第3話 淑女とは
それは一瞬の出来事のように感じられた。
転倒したと認識してすぐ、エマははっと目を覚ました。
咄嗟に伸ばした手は、エマの手足である槍の柄を握った。自分が地に臥していると気付いてすぐ跳ねるように飛び起き、周囲に視線を走らせ―――は?と思わず間抜けな声を洩らす。
それはそれは優美な、薔薇の庭園だった。
整然と整えられた石畳の通路には色とりどりの薔薇が咲き誇り、薔薇のアーチが間隔を開けて並んでいた。開けた道の先には白の石柱。薔薇を愛でるための長椅子やテーブルセットも白く、広い庭園に点々と設置されている。数人の令嬢がそのテーブルを利用して、ティータイムを楽しんでいるのが確認出来た。
その令嬢たちが皆、エマをガン見している。淑やかで落ち着いた仮面を求められる令嬢たちが、カッと目を見開きエマを凝視している。
え、なにこれ怖い。
今まで出会って来た王女を狙う不届き者の誰よりも怖い。淑女とは何だ?
「し…っ」
「新入りが来ましたわ―――――――!!!」
「「「きゃああああああああ!!」」」
「「「うおおおおおおおおお!!」」」
え―――――!?
令嬢たちは作法を投げ捨てるように立ちあがってガッツポーズを取り、甲高い歓喜の悲鳴を上げ、雄叫びを上げた。淑女とは?
「これで食べ飽きた茶菓子とはおさらばよ!」
「やっとお家に帰れる!」
「キャー騎士様よキャー!!」
「わたくしを助けに来てくださったのね! 凛々しいわ!」
「いいえ貴方ではなく私よ!」
「ペロペロ美味しい生女騎士ペロペロ素敵!」
「こうしては居られません! レアンドル様は何処に!?」
「レアンドル様―――!! レアンドル様ぁあああああ!!」
「「「レアンドル・レオニハイド様ぁあああああああああああああああああ!!」」」
キンキン響く甲高い歓声の中、僅かばかり知性を残した声が響く。そしてすぐ、令嬢たちは一人の名前を呼び出した。いやあれは叫んでいる。とても原始的な方法で相手を呼んでいる。令嬢はまず使わない原始的な方法。大声で。
え、淑女とは?
人の事は言えないが、エマは何度目かの疑問を抱いた。後なんか変なこと叫んでいる人がいなかった??
それにしても、彼女たちが叫んでいる名前は…。
「騒がしいぞ」
「レアンドル様!!」
エマとは逆方向、庭園の奥から人影が一つ現れた。
それは大柄な、立派な戦士だった。
まず目に入るのは、雄々しく逆立った獅子の毛並みの様な赤毛。鍛え上げられた大柄の体躯に、野性のように鋭い琥珀の瞳。どこか厳めしいが精悍な顔つきは逞しい肉体を優美に魅せ、まるで戦神の様な美しさと迫力を携えている。
その腰には両刃の剣が帯剣され…それがなくても一目で戦うものだと分かる出で立ちをしていた。
エマは確信する。令嬢たちが呼んでいた名前。入手した外見と一致する男。
眠り病の呪いにかかった辺境伯…レアンドル・レオニハイド辺境伯その人だ。
「どういうことだ…」
レアンドル・レオニハイドは眠り病にかかり塔の最上階で眠っているはずだ。
それなのに何故、このような薔薇の庭園で令嬢たちに囲まれているのか。
そもそも何故エマは、この庭園に居るのか。
エマは侍従の案内で、辺境伯の眠る塔の入り口にやって来ただけだったのに―――。
(そこで意識を失った、ことまでしか思い出せない)
目が覚めたら庭園ってどういう事。
チラリと振り返ってみれば、そこには薔薇の生垣。行き止まりだった。
(私はどこからどうやってここへ、誰に連れられてきた? あの令嬢たちが? 無理がある。別の誰か?何故?)
「混乱していますわね。無理もありませんわ」
「嫌だわわたくし達ったら、興奮して我を忘れてしまいました」
「ごめんなさいね、すぐ説明いたしますわ」
すすすっと近寄ってきた複数の令嬢たちがエマの脇を固める。無防備な令嬢に近寄られて、エマは咄嗟に構えを解いた。見るからに武器を持たぬただの令嬢に、槍を向けるわけにはいかない。
促されるままに庭園に足を踏み入れれば、思っている以上に令嬢たちが多いことに気付く。彼女たちはさわさわと、興奮収まらぬままエマとレアンドルを交互に見つめては歓声を上げていた。
当のレアンドルはエマを一瞥し、石柱の傍にある長椅子へと向かった。そこにどかりと腰掛けて、不機嫌そうにそっぽを向いている。
(なんだ? どうなっている?)
どう見ても、眠り病にかかっている様子は見受けられない。
もしや王都に届いた情報に誤りがあったのか。だが、エマの見たレオニハイドの人々は確かに辺境伯の不在を嘆いていた。
であれば一体どういうことか。
その理由は、わらわらと近寄って来た令嬢たちが興奮も露わに教えてくれた。
「ここは眠り病の精神世界なのです」
「眠り病にかかった者、伝染したものの精神がこの庭園に招かれます」
「眠り病にかかった者とその、唇を合わせた者は伝染し、この精神世界に招かれる様なのです」
「ハァハァ、生女騎士、スゥウウ――――――…ッ」
「わたくしたち、レアンドル様を眠り病から開放すべく愛の口付けをしたのですが…」
「真実の愛の口付けには及ばず、呪いを解くこと叶わずこの精神世界に招かれたのです」
「
「最後に挑戦した者の話では、話は王都まで及び聖女の血筋が臨むことになったとか」
「音沙汰が全くないので不安を覚えておりましたが、やっと現れた貴方こそ、聖女の血筋のレアンドル様の運命のお相手に違いありませんわ!」
「さあ!今こそ愛の口付けでレアンドル様の呪いを解いてくださいませ!」
「ペロペロ新鮮なカップルペロペロ!」
「そして私たちをここから解放してください!」
「呪いが解けないと、わたくしたちもお家に帰れませんの!」
「もう飽きましたわ! 暇ですわ! お家に帰りたいですわ!」
「という事で呪いを解く真実の愛の口付けを!」
「さあ!」
「さあ!!」
「「キースッ!キースッ!!」」
令嬢たちがヤバイ一団になり果てている。
皆が皆、レアンドルに恋い焦がれて真実の愛の口付けチャレンジに臨んだはずだが、惨敗どころか精神世界に監禁されたのだ。自分から飛び込んだとはいえ、不憫。
新入りは真実の口付けチャレンジ参加者。恋敵ではなく帰還のチャンスとばかりに新入りを大歓迎していた。発狂している気がする。なんかおかしい人いるし。
なんだこれどうしたらいいんだ?令嬢たちを薙ぎ払うわけにもいかないぞ?
「無駄だ。ここに来たという事は、現実で俺に口付けたのだろう。ここにいる時点でお前たちと同じ失格者だ」
キスキッスキスキッスと囃し立てる令嬢たち。そこに、深みのある男の声が響いた。
苛立ちを含むその声は、レアンドルのもので間違いない。
彼は野性味のある鋭い琥珀の相貌で、エマだけでなく騒ぎ立てる令嬢たちを睨んでいる。睨まれた令嬢たちは、ぴゃっと小さく飛び上がって震えた。興奮で赤かった頬は、一気に血の気が引いて青ざめている。
「
ギラギラと威嚇するような空気に、姦しかった令嬢たちはすっかり委縮してしまっていた。獅子に怯える兎の群れの様な光景に、エマはさっと彼女たちを庇うよう前に出る。その姿に、レアンドルの琥珀の瞳が細められた。
「…聖女の血筋だったか。その聖女も、誰これ構わず呪いを解けていたわけではなかったはずだ。お前は巻き込まれて気の毒だが、何度俺に口付けても意味は…」
「キス? するわけないだろ」
「え」
「大体、私は現実でもお前にキスなどしていない」
バッサリと言い捨てられて、その場の空気が固まった。
「…嘘をつけ。お前がここにいるという事は、俺に口付けたという事だ。他の令嬢たちは皆そうだぞ」
「知るか。私は塔の入り口までしか来ていない。そもそもお前の顔だってここで初めて見た。ここに来たからと言ってキスしたものとされるのは心外だ。愛の無い口付けなどするものか」
「え、では騎士様はどうやってここまで…」
「それは私も知り得ぬことなのです
本当に知らぬ。
キスが精神世界に引っ張られるトリガーならば、何故私はここにいる。いやマジでなんでだ。塔の最上階と出入り口だぞ。距離もあっただろう。
ホント知らぬと憮然とした表情をするエマに、レアンドルも戸惑いの表情を浮かべた。令嬢たちにも困惑が広がっていく。そんな空気を気にも留めず、エマは口を開いた。
「万能の解呪に必要なのは真実の愛です。見知らぬ相手に真実の愛などすぐ抱けるものではありません。私がキスをしても呪いが解けることはないでしょう」
視線は令嬢たちで、口調がとても丁寧だ。レアンドルと対応の差。令嬢たちの戸惑いは広がるばかり。
「で、ですがレアンドル様を見てときめきませんか? とてもお美しい方で…このような方の伴侶になりたいと思いませんか?」
言われて、視線がレアンドルに向く。琥珀の瞳と春空色の瞳がぶつかり合うが、男女のときめきよりも獣の縄張り争いの様な緊張感が過った。相手の出方を窺うように、じっとしばらく見つめ合う。
エマは一つ頷いた。
「鍛えられた良い筋肉とは思いますが石像を見て感嘆するのと同じです。特に何も感じません」
「そ、そんな…」
解呪の期待が打ち砕かれたからか、令嬢たちがふらりとよろめく。座り込む令嬢もいた。
そんな令嬢たちを確認して…じっと、レアンドルを見る。その視線にレアンドルはぎゅっと眉間に皺を寄せた。なんだこら。
「だが安心しろ。私は呪いを解きに来た」
「なに?」
そう、やはりこれしかないと―――槍を握る。
「という訳でお覚悟!」
「どういうわけだ!」
勢いよく踏み込んで、長椅子に座るレアンドルに突きを繰り出す。しかし相手はすぐに立ち上がり、危うげなく避けた。自己最速の突きだというのに、躱された事実に力量差を感じる。然し立ち止まるわけにはいかない。距離を取ろうとしたレアンドルに、地面を蹴り追撃した。
「お前を殺してお前の呪いを解く!」
「矛盾しているぞ!!」
そんなことはない。お前の安全を考慮していないだけで矛盾はしていない!
「
エマの追撃は、ぽかんとしていた令嬢たちが我に返って悲鳴を上げるまで続いた。
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