第14話 懸命の治療
「さて、どうする?」フィンがミュリエルに訊いた。
「オベール男爵の
「前回、ソーニャさんを治療した時みたいに?あの時は、大量の魔力を消費して、ミュリエルも危険だった」フィンは不安な顔つきで、ミュリエルの両肩を優しく撫で下ろした。
「脾臓の裂傷は深く、損傷程度はI型、II型、Ⅲ型とあるうちの最も損傷程度が大きい、Ⅲ型、複雑深在性損傷です。完治させるには、私の魔力を多く使うことになるでしょう。ですが、助けられる命を、見捨てることはできません」
フィンはミュリエルの髪を、そっと撫でた。「やれることを全力でやりたいって気持ちはよく分かる。でも、無理はしないでほしい、ミュリエルにもしものことがあったら、俺はモーリスさんとジゼルさんに、締め殺されてしまうから、俺の命のためにも、無理だと感じたら、すぐに止めることを約束して」
ミュリエルは、少しだけ口角を持ち上げて、愉快そうに微笑んだ。「分かりました。約束します」
魔力を送るミュリエルは、まるで、これが大魔術師の力だと知らしめるかのように、煌めいていた。そんなミュリエルを、フィンは眩しそうに目を細めて見つめた。
30分ほど経ったところで、ミュリエルは魔力を送る手を下げた。
「内臓の損傷は完治しました」
「少し休憩しよう、顔が真っ青だ」ミュリエルが治療している間、腹部外傷の治療の準備をしていた——万が一のことを考えて、麻酔薬や鎮痛薬のポーション、治療道具一式を、ミュリエルは持ち歩いていた——フィンが縫合用の針や、ピンセットを消毒する手を止めて、ミュリエルを椅子に座らせた。
「では、10分だけ休憩します」
フィンは、ミュリエルにもっと休んで欲しかったが、腹部に破片が刺さったままの彼の体を思えば、10分で手を打つしかないかと苦慮した。
おおよそ10分が経とうとしたとき、イザークが、ぼんやりと目を覚ました。
「気がつかれましたか?」ミュリエルが声をかけた。
「ミュリエル薬師?いったいどうして」
ミュリエルは、体を起こそうとするイザークの肩を押した。「動いてはいけません。オベール男爵、あなたは爆発に巻き込まれ、負傷しています。腹部に刺さっている破片は、幸い出血を止めてくれていますが、今ある位置からズレてしまったら、大量出血してしまうかもしれません。ですから、動かないでください」
「腹部に破片って?」イザークは目玉を動かして、自分の腹を覗き込んだ。「嘘だろ!なんだよこれ!」イザークは気が遠くなりそうになり、吐き気が胃から込み上げてきて、えずいた。
「まず、あなたには、麻酔薬のポーションを飲んでもらいます。それから、破片を抜き縫合します」
「腹に穴が開いてるのに助かるのですか?私はこのまま死ぬのですか?」イザークの声は、酷く怯えていて震えていた。
「必ず助けます」
両目をカッと見開き、恐怖に慄いているイザークが、ミュリエルを非難するように叫んだ。
「そんな不確かな約束しないでください!いくら救国の乙女だからって、流感なんかとは違うんだ。腹にこんな物が突き刺さってるんですよ!助かるわけないでしょう!」イザークはパニックを起こす寸前だった。
「オベール男爵、ミュリエルが、どれだけの人を救ってきたかご存知でしょう?彼女は嘘を吐いたりしません。彼女が必ず助けると断言したからには、必ず助かります」
「……あなたは?」
「フィリップ・グライナーです」
「——あなたは、もしかして、ミュリエル薬師の恋人?」イザークは、妹にせがまれて、ミュリエルとフィンを題材にしたオペラ『永遠の愛をあなたに』を、観に行ったことがあったので、名前を聞いて誰なのか、すぐに見当がついた。
「ええ、そうです。ですから、命を救ったミュリエルに、想いを寄せることは許しませんよ」フィンは調子のいい冗談で、イザークの緊張を解こうとした。
「ハハッ!恐れ多いことです。私なんかが慈愛の天使に想いを寄せるなんて……ミュリエル薬師、私には幼い妹がいます。あの子は不治の病を患っている。薬がなければ生きていけない……私にもしものことがあったら、どうか、どうか、妹を頼みます」声を詰まらせながら、懇願するイザークの瞳から、涙がこぼれた。「ほとんど見ず知らずのあなたに、頼むことではないと分かっています。ですが、私が死ねば叔父は、高額の治療が必要な妹を、家から追い出してしまうでしょう。あなたが創設しようとしている病院に、入院させて頂きたいのです」
「私は諦めの悪い人間なのです。決してあなたの命も、妹様の命も、諦めたくはありません」
イザークは、フィンに渡されたポーションを2瓶、一気に飲み干し、不味いと思って覚悟したのに、甘い味がしたポーションに、目を丸くしながら、深い眠りに落ちた。
意識がなくなったようだと思い、ミュリエルが言った。「これより、オベール男爵の、腹部刺創修復術を行います。肋骨骨折は魔法で治癒を促し、腹部の裂傷は縫合のみに留めます。全て完治させてあげたいですが、ウスタシュ巡査とシリルさんは、損傷の程度を見てしまっていますから、かろうじて一命を取りとめた、という状態にするしかありません」
ミュリエルの、白くなりそうなほどに握られた手を、フィンは励ますように優しく包み込んだ。
「ミュリエルの痛み止めは、最高だから、全然痛くないんだ」
以前、ミュリエルの治療を受けたことがあり、その優れた効果に感銘を受けたフィンは、あのとき、ミュリエルに尊敬の念を抱いた。それが、いつしか恋心に変わったのだ。
「フィンさんの骨折は完治していましたし、傷ついた神経も治癒しましたので、痛くなかったのは当然です」
「え⁉︎じゃあ、ギプスも、ポーションも、いらなかった?俺——無駄に蟻を飲んだのか?」
必要のないギプスをはめ、不自由な生活をさせたばかりか、余分な代金まで支払わせてしまったことを、申し訳なく思い、ミュリエルは、気まずそうに視線を床に落とし、ついと横を向いた。
伏せられた瞳を、フィンはジロリと睨んだが、気まずいせいか、いつもより多くパチパチと動く瞼につられて、揺れるまつ毛が、あまりにも可愛くて、ミュリエルの頬を撫でた。
「可愛いのは反則だ、怒れなくなっちゃうだろう?」フィンはミュリエルの瞼に、唇でそっと触れた。「ほら、何も考えず、治療に専念するんだ。もしもバレたら、その時は一緒に謝ってあげるよ」
「はい、よろしくお願いします」
ミュリエルは、マジックワンドをイザークの体の上に掲げた。フィンが居れば、全て大丈夫だと思えた。これが魔法と言わずして、何と言おうか。
ミュリエルは、マジックワンドを持つ手を、グッと握り込んだ。「フィンさん、腹部の破片を、ゆっくりと引き抜いてください」
ミュリエルは大量出血に備えて、マジックワンドを構えた。破片が抜き出されれば、勢いよく血が溢れ出すだろう。すぐに魔法で血管を繋ぎ合わせなければ、イザークは出血死してしまう。
フィンが引き抜く度に、傷口から血が滲み出てきて、フィンの手が止まる。
「フィンさん、大丈夫です。間に合わなければ、魔力を送り治癒に導きます」ミュリエルは力強く言った。「魔法で破片を抜くこともできますが……出血を止めることと同時となると、不安が
「ミュリエルは何も悪くないだろう?俺がビビってるだけだ」フィンは大きく深呼吸した。「いくぞ、一気に引き抜く」
引き抜かれたガラスの破片は赤く濡れていて、10㎝ほど体内に埋まっていたと推測できる。
フィンは傷口の生々しさに、目眩を感じ、くらりとした。
ミュリエルは昨日も、この惨状に耐え、それをイザークは手伝ったのだ。これしきのことで倒れてしまっては、男の沽券に関わる。
フィンは目を強く閉じ、かろうじて倒れずに立っていられた。
どっと血が吹き出した腹部に、すかさず、ミュリエルは破片によって損傷した血管を魔法で繋ぎ合わせ、肋骨の骨折部位に治癒を促した。それが終わると、糸が通された針を手に持ち、裂けた腹部をスッスッと滞りなく縫いつけた。
縫合の技術はモーリスから習った。カルヴァン邸で、好き勝手できなかったミュリエルは、人々が寝静まってから、この縫合術を、服の裾を縫い合わせることで、何度も練習した。
魔法を習得するよりも、ずっと難しかった。それを、難なくやってのける国士無双のモーリスを、ミュリエルは、師匠だと、幼い心に決めた。
ありったけのロウソクや、ガスランプに灯された火が、ゆらゆらと揺れ、雑な造りのパブをまるで、神殿のように染め上げた。
その中に佇むミュリエルは、さながら、女神のようだと、心を打たれたフィンの視線は、動くことを忘れ、ミュリエルを見つめ続けた。
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