飛べない鳥と、飛ばない鳥と
第1話
夜、その日は月が綺麗で、数ヶ月前から住み家にしている廃団地を歩いていると、その音は聞こえてきた。
ガタっという何かが倒れた音と、後に続くギシギシと縄が締まりながら軋む音が。
その日は風もなく、耳鳴りがしそうなほど静で、その音だけが誰もいないはずの廃墟に響いていた。
誰かが首を吊った音だと思った。
確証もないまま、迷いもせずに、音のした方へ駆け出した。
ここにはまともな人はやってこない。
誰かと出会ったら何をされるかわからない。
首吊りなんて勘違いかもしれないし、そうだとしても間に合わないかもしれない。そんなことは分かっていても、止まらなかった。
死んじゃだめだと心が叫んだ。
音のする建物にたどり着いて、崩落の危険性など考えずに、飛び込んだ。
かつ、かつっ、と縄の軋む音と一緒に
希望がみえた。おそらくつま先が床を蹴飛ばす音で、もしそうならきっとまだ生きてる。
急に走り出して、悲鳴を上げている脚に力を入れた。学校であった体力テストの短距離走ばりに、全速力で残骸が散らばる廃墟のなかを走っていた。
ときおり
死なせるもんか。
その意地だけが、私をつき動かした。
やがて、音のする部屋にたどり着き、中へと入ると、私と同い年くらいの女の子が天井の折れた鉄パイプから下がったロープで首を吊って、もがいていた。
時間がない。上に着ていたダウンジャケットを脱いで、その下に装着していたハーネスに吊り下げたサバイバルナイフを抜いた。
近くに転がっていた
ロープが硬い、もがき苦しんでいるせいで切り口がずれる。さっき転んだときに手のひらを擦りむいたせいで血が
大きく息を吸い込み、
ナイフの少し下を、もう一方の手で押さえつけて、利き手により一層力を入れてナイフを引いた。
何度も何度も適切な角度でナイフをロープに擦りつけて、そうしているうちに、少しずつナイフはロープに入っていき、やがて人の体重を支えられなくなって、切れた。
がたん、と大きな音を立てて吊り下げられていた彼女は床に倒れ、首を絞めていたロープを外して咳き込んだ。
よかった、生きてる。
そのことに
手のひらが痛い。力を無理に入れたせいで、凝り固まっていた手を、震えながらゆっくりと開くと、皮膚がただれ、真っ赤な血が滴っていた。
それでもよかった。呼吸をする度に、焼けるような喉で息を整えながらそう思った。
この手はいつか治るけど、失った命はもう二度と戻らない。だから、これでいい。
助けた彼女の方を向いた。
最近のアウトドアショップで紹介されるような服をきた、少し茶色がかった、セミロングのストレートな髪の女の子。
なんで助けた、と罵声を浴びせられるかもしれない。
そんな事を考えていると、咳き込んでいた彼女はだんだんと息を整えて、ゆっくりとこちらを向き、そして⋯⋯⋯
「ほんとに、いた」
そう言って彼女は微笑んだ。
「は?」
「本当にいた! 廃墟団地の幽霊!」
「え?」
なに、幽霊って?
状況が理解できなくて目を丸くしていると、彼女は四つん這いでこちらに近づいてきて、鼻がくっつくそうなくらい私の顔に近づけた。
彼女の大きくて、綺麗な瞳が目前に見える。
「ねぇ、あなたどうしてここにいるの?」
「は、え? なんて?」
「幽霊って聞いてたけど、実在してるよね? あなた何歳? 同い年くらいだよね、学校はどこ?」
「えっ、ちょっ、ちょっと待って!」
あまりの勢いに、手を前に出して彼女を離す。
「あ、ごめん。って! あなたけがしてる」
そう言い、彼女は傷口に触れないように私の手を取った。
「ごめんなさい。わたしのせいだよね」
先ほどまでの勢いは消えて、両方の手で、私の右手を優しく包み、目を細めて眺めていた。
私の血が、彼女の白い手に
「よごれますよ」
「そんなの、気にしない。痛くない?」
「見た目より大した傷じゃないです。それに、あなただって」
左腕で、私の血がつかないように手の甲で彼女の茶色くて細い髪をかき上げた。すると月明かりに照らされて、白くて綺麗な首元に、痛々しい赤いロープの跡がくっきりと付いているのが見えた。
「痛くないですか?」
「んー、じんじんして、ヒリヒリするかも」
「首は? 回して痛みを感じないですか?」
「あ〜、ちょっと痛いけど、
「他は、どこか痛みは?」
「大丈夫。あなたの手より、酷いところはないよ」
そう、こちらを安心させるように、彼女ははにかんだ。
安心のあまり、深く息を吐いた。
よかった。とりあえずは大丈夫に見える。
むしろ目の前の彼女は元気そうだった。口調も全体的に落ち着いていて、他人の怪我を心配する余裕もあって、とても自ら自殺しようとする人には見えなかった。だとするなら、
「どうしてあんな事を?」
理由が思いつかなくて、そう
「んー、そうだねー」
彼女は微笑みながらゆっくりとためて、そして、
「あなたに会いたかったから」
「は?」
「わたしは
全く意味のわからない回答に驚き。それと同時に、私は苛立ちを覚えはじめていた。
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