第4話


 「委員会がどうとかって言ってなかったっけ?」


 予想よりもずっと早い妹の帰宅に苑子はリビングの時計をちらっと確認した。

 惚けたままの秋の隣りに隙間なく座りながら。

 二人分の体重を載せて軋むソファーに、秋は漸く意識をこちらへ戻した。


「そ、その、こ先輩…… 今、さっき、き、き、き……」


 茹蛸のように首まで顔を真っ赤にしながら秋は決定的な言葉を言えずにいた。

 今だ生々しく唇に残る感触が信じられなかったのだ。


「キス、のこと?」


 苑子の明け透けな言葉に、秋は息を飲む。

 そして額に理由の分からない汗を滲ませながら頷いた。


「ごめんね、奪っちゃった」 


 悪戯っぽく答える苑子に、秋は言葉にならない衝撃を受けた。

 嬉しくて堪らない気持ちと、もっとちゃんとした場面で自分からしたかったという願望。

 心臓が飛び出てしまうのではないかと不安になるほど胸がざわつく。

 ブレザー越しに左胸を握りしめながら、荒くなった息を整えようとする秋に、苑子はそっと視線を外す。


「本当に、ごめんね?」


 苑子の唇が微かに歪む。

 その視線は隣りの秋ではなく、今だ突っ立たままの可哀相な妹に向けられていた。


「秋くん、紹介するね。この子、私の妹の雪子」


 そう言って雪子を指差す苑子。

 苑子が示す先を素直に目で追いかけた秋は雪子という少女と目があった。


「私の一個下。秋くんと同い年」


 苑子に妹がいるということを秋は初めて知った。

 しかも同じ学年で高校も一緒だという。

 高校に入学してすぐに苑子に一目惚れし、それ以降は苑子のことしか考えていなかった秋は同学年の女子は全く眼中になかったのだ。

 元から人付き合いがよく、明るい性格の秋は当然のように苑子の妹とも仲良くしたいと思った。

 恥ずかしい場面を見られたということに関してはもう頭に残っていない。


「はじめまして! 俺、間宮 秋っていいます」


 ソファーから勢いよく立ち上がり、元気が若干空回りした秋の挨拶に引いたのか、見た目からしてひどく大人しそうな苑子の妹は顔を引き攣らせ、よろけそうになっている。

 秋は中学の頃はその運動神経の良さで体育会系の部活の助っ人としてよく活躍していたためか、やたらと声が大きかった。

 苑子の妹に良い印象を残したいと張り切ったせいもある。


「秋くんって東中だよね」

「はいっ」


 急な苑子の問いかけに慣れかけて来た秋は素直に答えた。

 苑子から自身のことについて何か訊かれるだけでも嬉しく、秋の見えない尻尾が回転する。

 その様子が微笑ましいのか、苑子はにっこりと満面の笑みを浮かべながら話を続けた。


「知ってた? 雪子も、東中出身だよ」

「え」

「覚えてない? 何度か委員会で一緒になったって、あの子から聞いたんだけ?」

「……マジ、ですか?」


 薄っすらと上気していたはずの秋の顔が徐々に青くなる。

 目を泳がせ、苑子と雪子の間を彷徨い、そして雪子の泣き出しそうな表情に気づいてぎょっとする。


「えっと、その…… 俺、あんま記憶力良くなくて……」

「…………私、地味だったから」


 耳のいい秋はなんとか蚊の鳴くような雪子の声を聞いた。

 俯き、その顔は見えないが悲哀が滲む声色に秋の良心がきりきりと痛む。


「ご、ごめん……」

「……大丈夫、気にしてない…… か、ら」


 そう答えながらも、雪子の足元に水滴が落ちたのを見て、秋はぎょっとした。

 まさか雪子が泣くとは思わなかったのだ。

 女子を泣かせるなど、幼稚園の頃以来だろう。

 慌てて袖で目元を拭く雪子に、秋は焦り、近づいて謝ろうとした。


「気にしなくていいよ秋くん。雪子は昔から泣き虫なの」


 生まれたときから涙腺がぶっ壊れていると苑子は笑う。

 焦る秋と涙が止まらず、そして混乱している妹を面白がっていた。

 いつもならば雪子がぐずぐずと泣き出すだけでどうしようもない苛立ちが苑子の胸に芽生えるのだが、今回は違う。


 一途に片思いをし続け、ついには思い余って推薦先の高校を蹴ってまで追いかけた男が全く自分の存在を知らなかったのだから。

 まぁ、それよりもショックを受ける場面を見たせいもあるのだろう。


 今の苑子は機嫌がいい。

 必死に涙を止めようとする雪子をもっともっと泣かせて、優越感を味わいたかった。

 というよりも秋に顔を覗き込まれ、謝られている状況に顔を真っ赤にして慌てる雪子に現実を突きつけたかったのだ。

 初心そうに慌てながら、間近にある好きな男の顔にうっとりと見惚れる雪子。

 現金なものだ。 

 もしかしたら、心が現実逃避して、先程の苑子と秋の親密な様子を忘れようとしているのかもしれない。


(一発、目を覚まさせてあげないとね)


 直接殴るよりもずっと効果のあるやり方を苑子は知っている。


「雪子」


 顔がにやけないようにするのを頑張りながら、苑子は雪子の名を呼ぶ。

 何故か釣られて秋も苑子の方へ視線を向けた。

 ちょうどいいと、苑子は笑みを浮かべる。


「改めて紹介してあげる」


 おいで、と手で招くだけで秋は苑子の隣りへやって来る。

 そのまま跪いてしまいそうな忠犬ぶりだ。


「これ、私の彼氏」


 秋をソファーに座らせ、その腕にしがみ付いて肩に頭を置きながら、苑子は立ったままの雪子を上目遣いで見つめた。

 眼鏡越しでも分かる雪子の大きな目が凍りつく。


「嘘」

「本当」


 咄嗟に雪子の口から飛び出した台詞に、予め内容を想定していたのか、苑子はあっさりと斬り捨てた。


「え、だって…… だって、私……」

「私が、何?」


 目元を赤くし、水滴で揺れる睫毛を瞬かせる雪子に苑子は容赦がない。

 どうせ続く台詞などいつもと同じでネガティブなものであろう。


『私が秋くんのことが好きだって、知っているのに』 


 と、そんな感じの恨み言でも言いたいのだろう。

 雪子にそんな勇気も度胸もないことを苑子はよく知っている。







「っていうことだから、二人で部屋にいるね」


 っていうことって、何?と言いたいのを雪子はぐっと我慢した。

 今だ混乱し、状況を受け入れていない雪子に苑子は無情に告げる。

 どこか甘ったるい声だが、生まれたときから姉のことを知っている雪子からすれば良からぬことを企んでいるときの声にしか聞こえない。


「そ、苑子先輩っ…… あの、部屋って……」

「私の部屋」 

「っ!?」


 秋の息を呑む音がリビングに響く。

 ぼやけた視界で雪子の想い人の顔がこれでもかと赤くなっている。

 髪の間から見える耳まで赤い。


(秋くん……)


 秋を、自分の想い人をこんなに近くで見るのは久しぶりだ。


 いつからだろうか。

 その姿を見ただけで、声を遠くから聞いただけで胸がざわつくようになったのは。

 半ば現実逃避のように過去へと思いを馳せそうになる雪子だったが、すぐにその意識は現実に引き戻された。


「雪子」


 雪子のざわつく心を読んだかのように苑子が声をかけてきたからだ。

 いつの間にかソファーから離れ、雪子の近くに立っている。

 リビングから出たいのだろう。

 つい反射的に怯えるようにして、雪子は扉前から場所を移動した。

 まるで苑子に怯えるように。


「夕飯はいらないから。しばらく秋くんと部屋にいるね」


 その言葉に雪子と、そして秋が共に動揺を露にする。

 湯気が出そうなほど顔を赤くして硬直する秋。

 細い肩を跳ねあがらせ、何か言いたげな顔で苑子を見つめる雪子。


「……ッ」


 結局、その口からは何も出なかった。

 代わりに耐えるようにして唇を噛む。

 唇を噛みしめるのは雪子が悔しがっているときの癖だ。

 本人は無自覚だろうが。


 苑子かわ秋の腕に密着すると、雪子は今にも泣き出しそうな表情を浮かべる。

 傷ついていますと言葉よりも雄弁に潤んだ目が苑子に訴えている。

 そんな可哀相な妹の姿に、苑子は胸がすかっとするような爽やかな気持ちを抱いた。


「覗き見しちゃ、だめだよ?」


 普段の苑子ならば絶対言わないような甘ったるい台詞を雪子に投げつけた。







 緊張しすぎて喉が干からびたように渇いている。


「雪子ってさ、可愛いでしょう?」


 そのせいか、階段をのぼりながら唐突に話しかけて来た苑子に上手く返事が出来ずに咳き込んでしまった。

 突然咳き込む秋に、普段ならば飄々としている苑子は珍しくも素で驚いた。


「すっ、すみ、まっ、げほっ…… せんっ」

「え、そんな変なこと聞いた?」

「いえ、ぜんぜんっ」


 慌てて否定する秋に、苑子は当然のように頷く。

 だが、自分から話を振ったというのに何故かその顔は晴れない。

 むしろ心底面倒臭そうな表情を浮かべている。


「初めて見たときから…… って、初めてじゃなかったみたいですけど……」


 そんな苑子の様子に気づかず、秋はなんとも気まずい出会いをしてしまった苑子の妹の姿を思い出していた。


「全体的に、可愛いですね。妹さん」

「どこら辺が可愛いって思った?」


 恋人の妹の容姿を手放しで褒めるという行為が一般的かどうかはさておき、含みも嫉妬もなく、苑子が訊いているのを秋は本能で感じ取っていた。

 だから、正直に答えた。


「そうですね…… 肌とか本当に雪みたいに色白で綺麗だし、睫毛も長くて、目が猫みたいに大きくて、びっくりしました。髪の毛も長いのにめっちゃ綺麗で…… 儚い美少女みたいな雰囲気なんですけど、でもぱっと見ると可愛い系みたいな」

「……よく見てるね」

「苑子先輩の妹さんですから」


 今度から学校であったらちゃんと挨拶しますと、どうやら同じ中学だった雪子のことをまったく覚えていなかったことを負い目に感じているのか、秋は変な決意を苑子に見せた。

 苑子の妹ということで興味深く雪子から苑子に似ている部位を探して見ていたとはさすがに言えない。

 更に内心で、胸は苑子よりも大きかったと実に男子高校生らしいことも思っていたりする。

 これは絶対に苑子には言えないなと秋は思った。


「あ、でも! 俺の中で一番綺麗で可愛いのは苑子先輩ですからっ!!」 


 苑子の質問の意図を考えるよりも先に秋は叫んだ。

 近くにいた苑子の鼓膜を直撃する大声に、苑子は下にいる雪子にも聞こえたんだろうなと無感動に思った。

 そしてまたしくしく泣いているのだ。


 まぁ、それはどうでもいい。


 今苑子が一番に考えないといけないのはもっと別のことである。


 見せつけるならとことん見せつけてやろう。

 苑子が美味しく秋を食べるところを。

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