数学教師の説教

 職員室の隅、パーティションで隠された面談コーナーに俺はいた。

 目の前に数学教師の蒔苗まかないがいる。

 いわゆる個人面談というやつだ。

 何かやらかしたか?

 俺はいろいろ思い起こさねばならなかった。

「三学期は補習がないから手を抜かずにやってくれ」それが蒔苗の言いたいことだった。

「別に抜いているつもりはないんですが」俺は一安心ひとあんしんする。

「いつも最後の難問ばかり解いて、他の問題に手をつけず、赤点ばかりじゃないか。少しはまともに向き合ってくれよ」

「時間が足りないんすよ。だから最後の問題に時間すべてを注ぐ」

「できる問題は解くのにも値しないってか」蒔苗は溜息をついた。「お前みたいに極端なやつ初めてだよ。じゃあ全部簡単な問題にしたらどうする?」

「零点かもしれませんね」俺はにかっと笑った。

「つきあってられねえな……」

「つきあわなくて良いです」

 高校に入ってからの数学の点は良くなかった。毎回のように赤点だ。

 悪ダチどもと変わらない。

 しかし中身は大いに異なる。俺は難問しか手をつけなかった。

 なぜか俺は小さいころからを見ると無性にチャレンジしたくなるのだ。

 いつでも解けるような安易な問題には興味がなかった。

 だからテスト問題を見て真っ先に難問にとりかかる。それで時間を食う。

 それで解ければまだ格好もつくが、もし時間切れになってしまったら悲惨だ。下手をすると百点満点で十点ということもある。

「お前、たしか鮎沢雷人あゆさわらいとだよな?」

「一緒に住んでます」俺は居候だ。

「鮎沢雷人はいつも八十点以上とっているぞ。九十点を超えることもある」

「あいつは優等生ですから」

「でも難問を完答したことはない」

「簡単な問題を全部解いているからでしょう。難問だけに時間をつかったらできると思いますよ」

「俺はそうは思わないな。俺が知る限りお前ほど数学ができるやつはいない。おそらく二年生、三年生を探しても」

「俺、数Ⅲとかできませんけどね」

「ちょっと教科書読んだらすぐにできるようになるだろう、お前なら」

「そんなことないでしょう」

「お前の家、大工だと聞いたけれど」

「はい、その通りで」

「お祖父さん、叔父さんは数学ができたのか?」

「聞いたことないですね。たぶん、ばあちゃんの方の血筋かと」

「お祖母ばあさん?」

「今はいないです。っていうか、俺が生まれた時、もうじいちゃんとばあちゃん離婚していたみたいで、小さいころの法事で一度会ったことがあるようなうろ覚えの記憶しかないです。そのばあちゃんは学校の先生をしていたらしいですから」

「高校の先生だったのか?」

「知りません、中学なのか小学校なのかも」

「数学の先生だったんじゃないか?」

「どうでしょう」

「そのお祖母さんだけなのか? お母さんも数学の先生をしていたのでは?」

「実の母のことは何も知らないです。我が家では禁句になっています」

「どうしてだ?」

「生まれた時、母親が死んでいるなんて悲しくないですか? だからだと思うんですけど、俺、生まれてからしばらく叔母さんを母親だと思って育ちました。従兄の雷人らいとは双子の兄みたいな感じで。しばらくしてそうでないことを教わりました。たぶん俺のために実の母親のことは初めからいなかったことにしていたんだと思います」

「俺が数学の教師になったのは、高校時代に数学を教わった先生に影響を受けたからだ。その先生はすっごい美人の先生だった」突然蒔苗は自分のことを語り始めた。

芦崎あしざき先生とどっちが美人です?」

「お前、性格悪いな」蒔苗まかない口許くちもとゆがめた。「どっちが美人かは簡単に言えるものではない。とくに昔の記憶はかなり良いように補正がかかっているからな」

「その言い方だと、芦崎先生の方が聞こえますが」

不細工ブサイクなわけないだろ、芦崎先生が!」

 やたら声が響いた。蒔苗ははっとして周囲を窺い、首をすくめた。

 パーティションで仕切られているとはいえ、ここは職員室の一画なのだ。誰の耳に入るかわかりやしない。

「とにかく俺が教わった先生も鮎沢あゆさわという名だったんだ」

「へえ、偶然ですね。ばあちゃんが蒔苗先生を教えていたなんて」

「年齢的にお前のお祖母さんではないだろう。二十二、三年前に二十三、四歳だっただろうから、お前のお母さんくらいだ」

「先生、どこの高校でした?」

「都内の私立高校だ」

「じゃ、違うんじゃないですか? それより二十三、四歳の女性教師の影響を受けたとか言ってますけれど、単にその先生が美人で好きだっただけなのでは?」

「身も蓋もないことを言うな」蒔苗は声を荒げないように抑えていた。

「別に悪いことじゃないと思いますよ、俺たちだって芦崎先生に憧れていますから」

「何、それはいかんぞ、いかん、いかん」

「あれ、先生、芦崎先生、狙ってます? 先生、たしか四十前ですよね。そしてバツイチ」

「なんでバツイチって知ってる?」

「そんなの生徒の間で常識ですよ。誰か生徒にぽろっと言ったことあるんじゃないですか?」

 蒔苗は考え込んだ。心当たりがあるのかな。

「芦崎先生とは十歳以上離れてますよね?」

「ちょうど違う。干支えとが同じだ」

「それを言うならでしょ、干支が同じなら六十離れていることになりますよ」

「お前、憎たらしい奴だな」

「十二も離れているなんて、犯罪ですよ。俺たちからみて大人の先生が、きっと可愛い女の子に見えるのでしょうね」

「まあ、そういう風に見える時もある」これだよ。

 でも本当は逆なのかもしれない。蒔苗から見て芦崎が可愛い女の子ではなく、蒔苗がまだ高校生で、芦崎は憧れの女性教師に見える、とか。

 男はいくつになっても純情な少年の一面を持ち合わせているのだろうか。それとも単に蒔苗が幼稚なだけなのか。

「ほんとに芦崎先生、狙ってます? 結構難攻不落だと思いますけど」

「難問ほど解きたくなるんだ」

「俺の真似しないでください」

「それはさておき、俺の恩師だった先生は鮎沢鏡花あゆさわきょうか先生といった。泉鏡花と同じ鏡花。鏡に花と書く」

「俺、実の母親の名前知りません」

「お前の名前に『花』が入っているよな」

「うちの家、代々名前に木火土金水もっかどこんすいだの花鳥風月かちょうふうげつだの天地人てんちじんだの、そういうの入れるのを習わしにしていたみたいです」だから「鏡花」という名前をつけたこどもがいても不思議ではなかった。「そういうゲームや異世界ファンタジーの属性みたいな名づけをする家なんですよ」

「とにかく、俺は鮎沢先生の後輩になりたくて数学教師になった。しかし母校に鮎沢先生はいなかった。結婚退職されたらしい」

「うわ、かわいそ!」俺は蒔苗を憐れに思ってしまった。

 しかし蒔苗の相手などしていられない。俺は日和ひよりの後を追わねばならないのだ。

「しかし風の便りに鮎沢先生が亡くなられたと聞いたんだ。そして鮎沢先生の実家が佐原にあると聞いて、俺はこの地に教師として流れ着いた」

「中二病かよ……」俺はボソッと呟いた。

「何か、言ったか?」

「いえ、別に」

「お前は鮎沢先生のなのではないかと思う」

「なんで、そう思うかなあ」

「顔がなんとなく似ている。特に目元が。そしてその人を馬鹿にしたような態度」

「その鮎沢先生から見たら蒔苗先生はバカに見えたんじゃないですかね」今も馬鹿に見えますけれど。

「あの鮎沢先生の子孫なら数学はできるはずだ。とにかく三学期は補習がない。赤点とったら危ないと思え。今までの点もぎりぎりだ」

「わかりました。三学期の試験は点をとることを心がけます」

 とは言ったものの、実際どうなるかわからない。

「もう、いいですか?」

「ん、ああ、わかってくれたらそれで良い」

 ようやく蒔苗のもとを離れたとき、時刻は四時近くになっていた。

 くだらない話に時間をとってしまった。

 急がねばならない。

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