円周率の日

 瑞樹が私に言ったお願い事は、すごく簡単だった。

何かあったらすぐに相談すること。

それだけだった。


これならむしろ、私の方に利がある気もする。


私はまだ何をお願いするか考え中。

考えているけれど、なかなか思いつかない。今でも十分幸せだから。


‥‥それでも、少しだけ文句を言うとしたら、ホワイトデーなのに瑞樹は中野さんたちと一緒にいること。

ホワイトデーには恋人同士で過ごすのが普通かは知らないけれど、私はいつだって瑞樹と一緒がいい。特別な日にはなお一層。


でも、チーズケーキの準備が出来るという点では良かったのかな。

作っているところを見たところで、瑞樹は気にしないだろうけど。


混ぜておいたチーズケーキの本体をクッキーをつぶして作った土台の上に流し込む。

このまま冷やして固めておけばいい。

すぐに終わってしまった。

これから瑞樹が来る夜まで何もすることがない。


何もしないでいるのが落ち着かないから、前に瑞樹と見たドラマの続きを観る。

頭の半分でドラマを聞き流して、もう半分で瑞樹のことを考えている。


結局頭の使用中の部分は全部瑞樹のことを考えている。


どうしよう。私、変だ。

朝起きたら瑞樹のことを考えているし、料理を作っていても瑞樹に会いたいって思ってる。

重症だ。

瑞樹に相談しないと。


‥‥まあ相談は嘘だけれど、瑞樹のことしか考えてないのは本当だ。


やっぱりいなくなってしまうことが、今でも怖いんだな。

信じているけれど、私の親だって信じていたのに一瞬で消えてしまったから。


ずっと瑞樹を家の中に拘束していたいけれど、恋人にそんなことはしたくない。

大切な人をずっと守りたいと思うのは、人が人である理由なんだろうな。

私も人ということだ。


だから瑞樹に早く会いたいな。



 瑞樹から今から行くと連絡が来てから三十分くらい。

やっと瑞樹に会えた。


「遅いです。」

「いや。まだ五時前だよ。十分早いと思うけど。」

「私はずっと待ってたんです。」

「今日何かあったっけ?誕生日?」

「私の誕生月は八月です。そうじゃなくて、ホワイトデーです。」

「ホワイトデー‥‥今日か。」

「そうです。ちゃんとこの前のお返しは用意してますから。」

「やった。嬉しい。じゃあ、ついでに夕食も食べてくよ。」


瑞樹の家ってこういうところが軽いみたいだからいいな。

彼女の親は家に帰ってくることが稀だから夕食を作ったりしているわけではないし、気にしなくてもいいのか。


最近の傾向として、瑞樹がここで夕食を食べると言ったら泊まっていくことが多い。

今日もそうなってくれるかな。


「瑞樹は甘いものは食事の後がいいですか?」

「えっと、じゃあそうしようかな。」

「りょうかいです。」


瑞樹がいるから張り切って晩ご飯を作る。



「あの、瑞樹?燃え移ったら危ないのであんまりふらふらしないで下さい。」

「幸音の真後ろに引っ付いてるから平気。」

「それが一番危ないんですけど。足を引っかけたらどうするんですか。」

「私が受け止めるよ。」

「‥‥‥。」

「顔赤いよ。」

「知ってます。」


そう言って瑞樹をキッチンから追い出す。

ふう。心臓に悪い。

瑞樹はこういうことを悪くない悪意で言ってくるから困る。

でも、嫌いじゃない。



夕食を食べ終わったので、デザートを出す。

うん。いい感じに固まっている。

型から取り出しても崩れる気配はない。

ゼラチンの配分が上手くいったのかな。



「どうぞ。バレンタインの分です。」

「チーズケーキだ。どこのお店?」

「私が作ったんです。」

「幸音の手作り。すごく嬉しいよ。」

「ちゃんと試作もして頑張ったんです。しっかり味わって下さい。」

「うん。じゃあ早速いただくね。」

「どうぞ。」


三角形のてっぺんが切り取られて、瑞樹の口の中へと入っていく。

そのまま瑞樹は味を確かめるように目を閉じる。

そして一言。


「酸っぱくない?」

「え?」

「甘みを感じないくらいの酸味が押し寄せてくるんだけど。」

「そんなはずは。」


試作からあまり分量を変えてないのに。

瑞樹から一口貰う。


‥‥すっぱい。


「甘くないですね。」

「紅茶の方が甘いね。」


悲しいことに、味覚が狂ってしまったようだ。


「でも、」


そう言って瑞樹が私の隣に立つ。


そして、何が起こるか予想する前に口を塞がれた。


「こっちの方が甘いよね。」


瑞樹の唇は、酸味を感じるはずなのに確かに甘美な味がした。

私の味覚も狂ってしまったようだ。


「これを狙ってたんでしょ。ゆきねはかわいいなあ。」

「そんな事無いです。瑞樹が勝手に勘違いしただけで。」

「勘違いをするようなことをするってことは、つまりそういうことなんだよ。」


違うけど?

普通においしいって言ってもらいたかっただけなんだけど。


「もうそれはいいですから。‥‥食べられないようだったら、はちみつでもかけますか?」

「いや、大丈夫。代わりに食べ終わったらキス、してよね。」

「それはいいですけど。なんで食べることが拷問みたいになってるんですか。傷つきます。」

「別においしくないってわけじゃないよ。ただ、酸っぱ過ぎて驚いたから。」


褒められたのか貶されたのか分かんない。

まあいいや。ちゃんと食べてくれてるだけでも嬉しいから。


その日最後のキスも、一切酸味を感じることは無かった。



 瑞樹はどうやら疲れていたみたいだ。すぐに寝てしまった。

連日外出したりしていたみたいだから、ここで徹夜でもしていたら逆に心配だけれど。


暗がりでも、瑞樹の顔がよく見える。

安心しきった顔‥‥に見える。

私の家が落ち着ける場所になっているのなら、私が頼られていると言ってもいいのかもしれない。


こんな風に大切な人と落ち着ける時間は、いつまで続いてくれるんだろう。

考えないようにしていたことが、頭に浮かんでくる。

人は必ず死んでしまう。

今すぐとは言わずとも、百年後には恐らく私達はどちらも生きていない。


死というものが怖いわけではない。

それで大切な人を失う事が恐ろしい。


瑞樹がいなくなるなんて嫌だ。


何かに抵抗するように、瑞樹にしがみつく。

トクトク、と瑞樹の心臓の音が聞こえてくる。

良かった。生きてる。


こんなことを考えている人なんて私以外にいないかもしれない。

それでも、鼓動を聞いて生きているかどうかを確かめる。

この行為にとても意味があるように感じる。


「‥‥ん。ゆきね?」


起こしてしまったみたいだ。

ごめんなさい。

でも、今は言葉が無力なものに思われるから、ただ腕に込める力を強くする。


もぞもぞと瑞樹が下の方まで来て、目線を合わせてくれる。


「ゆきね。大丈夫?怖いことでもあった?」


聞き方が子供に対するそれだ。

怖いことがあったことは確かなのだけれど、


聞かれても無言でいたら、瑞樹が指を私の口に当てる。


「何かあったら言ってって約束したと思うんだけど。」


そうだね。

それが瑞樹のお願いだった。

これを見越していた?

そんな馬鹿な。


言葉は無力だといったけれど、瑞樹に打ち明ければ何とかなるかもしれない。

そんな風に考えてしまうほど、私にとって彼女は信頼のおける人間だ。


何かを言おうとしても、どう言語化すればいいのか分からなくて、沈黙が続いてしまう。


「言って。」


その言葉に突き動かされてしまった。


「人は死ぬから、それが嫌だなって思っただけです。」

「‥‥‥。」


こんな言い方だと、今まで死という概念を知らなかったみたいに聞こえる。

一番近くにいたのに。


知りすぎてるから。なのかもしれない。


「幸音は、ずっと生きていたいの?」

「別に生に固執があるわけではないです。瑞樹にはずっと生きていてほしいですけど。」

「私だっていつか死ぬよ。そんなの当たり前。」

「少なくとも、私の目が黒いうちは死なないで下さい。」

「目が黒いうちって、おばあちゃんか。でも、そういうことか。」


そう言って瑞樹は何かに納得したように私の頭をなでる。


「ゆきね。明日は一緒にお出かけしようか。」

「一緒なら何でもいいです。」



また、暗い夜が過ぎてゆく。

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