ひろまる噂

 翌朝、俺はまたも早く登校して、下駄箱のあたりで日和ひよりに合流した。

「よお」

「おはよ」

「昨日は大変だったな」

「ありがとう、助けてくれて」こいつだって殊勝な一面を見せることもある。

「たまにはカッコいいところも見せないとな」

「最後のがなければ良かったかも」

「何だっけ?」

「ケンカは三段、ってのは、とかいうやつ」

「あれ、言ってみたかったんだよな、うちのじいちゃんのセリフ」

 嘘かまことか、祖父の若いころの武勇伝は散々聞かされている。

「スカートはまくるし……」

「暗くて見えなかったけどな」俺はこめかみを掻いた。見えた気がしないでもない。

 通りがかった女子生徒たちと日和が朝の挨拶をかわしあう。その所作は優雅で、小中学校時代の活発な日和とは異なるものだった。

 十一日の祈年祭では神宮で巫女の舞を披露する。日和はすでにこの地域では有名人となっていた。もはや高嶺の花なのだ。

 やんちゃな日和はもういない。

「じゃあな」

 友人たちに囲まれる日和にくだけた敬礼をして、俺は自分の教室へ向かった。


「お前、何かやらかしたのか?」悪ダチどもが訊いてきた。

「いや、何も」俺はとぼけた。

「三年生の間で噂になっていたぞ。暴走族を十人のしちまったと……」

 ひどく尾鰭がついている。ただのライダー三人。うち二人は空手経験者かもしれないが、たいして強くもなかったし、日和ひよりが物干し竿で叩き潰したのだが、それを言うのは野暮というものだろう。

「バイクのお兄さん三人とちょっともめたけど、お巡りさんが来て、肩を叩き合って帰ったよ。話を大袈裟にするなよと言いたい」

「そりゃあ、災難だったな」

 昨日のことは当事者だけの秘密にしたかった。巫女の舞を披露する日和の名が、下手な尾鰭がついて穢されるのは避けるべきだ。

 あの三年生たち、口が軽すぎるな。日和をおいて姿を消すし。

 幸いなことに学校側にその話は伝わっていないようだ。朝のホームルームに現れた担任の芦崎あしざきは普段通りに簡単に挨拶をすませ、出て行った。


 昼休みになって、従兄の鮎沢雷人あゆさわらいとがやって来た。

火花ほのか、ちょっといいか?」雷人らいとは有無を言わせぬ調子で俺を外へ連れ出した。

 昨日のことを雷人には言っていない。

 同じ家に住んでいるのだから居間で顔を合わせることもある。しかし昨日、俺は何事もなかったようにいつも通り振る舞っていたのだった。

日和ひよりが危ない目にあったのか?」

 階段踊り場で俺たちは向き合った。

「ちょっとだけな」

「どうして昨日言ってくれなかった?」

「お前、心配するだろ。そんなたいしたことでもなかったし」

「日和の腕に、強く掴まれたあざがあった」

「ん、そうなのか?」俺は知らない。それを雷人が知っている。

 そういえば腕を掴まれた、だから物干し竿で倒した、とか言っていたっけ。

「暗かったからな」

 雷人の前で日和は腕をまくって見せたのか?

「何にせよ、大事に至らなくて良かった。火花ほのかには感謝する」

「その言い方、日和の旦那みたいだぞ」

「うるさい。明後日には神宮で祈年祭がある。日和には大事な行事だ。その直前にトラブルはあってはならない」

「そうだよな、雷人らいと、お前、日和ひよりと同じクラスなんだから、毎日一緒に帰ってやったらどうだ。この時期、日和にモーションを送る男連中は多いと思うぞ。そのたびにトラブルになっていたんじゃ世話がない」

 俺はバレンタイン・デーが近いことをほのめかしたつもりだった。

 しかし雷人はそれに気づかなかった。あくまでも神宮の祈年祭を気にしている。

「少し考えてみる」と雷人は言った。

 雷人は剣道部の活動を毎日している。日和と一緒に帰るといっても簡単ではない。

 俺は無茶なことを言っている自覚はあった。

 言いたいこと、訊きたいことだけ済ませると、雷人は去って行った。

 日和のことになると、雷人は視野が狭くなる。

 ふだん温厚で、落ち着いていて、剣道では部内に敵なしの雷人だったが、日和を思うと何も考えられなくなるようだ。

「それは、俺も同じなんだが……」俺はひとりごちた。

「何が同じって?」

 階段を下から上がって来たのは佐内一葉さないかずはだった。

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