第33話 幽霊

 ミュリエルが走り出た後を、フィンとモーリスとエクトルが追った。


「アンドレ王子殿下!サンジェルマン宰相閣下の居場所が分かりました!」海軍のテントの中で、王都の捜査本部——テロと認定されてから、国防省に捜査本部が設置された——と通信していたアンドレを、ミュリエルが大声で呼んだ。


 ミュリエルに、そんな大声が出せるとは思わず、意表を突かれたアンドレは、受話器を取り落とした。


 北館に飛び込んだミュリエルは急ぎ足で向かった。

「モーリスさんの、透明人間という言葉で気が付きました。サンジェルマン宰相閣下は、ずっとここにいたのです。私たちに見えていなかっただけなのです」


 興奮気味に喋るミュリエルの後をついて行きながら、アンドレが訊いた。

「透明人間⁉どういうことだ?ずっとここにいたのに、見えていなかっただって⁉」


「彼は幽霊だったんです」


 報告書を書いていたマドゥレーヌが、騒ぎを聞いて事務室から出てきた。「今度は何?ゴーストバスターでもしようって言うの?勘弁してよ。こっちは報告書の山で窒息しそうなのよ」


 ミュリエルが向かった先は、ジョン・ドゥが収容されている部屋だった。


「彼がサンジェルマン宰相閣下です」


 時が止まったかのように、皆が沈黙した。不運にも火災に巻き込まれた泥棒が、自分たちが探していたサンジェルマン?にわかには信じられなかった。


「だが、ミュリエル。彼がサンジェルマンなら——サンジェルマンは自分を、火炙りにしたって言うのか?」アンドレは疑念を抱きながら訊いた。


「何があったかは分かりません。自ら死のうとしたのか、それとも、事故だったのか。ですが、ジョン・ドゥの身長は約178㎝、サンジェルマン宰相閣下も、そのくらいだったと記憶しています。エドモンさんと、ヴァネッサさんは、1週間前から、旧館の窓に幽霊を見るようになったと言っていました。サンジェルマン宰相閣下は、1週間前から行方不明です」


「——彼はずっとここにいた」フィンが呟いた。


 マドゥレーヌはぞわっとして全身が粟立ち、自分の体を抱きしめた。「それじゃあ、旧館が彼らの根城だったってこと?」


「旧館の状態を見てみたいです」ミュリエルが言った。


「分かった。随行する兵士を急いで手配しよう。日が傾き始めた」アンドレはそう言い出て行った。


「俺たちは先に旧館へ向かおう」モーリスが先頭に立って歩き始めた。



 旧館の入り口の前で待っていたミュリエルたちに、アンドレと5名の兵士が合流した。

「人が滞在していた形跡があるのは、奥から2番目の部屋だ」アンドレが言った。


 先頭を2人の兵士が歩き、後方を3人の兵士が歩き、その間をミュリエルたちが歩いた。


「本気で幽霊が出そうだな」フィンが怯えながら言った。


「やめてよ!変なこと言わないで。それじゃなくても、さっきから幽霊がどうのって話で、ぞわぞわしてるのに!」マドゥレーヌがフィンに文句を言った。


「マドゥレーヌ嬢でも怖い物ってあるんだな」マドゥレーヌなら、幽霊だろうが、ゾンビだろうが、騙して何とか切り抜けそうだなと思って、フィンが言った。


「幽霊が好きな物好きじゃないってだけよ」マドゥレーヌは、ふんっと鼻を鳴らした。


 問題の部屋のドアが少しだけ開いていて、兵士の1人が押し開ける。キーっと音を立ててドアが開いた。


 日の光りが室内を照らしていた。ミュリエルは眩しそうに目を細める。少し時間が経ってくると、目が明かりに慣れてきて、室内がはっきりと見えるようになった。


 室内の家具は、豪華なアンピール様式で統一され、時代を感じる仕様になっている。現代の流行りは、シンメトリーや幾何学図形を取り入れたアール・デコ様式だ。


「埃っぽいわね」マドゥレーヌは口元をハンカチで覆った。


 数か月、掃除をしていなかったようで、家具にはうっすらと埃が積もっていて、床は埃が舞っている。先ほど、マドゥレーヌが兵士たちと歩き回ったときに、埃を舞い上げてしまったのだろう。


 ミュリエルは、6人掛けのダイニングテーブルに近づいていった。


「ここだけ埃を誰かが払ったようですね」テーブルに埃を払ったような跡がついていた。「1か所だけ払われているということは、このテーブルを利用したのは、1人だけということなのでしょう。少なくとも、同時に2人以上の人が利用した形跡はありません」


「円い跡がいくつも付いている……カップの跡かな?にしてはちょっと大きすぎるか?」テーブルに積もった埃が、円い跡を、デザインのように形作っているのを見ながら、フィンが言った。


 30代前半の兵士が言った。「おそらく、瓶の跡ではないでしょうか。ワイン瓶にしては小さいので、ビール瓶だと思います。我々海の男は、よくビールを飲みます。ですので、こういった跡は見慣れた光景なんです」


 彼が他の4人に指示を出していたので、この班のリーダーなのだろうと、ミュリエルは判断した。


「アンドレ王子殿下、宰相閣下は、ビールがお好きでしたか?」ミュリエルがアンドレに訊いた。


「ビールを飲んでいるところは、見たことがないな、ワインか、ウィスキーが多かった」アンドレが答えた。


 ここには、サンジェルマンとは別に、ビールを飲む誰かが、いたのかもしれないとミュリエルは考えた。それが共犯者か、全く無関係の不法侵入者かは分からないが……

 ミュリエルは1脚だけ、後ろに引かれている椅子に座ってみた。「なぜこちら側に座ったのでしょうか」


「どういうこと?」フィンが訊いた。


「仮に私が犯人なら、隣の建物にいる憎い相手を、監視したいと思うでしょう。反対側に座れば、窓の外に本館が見えます。それなのに、この椅子は窓に背を向けて、室内を向いています」


 ミュリエルは椅子が向いている方角へ歩いた。その先にあったドアを開けると、そこは寝室になっていた。

 迷いなく歩いていくミュリエルの後ろを、フィンはついて行った。


「ベッドも使った形跡があるね。シーツは清潔ではないけど、皺が寄ってる。誰かが寝た跡だ」


 ミュリエルはまた、隣の部屋に戻って今度はソファーに近づいた。

「ここには、円い跡があります」ソファーの横に置かれたサイドテーブルを指さして言った。「このサイドテーブルは、ソファーに向かって引き寄せられているようです。このソファーを使用した誰かは、ソファーに腰かけてサイドテーブルを引き寄せた。ビール瓶を置くテーブルが必要だったから」ミュリエルはテーブルの足元に溜まっている埃に、僅かに引きずったような跡がついているのを確認して、また寝室へ向かった。


 行ったり来たりするミュリエルを、モーリスは腕を組み黙って見ていた。きっと、それが正解なのだろうと理解したアンドレと、エクトルと、マドゥレーヌは、モーリスと同じように、行ったり来たりするミュリエルを、ただ黙って見ていた。


「ここに家具があった跡があります」ミュリエルが指し示す先には、ボルドー色のカーペットの上に、埃が積もっていない、小さな4つの跡があった「フィンさん、先程のサイドテーブルを持ってきてください」


「いいよ、ちょっと待って」フィンとエクトルが、言われた通りにサイドテーブルを運んできた。


「この床についている跡に合わせて、テーブルを置いてください」ミュリエルが2人に指示した。


「ぴったりだね」フィンが言った。


 ミュリエルは首を傾げた。頭の中を整理するように、考えたことを声に出して言った。「幽霊はサイドテーブルをベッドの脇から、ソファーまで持っていきました。ソファーでサイドテーブルが必要で、ベッドでは必要なかったからです。寝室に円い跡は一つもありません。円い跡が飲み物であると仮定すると、寝室では何も飲んでいないということになります。寝た跡だけがある……」

 ミュリエルは、ふと思いついて、ベッドの上に寝転がってみた。何度か寝返りを打ってみる。


「ミュリエル?」フィンが心配になって訊いた。「そんなにゴロゴロしたら汚れるよ」


「はい、汚れました」ベッドから降りて、立ち上がったミュリエルの服には、埃がついていた。「フィンさん、ソファーに寝転がってみてください」


「なるほどね」ミュリエルが何をしているのか理解したフィンは、ソファーに寝転がってゴロゴロと寝返りを打った。立ち上がってミュリエルに背中を見せた。


「汚れていませんね。ベッドを使った形跡はありますが、埃を払った形跡がありません。テーブルやソファーの埃は払っているのにです。幽霊はソファーで寝起きしていた。だとしたら、ベッドを使ったのは誰です?」


「サンジェルマン宰相閣下以外に、もう1人ここにいた」フィンが言った。


「そして、どちらか1人がこの部屋を使い、もう1人が寝室を使っています。寝室を使った人は、ベッドから動いていないどころか、寝返りさえも打っていません——椅子は、寝室に向かって引かれていました。寝室にいる人を監視しているかのように……」


「寝返りさえも打てなかったとすると、手足を拘束されていたということだろう。寝室に誰かを監禁していた」フィンもミュリエルと同じ答えに辿り着いた。


「監禁されていたのは、サンジェルマン宰相閣下です——」ミュリエルの瞳に驚愕の色が浮かんだ。


 フィンがミュリエルの考えを代わりに言った。「犯人はサンジェルマンを、王都で拉致して、ここへ連れてきた。そして、燃え盛るパーティー会場へ、他の8人と一緒に閉じ込め、旧館を片付けて立ち去る」


「クソッ!」2人の会話を静かに聞いていた。アンドレは壁を拳で叩いた。「犯人は必ず捕まえる。サンジェルマンの仇をとる」奥歯をぐっと噛みしめた。


「フィンさん」ミュリエルがフィンを呼んだ。


 フィンはミュリエルに頷いて言った。「兵士の皆さん。込み入った話をする必要がありますので、少しだけ席を外してもらいたいんです。エントランスで待っていてもらえますか?」


「分かりました。待機しています」兵士の1人がそう言い、他の4人を連れて出て行った。


「アンドレ王子殿下。伝えていないことがあります」ミュリエルがサッと手を振ると、建物の中にいた鼠たちが、あちこちにある隙間から部屋の中に、わんさか入ってきた。


「きゃあ!何よこれ⁉」マドゥレーヌはテーブルの上に飛び乗った。


「怖がらせてごめんなさい。この子たちは襲わないので、安心してください。私の手となり足となり、情報を集めてきてくれる賢い子たちなんです」


「これも魔法か?」アンドレは、恐怖とも興奮とも言えない顔で訊いた。


「はい、私は動物を操ることができます」


「ちょっと、あなた!こっちに来なさいよ」大丈夫と言われても、降りる勇気が出なかったマドゥレーヌは、ミュリエルを呼びつけた。そして、指をミュリエルの肩に突き付けて言った。「あなたやっぱり、大魔術師なのね!おかしいと思ったのよ。あんなすごいポーションを、ただの薬師が作れるわけないもの」


「黙っていて、ごめんなさい」


「別にいいわよ。言えなかったのでしょう?大魔術師だって世間に知られたら、各国から狙われるものね。私は誰にも喋らないわよ」


「ありがとうございます」ミュリエルは僅かに口角を持ち上げて微笑んだ。


「それで、その鼠たちに何をさせるつもり?」


「今回は、サンジェルマン宰相閣下が行方不明だと分かった時点で、犬に手伝ってもらっています。犬は嗅覚が優れていますから、人探しは彼らの得意分野なのです。ただし、サンジェルマン宰相閣下は行方不明になってから、1週間も経っていましたし、自らの足でここまで来たわけではなかったようですから、匂いが薄れていて犬たちは、後を追えませんでした。ですが、犯人がここから立ち去ったのであれば——どこへ向かったのか探しだせるはずです」


「何か必要な物はあるか?」犯人を捜せると聞いて、アンドレは勢い込んでいった。


「デュヴァリエ伯爵と、シクスト・コルディエ元少尉の、匂いがついている物を入手できますか?」


「分かった。すぐに手配する」


 ミュリエルがサッと手を振ると、鼠たちは散り散りに部屋を出て行った。

 マドゥレーヌはホッと息をつき、モーリスの手を借りてテーブルから降りた。

「そろそろ日が沈む。外へ出ようか」モーリスが言った。


 ミュリエルたちは、エントランスで待機していた兵士たちと合流して、旧館を後にした。

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