第6話
山を降り、道路を水田に囲まれた道路を進んで少しした所にある住宅地の、比較的新しいアパートの前で彼女は止まった。
「さあ、ついたよ。ここがわたしの家」
そう喜ぶ彼女とは裏腹に、私は
ついて来てしまった………。
これ以上関わってはいけないと、理性では分かっていても、お風呂という単語とお湯に浸かる自分を想像していると、進む足を止める事ができなかった。
だってお湯だよ。川の水と違って、温かいんだよ。水道だから清潔だし、なんていっても温かいんだよ。
「
一体何に謝っているのだろうか。でもそれくらい、今の自分が情けなかった。
「ん? 何が?」
「なんでもないです……」
「ふーん、へんなの。それより、はやく行こう」
鍵を開け玄関を通ると、そこには宅配で届いたダンボールが山積みになっていた。それが天井に届きそうなくらい積まれていて、あまりにも高くて、一瞬引いてしまった。
「驚いた? ごめんね、散らかってるかも」
「いえ……でも崩れたら大変そうですね」
「うん、だから玄関を通る時はいつもはらはらして、楽しいよ」
靴を脱いで、ダンボールの山の隣を通り、いくつかあるうちの扉の一つを開けると、そこはダイニングだった。
玄関と違い、部屋の中は綺麗に整っていて、中央にはテーブル、壁際にはそこそこの大きさのテレビとその前にソファがあり、キッチンについては流行りのシステムキッチンというもののようで、とにかく広くてしっかりと整頓されていた。
「お風呂の準備してくるから、ゆっくりしててね」
何も言わず、こくっと頷くと、彼女は楽しそうにまた廊下に戻っていった。
少し部屋の中を見渡して、失礼かなと思い、部屋の中央に敷かれた正方形のカーペットの上の、テーブルの脇に正座する。
何だか落ち着かなくて、そわそわする。
久しぶりのまともな家屋ということもあるけど、それよりも出会って間も無い、あまり知らない子の家だということが余計にそうさせた。
同時に、広い部屋を見て疑問に思う。彼女は本当に一人暮らしなのだろうか?
ここは一人で住むには広すぎるように感じるし、キッチンだってここまでのもがいるのだろうか?
そうして疑問を募らせていると、すたたっと軽やかな足音が聞こえてきて、お風呂の準備をしに行った彼女が戻ってきた。
「あと五分もすればお湯が沸くから、それまでは……えーと、何すればいい?」
知らんがな。どうして私に聞く。
「気を遣わなくてもいいです。お風呂を使わせてもらえるだけで、充分ですので」
「それじゃ、やだ」
彼女はむすっと不満そうな顔をして、こちらをじっと見て、何かを訴えた。何? 一体私は何を求められているの?
「そう、ですか……あの、とりあえず着替えたらどうですか? 部屋の中では、外のように厚着をする必要はないでしょう?」
彼女の服を指差す。山の中でも体が冷えないような、温かい服に身を包んでいるけど、ここは家の中なので、そこまでは不要だ。
「あっ、そうだね。とりあえず着替えてくる」
そう言うと彼女は再びすたすた、と軽い足取りで廊下に戻っていった。
わからない。私はどうしたらいいのか、彼女はどうしたいのかが、全くわからなかった。
それからしばらくしても、彼女は戻ってこなくて、ガサガサとスピーカーが音を立てて、お風呂が沸いた事をよくある電子音の音楽と共に知らせてきた。
廊下に出ると、右の扉から「お風呂入っていいよー」と気の抜けた声が聞こえたので、風呂場はどこだよと心の中では思いながらも、他の扉を開いた。
一つ目はトイレ、そこそこ広くて綺麗だった。
もう一つはドレッサー。でも、中はほとんど空だった。もったいない。
そして最後の扉を開けると、やっと浴室に続く脱衣所にたどり着いた。
脱衣所にはドラム式の洗濯機が置いてあって、それでも窮屈には感じないくらいには広かった。
いい生活してるなと思いながら、使っていいと言われたので、遠慮なく服を脱いで足元に畳んで置いた。
はじめての場所で、気を負い緊張しながらも、心のどこかではこの上なく喜んでいるようで、体がいつもより軽やかに動く。
それもそのはずで、お風呂に入れるなんて数ヶ月ぶりの事で、どれだけ夢見ていたかわからないのだから。
浮かれながら、浴室への戸を開けようと取ってに手を伸ばすと、ピキッとした鋭い痛みが走った。
「痛ッ」
ズキズキと痛む手を引いて、胸の前で温める。そうしていると、少しは痛みが和らいでくれる気がした。
落ち着いてから手のひらを見ると、血は出ていないようで安心する。せっかく貸してもらえるのに、汚してしまったら申し訳ない。
今度こそと、気を引き締めて、戸を開け浴室に入ろうとしたところで、バタッと別の戸が開いた。
何かと思い、そちらを向くと、
「あ、よかった。まだ入ってない」
部屋着に着替えた“あれ”がそこに立っていた。
「え! なに!? 何で、どうして!?」
「んー、ちょっと。ねえ、手を出してよ」
「はぁ?!」
「いいから! て!」
強く言われて、仕方なく手を差し出す。
すると彼女は私の手を取り、どこからか持ってきた透明なビニール手袋を被せて、黒のヘアゴムで止めた。
「よし! そっちも」
「う、ん」
言われるがままに、もう一方の手も差し出すと、同じようにビニール手袋をつけて、ヘアゴムでしっかりと止めた。
「はい、こうすればお湯がかかっても大丈夫でしょ」
「……ありがとう」
「どういたしまして。それじゃ、ごゆっくり〜」
そう言って彼女は手を振りながら笑顔で出ていき、まるで嵐が去った後のように、脱衣所の中が静寂に包まれた。
私は少しの間その場で停止していて、やがて気を取り戻すと、その場にしゃがみ込んだ。
「あぁー! もぉ、わかんないぃ!」
彼女に、どのような感情をぶつけたかったのかがわからなくなって、奥歯を噛み締め、一人
だいたい何なのか、廃墟で出会った見ず知らずの名前すら明かさない素性のおかしい人物を普通家にあげる?
私も私だ。助けたり、話したりするだけならまだいい。お風呂を借りれるからって、なに普通に付いて来て、よく知らない相手の家で無防備に服脱いでるの?
「あ゛あ゛ぁ゛ぁ」
ずれてる。絶対に二人して何かがずれている。きっとお互いに常識からずれてるから、『それっておかしいよ』って指摘ができないんだ。
だいたい、私はなんで怒れないんだ。
さっきだって、川でだって、この間だって。頭にきたことは沢山あったのに、どうしてその感情はぶつける前に煙のように消えてしまうのか。わからない。
でも、そんな私にもハッキリと言える事がある。人がいるんだからノックくらいしてよ………。
しばらくもがいて、気を持ち直した後、ようやく浴室に入ってシャワーのノブを回す。水が音を鳴らし勢いよく出て足に当たり、冷たくて身震いする。それを我慢していると、次第に水が温かくなり湯気が立ち上る。
その事が、どうしてか信じられなかった。
「お湯だ………」
ここはお風呂場で、お湯が出るのは当たり前なのに、その事に感情が揺さぶられる。
シャワーの前に手をかざし、流れ落ちるお湯を受け止めた。手袋をしているせいか、素手よりもずっしりと重さがかかって、負けそうになる。でも………
「あたたかい……」
目を閉じてその感覚を味わう。
そうしていると、この数ヶ月間の色々なものが溢れて、流されていくようで、それら全部がこぼれ落ちないように、閉ざされた瞼により一層、力を込めた。
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