第17話 愛は小出しにせよ
14日の早朝、目を覚ましたミュリエルは、フィンに抱えられ、湯船に浸けられ、髪を洗われたり、体を洗われたりして、甘やかされ続けた。
そして、魔法を使えば濡れた髪は、あっという間に乾くが、ミュリエルは髪をタオルで乾かして欲しいとフィンに要求した。
ミュリエルの髪を、初めて乾かしたのはジゼルだった。ある日、モーリスに連れられ、川へ魚を釣りに来ていた幼いミュリエルは、足を滑らせて川に飛び込んでしまったのだ。
ただ全身びしょ濡れになっただけだというのに、慌てたモーリスは、小さなミュリエルを、壊れ物を扱うように、大きな腕で慎重に抱きかかえて、ジゼルの所へ急いで連れ帰った。
この世の終わりかのように青ざめたモーリスに抱えられ、唖然としているミュリエルを見て、ジゼルは涙を流しながら大笑いした。
そして、体が冷えてしまったミュリエルを風呂に入れ、髪を乾かしてくれた。まるで、お母さんだと、幼いミュリエルは嬉しくなった。
それ以来、髪を乾かされることが好きになってしまったのだ。
時々、不意打ちのように甘えてくる、予測不能な衝撃波に、フィンは思い悩んだ。
東邦では、煩悩を捨てるため、7年に渡って行う『
内容は驚くべきものである。3年目までは1年あたり100日間連続で峰々を歩き、4、5年目は1年あたり200日間連続で峰々を歩く。
5年700日の回峰行を満行すると、最も過酷とされる「堂入り」が行われる。
驚くべきは、9日かけて断食、断水・不眠・不臥の四無行に入るというではないか、フィンはそれを聞いたとき、東邦人はどうかしてると思ったが、今は尊敬の念を抱いている。
それほどまでに、煩悩を断つことは難しいということだ。ミュリエルの可愛いお願いを聞いて、下半身を硬直させてしまうことは、仕方のないことなのだ。
フィンはミュリエルの髪を乾かしながら悶々と考えた。
「まずは、支配人のグロージャンに、オベール男爵の妹へ、使いをやれないか聞いてみよう。連れて来られそうなら、そのままここへ、連れて来てもらえばいい。その後で、シリルのパブ『ラ・シャンス・スゥリ』へ向かおう」
「はい、婚約式の準備を、イザベルさんとエルさんに任せきりで、申し訳ないですが、式が始まるギリギリまで、戻れそうにありませんね」
「エルはそういうことが好きだから、問題ない。それに、ミュリエルのブライズメイドになる気でいるみたいだしね」
——ブライズメイドとは花嫁の付き添い人である。結婚をする幸せなカップルを妬み、悪魔がやって来るという言い伝えがあり、花嫁と似たような服装の友人たちが、花嫁に付き添うことにより、悪魔から花嫁を守る目的がある——
「ブライズメイドに?」
「今のところ、ミュリエルのブライズメイドは、イザベルとギャビーだけだろう?フランクールでの結婚式はカジュアルにするとしても、ザイドリッツではフォーマルにするしかない、それだと、イザベルとギャビーには荷が重いと思うんだ」
フランクールでは、ミュリエルとフィンの知り合いのほとんどが、平民なのだから、必然的に平民向けのカジュアルな式になるが、ザイドリッツに戻れば、フィンの知り合いのほとんどが、貴族となる。フォーマルでなければ、格好がつかない。
「そうですね、結婚式の知識は乏しいので、エルさんに助けてもらえると心強いです」
「それを聞いたらエルも喜ぶだろう。新郎の妹が出しゃばって、気分を害さないかと心配してたからね」
ミュリエルの髪を乾かし終えたフィンは、ミュリエルと連れ立ってグロージャンのところへ向かった。グロージャンに事情を説明して、オベール男爵の妹に、使いを出してもらえないかと頼んだ。そして、重症者へ治療を施すための場所を——新しいジュークボックス購入のためとはいえ——提供してくれたシリルのパブへと向かった。
モーリスは婚約式の準備で忙しく、というよりは、緊張でどうにかなってしまいそうだったので、ついてきたがったがったが置いてきた。
午前7時、イザークは他の患者の食事を準備していたが、ミュリエルを見かけるなり、パッと魅力的な笑顔を浮かべて近づいてきた。
「ミュリエル薬師!来てくださったのですね。患者の再診ですか?」
「はい、追加でいくつか処置が必要な患者がいます。オベール男爵は、いかがですか?まだ腹部の傷は治っていないのですから、あまり無理はなさらないでください」
「ミュリエル薬師、どうか、私のことはイザークと読んでください。今は食事の準備を手伝っていただけですから大丈夫です。誓って無理はしていません」イザークは声を落として続けた。「私が無理をしようものなら、あの若い薬師見習いに、叱られてしまいます」
イザークの視線の先には、救護班の腕章を腕につけた少女が、患者の包帯を手際よく取り替えていた。
「あの子じゃないかな?モーリスさんが言ってた。赤毛を編み込んだツインテールの女の子。重症者に黄色い布を腕に巻きつけるってアイデアを出した子だよ」
「フィリップ卿、その通りです。薬師と警官は制服を着ているから分かりやすいですけど、薬師見習いや、手伝ってくれている人たちを見分けるために、救護班と救助班の腕章を考えたのも彼女です。まだ12歳だというのに賢いですよね」イザークが教えた。
イザークは負傷しパニックを起こしかけていたし、その後は麻酔で朦朧としていたため、フィンがイザークと話したのは、これが初めてだと言っていいほどだった。
今朝、出かけていくフィンにモーリスが、イザークって男には注意しろと言っていた意味が、なんとなく分かった。
ミュリエルが好む、棘のない見かけをしている。それだけでも、警戒していたというのに、それ以上に、彼の人柄はフィンを脅かすものだった。
他人との距離を縮めるのが苦手なミュリエルは、相手から近づいてきてくれなければ、なかなか親しくなれない。ミュリエルの周りにいる人たちが皆、揃って明るい性格をしているのは、そういう理由だろう。
引っ込み思案で、人付き合いが苦手な人が、常に視線を落とし俯いているミュリエルに、話しかけられるはずがない。
その点、このイザークという男は、明るく朗らかな性格をしている。遠慮や加減がないのとは違って、不快感を与えることなく、他人の懐に侵入するのが上手いのだ。
この性質は、フィンとよく似ている。ミュリエルは、こういうタイプの人間と一緒にいることを、心地よいと感じるだろう。
昨日感じた直感的なやきもちは正しかった。婚約式を数時間後に控えているというのに、イザークを排除しなければと、フィンの心に警笛が鳴った。
「ミュリエル、メイクしたり、着替えたりしなきゃいけないらしくて、12時にはベットゥ・ア・ボン・デュー教会に戻ってくるようにって、エルから言われた。11時15分のフェリーに乗らないと、間に合わなくなっちゃうよ」
「そうですね、ここからマリーナまで、馬に乗って10分ほど、11時前には、ここを出発しなければなりませんね。急いで追加の治療を行いましょう」
「フルニエ島へ行かれるのですね。教会へは何をしに?」
「今日は婚約式なんです。前マルセル子爵——今はトゥルニエ伯爵でしたね。オートゥイユ伯から、ベットゥ・ア・ボン・デュー教会で、結婚式をあげる人が多いと聞きました。フルニエ島は、丸一日遊べるレジャースポットだそうですから、今晩は、そちらに滞在する予定なんです」フィンは幸せオーラ全開で、にこやかに言った。
「そうでしたか、婚約式を!それは素晴らしい。こんな時ですが、祝いの言葉を贈らせてください。御婚約おめでとうございます。フルニエ島は、最新のマリンスポーツが楽しめますから、きっと、ご家族の皆様も、喜ばれることでしょう」
俺はミュリエルの婚約者だ。お前につけ入る隙はない!と言ってやりたかったが、わざと婚約式の話を持ち出し、フィンとしては、遠回しに牽制したつもりだった。もしも相手がアンドレならば、やり返すか、歯噛みするに違いないが、素直に祝われ、フィンは肩透かしをくらった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます