第3話

 

 信じられないと、言葉にしなくとも秋の目が雄弁に物語っている。

 一体秋がいつどこで苑子のことを知り、一目惚れをして告白するまで至ったのか、詳しくは知らない。

 だが、それはさほど重要ではなかった。

 今の苑子にとって重要なのは秋がどの程度自分のことが好きなのか。


 更にどれぐらい順従であるのか。


「今日、家に両親いないの」


 苑子の言葉に戸惑い、隠し切れない喜びと緊張で固まる秋の手を一階の玄関ロビーまでひいて行く。

 その手は熱く汗ばみ、気持ちが悪いほどだ。

 そんな内心の嫌悪を微塵も出さず、苑子は恥ずかしそうに瞼を伏せる。


「……やっぱり嫌? いきなり家に来るのは」


 不安げな声に、秋は慌てふためき否定しようとした。

 だが、突然のことに脳みそが沸騰してしまい上手く言葉が出ない。

 池の鯉のように口をぱくぱくするだけの秋に苑子は歩みを止める。

 下校時間真っただ中のせいで玄関ロビーはとにかくざわついていた。

 洪水のように生徒達が帰るために足早に歩いてく。

 その流れに立ち止まる二人はひどく場違いであり迷惑だった。


「苑子先輩…」


 苑子の不安気に下がった眉。

 切なげに潤んだ瞳に桃色の頬。

 もの言いたげに微かに開いた唇。

 今の苑子を構成する全てが輝いている。

 とても魅力的だと、秋は見惚れた。

 まるで夢の中にいるような気分だ。

 苑子に告白したことも、付き合うことになったことも、こうして手を引っ張られていることも、家に誘われていることも。

 全て秋の都合の良い夢なのではないかと思った。


「で、でも、俺ら、まだ付き合ったばっかりだし……」


 本音を言えばめちゃくちゃ嬉しい。

 いつかは苑子の家へ、部屋へと遊びに行けたらなと妄想したこともある。

 だが、実際に行くのにはそれなりの期間を経てからだと思っていた。

 今日いきなり家に呼ばれるなど、そんな都合の良いことは夢ですら見たことがない。

 本能は苑子の誘いに狂喜乱舞しているのに、理性が戸惑い躊躇っているのだ。

 もしも苑子の部屋に招かれて、衝動が抑えられなかったり、何か「粗相」をしてしまったらと思うと怖くて仕方がない。

 でも、こんなチャンスは二度とないかもしれないのだ。

 何よりも答えを渋る秋に苑子の表情がどんどん暗くなっていくのが辛くて申し訳なくて仕方がない。

 自分がひどく最低な人間に成り下がった気分だ。


 そんな葛藤に悩む秋に、苑子は容赦がない。


「……要するに、来たくないんだ」


 じゃあ、もういいよっと苑子は先ほどまでのいじらしい姿が嘘のように拗ねて一人で歩き出す。


「えっ…… そ、苑子先輩っ!?」


 慌てて秋が追いかけて来る。


 それを確認し、見えないように口角を上げながら苑子はほんの少し歩くスピードを抑えた。


「違うんです! 嫌とかそういうんじゃなくて……」

「……」

「ただ、あのっ、まだ付き合ったばっかだし…… いきなり早すぎるというか、俺の心の準備が出来ていないというか……」

「知らない。もう秋くんなんて知らないから」


 秋が顔を青褪め、おろおろしている間にも苑子はさっさと靴を履き替えている。


 このままでは置いて行かれると悟った秋は苑子に待つよう土下座する勢いでお願いし、慌てて自身の靴を取りに行った。


 その素早い身のこなしと勢いよく周りを押しのける意外と強引な後ろ姿を苑子はこっそり舌を出して見送る。

 そしてさっさと一人で歩き出した。

 秋を待つつもりなどない。

 一緒に帰りたいのなら秋の方から追いかけてくればいいのだ。







「お、怒ってます……?」

「……」


 秋は子犬のように苑子の周りをうろちょろと落ち着きなく回り、ちらちらと見て来る。

 機嫌を直して欲しいと、情けない顔一面に書かれている。


「……別に、怒ってないよ」


 これ以上焦らすと妙な方向に突っ走りそうだと、苑子は斜め後ろからついて来る秋に餌をやることにした。


「……ごめんね」


 苑子の足が止まり、必然的に秋もその場に止まった。


「いきなりすぎだし、秋くんも困るって、分かってた……」


 無意識に零れてしまったかのように言葉を紡ぐ苑子。

 儚げな雰囲気のせいか、今にもその潤んだ瞳から涙が零れそうだ。


「我儘言って、ごめん……」

「せんぱい……」


 苑子の長い睫毛が陰をつくる。

 俯く苑子の表情を秋は見ることができない。


 擦れた声で、苑子は囁く。

 秋に、聞かせるためだけに。


「ただ、秋くんに、私のことを知って欲しかったの」


 そう言って、華奢な肩を震わせる。


「ねぇ…… 私のこと、秋くんはもっと、知りたくないの?」


 秋の喉が大きく上下する。

 その手が無意識に苑子の肩に伸びるのも仕方のない話だ。






「ただいま~」


 鍵を開けて、今は無人の我が家へと入る。

 誰もいないのは知っていたが、つい癖のように「ただいま」と言ってしまう。

 そんな学校では決して見ることのできない苑子の素の姿。

 それを見ることができただけでも素直に欲望に従って付いて来て良かったと秋は思った。


「入りなよ」


 苑子の家はごく普通のありふれた一軒家だ。

 ファンシーな飾りが多い玄関のマットを踏むのにも、今の秋には勇気が必要だ。


「お邪魔しますっ」


 それでももうあの時のように苑子を不安にさせたり、哀しませたくないと秋は思い、好きな相手の家という未知の領域へと足を踏み込んだ。

 緊張しているのが丸わかりな動きに、苑子はこっそりと笑う。


(本当、単純)


 見た目通り純情そうな秋の様子を笑いながら、苑子はその扱いやすい単純な性格を密かに気に入り出していた。

 ちょろっと猿芝居をしただけでこんなにも簡単に引っかかるとは。

 秋は何の疑いもなく苑子の話を全て信じるのだ。

 ひどく、好かれていることが分かる。

 秋の全身から苑子への愛情があふれている。

 好意を隠し切れない、または隠す必要を感じない秋は苑子の周りでは珍しいタイプだった。


「ソファーで寛いでてよ。今、紅茶を淹れるね」

「はいっ!」


 リビングに連れて行くと、物珍しそうに周りを見回し、そしてすぐに自分の行動を反省したのか、恥ずかしそうに目を伏せる。

 今にも犬耳と尻尾が生えてきそうな順従さだ。


 あからさまに緊張し、興奮する秋。

 あわよくばもっと苑子に近づきたい。

 好かれたい。


 触りたい。


 無言でちくちくと苑子に突き刺さる秋の率直な欲望の数々。

 心なしか部屋の温度も上がっている気がした。

 そんな妙な空気の中で機嫌良く鼻歌を歌いながら苑子は心地良い秋の劣情の籠った視線を受け止めていた。

 本人は無自覚だろう。


 可愛いものだと苑子はほくそ笑む。







「今更だけど、紅茶は平気?」


 例え秋が紅茶が苦手でも、苑子が飲み物を変更することはないだろう。

 わざわざお湯を沸かして注いだのだ。

 飲まなかったらいじめてやろうと苑子は思っていた。


「大丈夫です。俺、好き嫌いないんで」

「っぽいね」


 秋は苑子が差し出したティーカップをキラキラ輝く眼差しで受け取る。


「いただきます!」


 そして、熱々の湯気が出た紅茶を勢いよく飲んだ。

 案の定舌を火傷したのか、苦しそうに呻き始めめるが、根性で飲み干す。

 そんな秋の必死さに苑子は呆れ半分、面白半分に眺めていた。


「……大丈夫?」

「っぉ…… ぁ、お、おいひぃ、です…… こんなに美味いの、俺はじめて……」

「ティーパックだけどね」


 涙目になりながら口を押える秋の情けない表情に苑子は目を細める。


「舌、火傷したの?」


 見ていれば分かることだが、あえて苑子は確認した。

 ソファーに座る秋に近づく。

 母親の趣味である編みぐるみが所狭しに飾られている。

 そんな空間の中で秋はひどく浮いていた。

 苑子と同じく、紛れもないこの家の異物として。


「……ねぇ、見せて。火傷したところ」


 苑子はカーペットの上に膝をつけた。

 そして、秋の足の間に身を寄せる。


「そ、そ、そ…… そのこ、せんぱい!?」


 混乱し、顔を真っ赤にして喚く秋に苑子は人差し指を立てて、眉を寄せる。


「声が大きい」


 明らかに不機嫌そうな表情をつくり、秋を黙らせた。

 いや、秋は黙るほかなかったのだ。

 熱を持つ秋の唇を苑子の指先が触れているのだから。


「ね、舌、出して」


 秋の視線が激しく彷徨う。

 苑子の短いスカートから覗く膝、或いは太ももに。

 上目遣いに色っぽく見つめて来る表情に。

 苑子の甘えるような舌足らずな言葉が耳に入るたび、秋は呪文にかけられたかのように何も考えられなくなる。


 考えたくなくなる。


 目の前にいる、苑子以外のことなど考えたくなかった。


「はい……」


 おずおずと苑子の命令通りに舌先を差し出す秋に、苑子はよく出来たとばかりに満足気にその膝を撫でた。

 ぴくぴくと撫でられた箇所の筋肉が痙攣し、その動きが熱となって下半身に伝わる。

 そんな疼くような感覚を秋は覚えた。 


「わー…… 真っ赤。すごく赤くなってる」


 無邪気な苑子の感嘆に秋は耐えられないとばかりに目を瞑る。

 拳を握りしめ、どうにか視覚を閉ざさないと大変なことになると彼の本能が叫んでいるのだ。

 それだけ間近にある苑子の姿は無防備で、暴力的だった。

 だが目を瞑ったせいで感覚は研ぎ澄まされ、苑子の制服が擦れる音や太ももに置かれた手の熱や鼻腔を擽るせっけんの香りがより強くなってしまう。

 心臓が耳元で煩く鳴いている。

 血液がどくどく流れる音と、苑子の声しか今の秋には聞き取れなかった。


 苑子の底意地の悪い笑みにも、そして玄関の鍵が開けられた音も、秋は気づかない。

 リビングに入って来ようとする誰か。

 この時間帯に家に帰って来るのは苑子の他に一人しかいなかったが、もちろん秋は何も知らない。

 今、それを知るのは苑子のみだ。

 扉が開かれるタイミングを狙って、苑子は秋の熱い頬に手を添える。

 後ろから見えるように、ほんの少し角度をずらして。


「慰めてあげようか?」

「ぇ?」


 その意味が分からず、問い返そうとした秋は舌を差し出したままのためか、随分と間抜けな声を出した。

 羞恥で咄嗟に舌を戻そうとするが、それよりも早く苑子が口を近づける。

 秋の火傷した舌に柔らかく濡れた感触が触れた


(え)


 視界を自ら閉ざしていた秋は何をされたのか咄嗟に分からなかった。

 気づいたときには、秋の唇は苑子に奪われていたのだ。


ちゅっ


 不自然なほど大きく立てられたリップ音。

 その音と感触、熱に秋は驚きで目を見開く。


ドサッ


 秋を現実に戻すかのように、重たい荷物、カバンが床に落ちる音がリビングに響いた。


「…………何、してるの」

 

 気づくと、リビングには秋と苑子の他にもう一人増えていた。

 同じ制服を着た少女が呆然と口を開けている。


 たぶん、秋も似たような表情をしているのだろう。


 唯一違うのは秋の意識がずっと吐息がかかるほど近づいている苑子に向かっていることだ。

 当の苑子は顔色一つ変えずにさらっと答える。


「おかえり、雪子」


 苑子の髪がふわりと揺れながら後ろを向く。


 その視線が自分から外れ、リビングの扉付近に立っている少女に向けられたことが秋には悲しかった。

 未だ、苑子に何をされたのか、頭がぼうとしすぎて理解できない秋はぼんやりと苑子と、雪子と呼ばれた少女の姿を見る他なかった。

 二人のやり取りがどこか遠くの出来事のように見守ることしかできない。

 まるで夢の中にいるかのようだ。

 身体が浮いているような、そしてひどく重いような感覚に包まれながら、秋の手はそっと自分の唇に触れていた。


 唇も舌も。


 ひりひりと熱を持っている。


 痛いほど、熱い。

 だからこれは夢ではなく、現実だ。


(俺…… キス、された?)


 秋の頭が少し冷静になった瞬間、すぐにその脳みそは再び沸騰した。 

 そして、一方の苑子は妹の驚愕に満ちた視線を心地良く受け止めていた。


「帰って来るの、思いのほか早かったね」


 混乱に満ちた空気の中、苑子は実に清々しい笑みを浮かべている。

 今の状況が心底楽しいとその表情が語っていた。


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