意も知らなかった頃、雪子は母に、父に、幼馴染に、そして姉自身に問いかけたことがある。

 そのときの彼らの反応を雪子は覚えていない。

 ただ、そのときからだろう。

 雪子が姉の自分への嫌悪に気づいたのは。


「ひどいよ、お姉ちゃんばっかり…………」


 一人でリビングで静かに泣く雪子は、幼いあの頃と何一つ変わっていない。


 どうして。

 何故。

 そんな自問自答が頭の中を埋め尽くす。

 姉はいつだって意地悪で、雪子の欲しいもの全てを掻っ攫って行った。


 雪子には何もないのに。

 何もない雪子から、残酷に奪って行く。


(きらい、嫌いっ、お姉ちゃんなんて……っ)


 噛みしめた唇から血が出る。

 でも雪子の心はもとっくに血まみれだ。

 しかし、雪子にはどうすることもできない。

 姉に比べて雪子には何もないのだ。

 特別可愛くも無ければ、綺麗でもない。

 こんな凡庸な自分が誰かを好きになること自体烏滸がましいのだ。


 だから、恨んではいけない。

 憎んではいけない。

 我慢しなければいけないのだ。


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