第5話


 苑子の部屋にはほとんど何もない。

 寝るためのベッドと箪笥と机が置かれているぐらいだ。

 無造作に散らばった洋服や雑誌だけが殺風景な部屋に色味をつけている。


「ごめんね。つまらない部屋で」


 なかなか部屋に入ってこない秋に苑子は微笑んだ。

 散らかったままの掛布団と枕をどけて、軋むベッドの上へと腰かける。

 その際に揺れ動く短いスカートの端に秋は目を奪われた。


「ね。こっちに来てよ」


 くすくすと今だ突っ立たままの秋に苑子は意味深に微笑みかける。


 秋にはベッドに腰かける苑子がとても輝いて見えた。

 ベッドの上にいる恋人に興奮し、無意識にごくんっと唾を呑み込もうとする。

 呑み込もうとして、秋は自分の口の中がからからだということに気づいた。

 口だけではなく喉もからからで、でも不思議と水が飲みたいと思わなかった。

 ただ、何かが欲しくて、食べたくて仕方がないという衝動が纏わりつく。

 その衝動が何か、知らないはずもない。


 率直に、秋は苑子に欲情していた。


 できれば、部屋に招かれたその瞬間に苑子の手首を掴み、その唇を奪って制服を乱して…それから、それから……


 安っぽいAVのような妄想が一気に頭を駆け抜け、秋は苑子が声をかけるまでの間に苑子の裸を想像し、もちろん、更にその先のことも…

 これは健全な男子高校生の秋にとって初めての妄想ではない。

 秋は苑子に一目惚れしたその日から、何度も頭の中で、シチュエーションを変えながら、苑子の乱れた姿を想像し、妄想した。

 経験のない秋は過去にお世話になったセクシー女優の顔に苑子を置き換えて妄想したこともある。

 何度も、数え切れないほど。


「秋くん?」


 苑子の呼びかけに、頭がフリーズしていた秋ははっと、目を覚ましたように、再び苑子に視線を向けた。

 想像でも妄想でもない、現実の、初めて好きになった女の子が、今生々しく自分に微笑みかけている。

 現実の苑子の笑顔を見て、秋は突然強い罪悪感を感じたが、どうしても頭は勝手に乱れる苑子の姿を妄想してしまう。

 そんな秋の汚らわしい妄想と違い、現実の苑子はどこまでも優しく無防備に秋を手招いている。


 ちらっと見える苑子の白い太ももに、眩暈がした。

 まるで熱中症にでもかかったかのようだ。

 身体中の体温が上がり、このままでは蒸発してしまうと、秋は本気で思った。

 もしも今苑子に秋が考えていること、頭の中で延々と流れる妄想を知られたら、秋はもう生きていられない自信があった。


 それと同時にこんなにも無防備に秋を部屋に招く苑子に対して理不尽な怒りも湧き上がる。


 経験のない秋には苑子の意味深な行動の真意が分からない。

 誘っているのだろうか。

 それとも揶揄っているのだろうか。

 その境目が分からず、だからこそ秋は苦しかった。

 下手な期待をして拒絶されて軽蔑されたらと思うと、怖い。

 秋が未経験だと知ったら、苑子は呆れるかもしれない。

 そして、男慣れしたような苑子の行動、仕草から見える過去の苑子の男の影に秋は強く嫉妬している。

 秋にその自覚はまだない。

 今の秋はとにかく目の前にぶら下がる餌が本物か偽物か見極めるのに必死だった。

 見誤れば、きっと苑子に軽蔑される。

 冷静な判断を奪う自身の男としての欲望が今は邪魔だ。

 秋が必死に欲望と戦っているのを、壊れそうな理性で守ろうとしているものを、苑子は知っているのだろうか。


「おいで、秋くん」


 まるで、何も知らないかのように、苑子が再び秋を誘う。

 秋くん、と呼ぶ苑子の声は何よりも柔らかく甘い。

 その声は魔法のように秋を支配してしまう。

 何も考えられなかった。

 さっきまで必死に抑えようとしていた、色んな葛藤がどうでもよくなる。

 心の準備とか、お付き合いの手順とか。

 秋の常識や理性など脆いものだ。


 だって、仕方がない。


 秋は胸の内で言い訳をする。

 好きな彼女の家で、彼女の部屋で。

 ベッドの上から手招きされて、冷静でいれるはずがない。

 あんなにも甘く、名前を呼ばれたら。

 真っ白い、太ももを見せられたら。

 上目遣いで、見られたら……


 自制は持った方だ。

 付き合ったばかりの二人には、そういう行為はまだ早いとか。

 本気で苑子のことが好きだからこそ、秋は自分の欲望を我慢し、慎重に行動しようと思っていた。

 期待していなかったのかと言えば嘘になるが、それでも秋は少しでも年上の苑子に誠実で余裕のある男に見られたかったのだ。

 がっつくような、女慣れしていないことが丸わかりな自分を見せたくないという男のプライドがあった。

 自分の心臓の音が苑子に聞こえているのではないか、妄想が見透かされているのではないかという恐怖と戦いながら、秋は精いっぱい理性の糸を張り巡らせていたのだ。

 今にも千切れそうな、脆い理性の糸を。


 だが、それはあっさり苑子の吐息で焼き尽くされた。

 おずおずとベッドの淵に腰かける秋に、苑子はゆったりとした動作で抱き着く。


「……ぅ、そ、苑子先輩っ!?」


 子猫が甘えるように苑子は秋の背中に頭を擦りつけた。

 背中越しに秋の動揺が苑子に伝わる。

 思わずくすっと笑う苑子の笑い声に秋の硬直した肩が勢いよく上がり、その焦りようがまた更に苑子を笑わせた。

 秋の心臓の音の早さと火照そうなほどの熱、服越しでも分かる大量の汗に苑子は目を細めてにんまりと笑う。

 俯き、なるべく苑子の方を見ないように床を見つめていた秋は気づかなかった。

 ただ、部屋に流れる気まずいような浮つくような空気に期待し、自制し、また期待する。

 その繰り返しだ。


 好きな子とエッチがしたい。

 初めて本気で好きになった相手。

 告白して、恋人となり、次に何を望むのか。

 当たり前すぎる欲望に戸惑う秋は、どこまでもただ純粋に、誠実に、本気で苑子に恋をしていた。

 そんな秋の耳元に生温かい吐息を当てながら、苑子は囁く。


「秋くん」


 苑子は容赦がない。

 必死に何かに耐えるように踏ん張る秋。

 その最後の砦を壊すことに躊躇いなど一欠けらもない。

 分かりやすすぎる秋を落とすなど容易かった。

 一言囁けばいいのだ。

 秋の願望を肯定してやればいい。

 なんとも情緒のない、直接的で下品なことを。


「ねぇ…… シよ?」


 主語もない端的な言葉。

 もちろん、今時の男子高校生がその意味を履き違えるはずもなく。


「……ッ!?」


 ばっと、横を向き、苑子の顔を信じられないと言わんばかりに秋は凝視する。


「私、もっと秋くんと仲良くなりたいな」

「そ、そ、のこ、せんぱい…… それって、あの、」


 ふるふると拳を震わせ、必死に歯を食いしばる秋の顔はちょっと気を抜いたら笑ってしまいそうになるほど必死だ。


「わかんない? 私の言ってること?」


 さすがに、この場面で爆笑すると後が面倒なので、苑子は内心のみで余裕のない彼氏の様子を揶揄する。


「今すぐ、秋くんと、気持ちいいことがしたい」


 もっともっと追い詰めてやりたいという嗜虐的な気持ちが芽生えたが、今はそれに蓋をした。


 そして、少しだけ苑子は後悔した。


(部屋に連れて来なきゃよかったな)


 あのままリビングで秋を誘惑し、自分の言葉や仕草一つで面白いぐらいに表情を変えるその姿を、もっと妹に見せてやれば良かった。

 三年間、その存在をまったく秋に意識されていなかった妹の雪子。

 可哀相な妹。

 あんなに一途に、わざわざ高校まで追いかけるほど秋に惚れていたというのに、当の秋本人にまったく相手にされていないのだ。

 しかし、なんの因果か、雪子に関心もなく、見向きもしなかった秋はあっさりと姉である苑子に恋してしまったという。

 秋は直接話したこともない、ただ一目その姿を見た瞬間から苑子に心を奪われたというのだ。

 これほど愉快で痛快で、妹にとって悲劇的なことはない。

 まだ、雪子にはどういう経緯で秋と付き合うことになったかは言っていないが、明日になれば嫌でも学校に広まっているだろう。

 なんせ、苑子は目立つのだ。

 その妹である雪子がいくら地味に徹していようとも、苑子の妹である限り逃げられない。

 存分に、周りから嘘か本当かも分からない二人の馴れ初めを聴けばいい。

 聞かされればいい。


「えっちなこと、しよう?」


 せいぜい、悔しがり、思う存分苦しめばいいのだ。


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