第12話 ポルト・ボヌール

 ミュリエルとフィンは、初めてマルセルを訪れたときに利用したレストラン『ポルト・ボヌール』を貸し切り、家族を招待した。


 まさか、数か月前に来店した客が、慈愛の天使と噂され、フランクールを疫病から救った立役者だったと知った店のオーナーは、心尽くしのもてなしをしてくれた。


 ミュリエルは、小恥ずかしいものを感じ、普通にしてくれとお願いしたが、あれよあれよという間に祭り上げられた。店のオーナーは、ミュリエル・ド・ブイヤベースというメニューを売り出し、毎月1日をミュリエルデーとし、ミュリエルが美味しかったと言ったシャーベットを、無料で提供すると言い出した。


 そして、店の前に、ミュリエル御用達店の看板を掲げると言ったときは、流石にミュリエルの表情も、ぴくりと引き攣った。


 それを愉快そうに見ていたフィンが、看板だけは取り下げるよう言い、代わりに、ミュリエルの誕生日9月10日は、感謝祭として、街をあげて大々的な催しをしてみては?と提案した。


 ミュリエルが慌てて止めに入ったが、感謝祭に観光客が押し寄せて来るだろう。マルセルの観光は、夏がメインだから、秋にイベントがあれば、マルセル領主代理のマドゥレーヌも、喜ぶのではないだろうか?とフィンが言った。


 結局のところフィンも、モーリスやジゼルと同じで、ミュリエルを褒め称える声を聞きたいだけなのだ。


 感謝されても、薬師としての職務を果たしただけで、褒められるようなことはしていないと思っているミュリエルは、いっそ隠れてしまいたくなる。


 フィンの意地が悪いと感じるのは、こんな時だ。人の役に立てるとなれば、ミュリエルは断ることができない。ましてや、ミュリエルは、マドゥレーヌを気に入っていて、親しくなりたいと思っているのだから、なおのこと断れるわけがない。フィンはそれが分かっていて、わざとマドゥレーヌの名前を出したのだ。


 そんなフィンのやり口に、ミュリエルは諦めて、ため息をつくしかなかった。


 店内にはゆったりとした音楽が流れ、大きく開けられた窓から入ってくる波の音と、不思議と調和している。


 昨日、マルセルの街で買った——マルセル特有の、リゾートを思わせる、華やかな服に身を包んだ女性陣からは、絶えず笑い声が聞こえている。


 皆、初めて食べるブイヤベースに興味津々で、女たちは、どうやって作るのだろうかと、スパイスの話で盛り上がっている。


 アンネリーゼは、ザイドリッツの、スパイスをたっぷりと使った料理も美味だから、ニーブールに招待しようと、ジゼルを誘っているようだ。


 立場は違えど、娘を持つ母親であることに、変わりはないということなのだろうか、アンネリーゼは、自分より少し年上のジゼルと、いつの間にか、親しく話すようになっていた。


 ジゼルの、誰とでも仲良くなれる社交性に、ミュリエルは、いつも目を丸くしてしまう。

 ジゼルの手腕ならば、きっと猛獣だって手懐けてしまうだろうと、本気で思うほどだ。

 それほどに、ジゼルの社交性は他者を凌駕している。


 男たちは、昨日買った葉巻を、テラスで楽しんでいた。


 グライナー家の専属医師よりも、医学や薬学の知識が豊富で、何を聞かれても答えられるモーリスを、ヘリベルトは評価しているようで、あれこれと質問しては感嘆し、引退するのならば、グライナー家の専属薬師になってくれと言った。


 モーリスは、最初こそ緊張していたが、ヘリベルトの人柄が気に入ったようで、気安い関係を築いていた。


 そもそも、2人は大陸戦争を生き抜いた同士なのだ。一方はザイドリッツの貴族として、北部沿岸部の指揮官を務めた。

 一方はフランクールの薬師として、交戦の只中に真っ向から挑んだ。

 ひとたび戦争の話題が出ると、2人の間に、戦友のような感情が芽生えたようだった。


 2人に挟まれて、からかわれているフィンを、ミュリエルは少し気の毒に思った。


 ユーグとティボーは、店内に飾られている船の模型に喜び飛びついた。触ってもいいと言われた船の舵を、軍艦さながらに握って遊んでいる。


 意外にも、ジークフリートは子供の面倒見が良く、今もユーグとティボーの相手をしてくれている。


 グライナー家は、長男アルベルトと、次男ディートリヒと、長女シャルロッテは、前妻の子供で、フィンたちとは、少し年が離れている。


 年長の甥っ子は、長男アルベルトの子供で、もう15歳になるのだと、フィンが言っていた。だからか、ジークフリートやフィンは、年下の子供というのが、身近にいて慣れているようだ。


 フィンのこまやかな気配りも、そんな理由があって、身についたものなのかもしれないと、ミュリエルは思った。


 前妻を病気で亡くしてから、ヘリベルトは、長いあいだ喪に服していたが、長女シャルロッテが16歳となり、デビュタントを迎える頃になって、身近に、大人の女性がいれば、頼れることも多いだろうという、周りの進めもあって、見合い結婚することにした。


 アンネリーゼは、幼い頃に婚約が結ばれ、ファイファー子爵家子息の、エックハルトに嫁ぐことが決まっていた。しかし、エックハルトが事もあろうに、他の女をはらませてしまい、破談となった。


 素行の悪い男のせいで、アンネリーゼは、20も年上の男の後妻という、貧乏くじを引かされることになった。


「結果としては、良かったんじゃないかな」とフィンはミュリエルに言った。


 フィンは、モーリスから結婚の許可をもぎ取ってくると、ミュリエルに家族のことを、寝物語に話して聞かせた。


 ニーブールの財源は潤沢で、ファイファー子爵領は、ニーブール伯爵領からの支援がなければ、途端に傾いてしまう。そのため、アンネリーゼを怒らせないよう顔色を伺い、頭も下半身もゆるい息子を、ファイファー子爵は、20年以上前に家から追い出した。


 とは言え、息子を見捨てることができず、宝石店の経営をさせているが、経営どころか、宝石に関しても無知で、騙されて損をしてばかりいる。フィンから言わせれば、世間知らずのお坊ちゃんだそうだ。


 もうすぐ50歳になる男に、お坊ちゃんと言うのだから、余程のことなのだろう。


 ファイファー子爵は高齢だ。フランクールもザイドリッツも、先代の死によってのみ、代替わりが成立する。それは、年長者を敬うといった意味が含まれている。


 ファイファー子爵は、代替わりが近いらしい。娘婿がこれまた出来が悪く、金の亡者なので、父親の庇護を失うエックハルトは、遺産として宝石店を相続することはできても、この先、もう誰にも頼ることはできないだろう。

 それなのに、危機感というものが欠けているようで、遊び呆けている。


 それに比べて、ヘリベルトは年下の妻を、結婚当初、めちゃくちゃに可愛がった。結婚して、20年以上が経った今でも、人目を憚らず溺愛するヘリベルトの姿に、若い令嬢たちは、アンネリーゼを羨ましがっている。


 確かにエックハルトと結婚していたら、アンネリーゼは、苦労をすることになっただろう。


 彼女にとって、この結婚は最良の選択だったということだ。


 ミュリエルは、窓の外へと視線を向けた。数か月前、ここに座り眺めた夜の海は、真っ暗で少し怖かった。でも、今はどうだろうか、窓の外は暗いというのに、窓に映る明るい店内に、心が安らいだ。不思議だと思った。状況が違うというだけで、こんなにも、人の心は変わるものなのだ。


 外のテラスから室内へ戻ってきたフィンと目があった。優しく微笑むフィンに、ミュリエルの心は、完全に蕩けてしまったようだ。

 纏わりつく魅惑的な感情が、ミュリエルの体を包み込んで満たした。


 愉快そうに揺れる瞳、意地悪そうに曲線を描く唇、さらりと風を受け流す長い髪の毛、彼の全てがミュリエルを惹きつけ、どきりと心臓が跳ねた。ミュリエルは、どうしようもなく、虜になってしまったのだ。


 午後21時30分、バタバタと、慌てた足音をたてながら走ってきた店のオーナーは、真っ青な顔で言った。「マルセル駅が……マルセル駅が爆発したと……昨日のフォントネー広場のようだと」


 ミュリエルは立ち上がり、モーリスと視線を交わした。「マルセル駅へ向かいます」


「ああ、俺も行く」昼間に言ったことが、本当に起きた。モーリスは、新燃料のプロパンの不具合が原因ならば、また同じことが起きるのでは?と危惧していた。


 ミュリエルはこくりと頷き、フィンを見た。「フィンさん、家族をお願いします」


「分かった。気をつけて行っておいで」フィンはミュリエルの唇に、ちゅっとキスをした。


「フィル、お前も行って、状況を確認してこい、2度も立て続けに爆発したのなら、何かある。父上と母上が危険に晒されているのなら、グライナー家の子供として、黙ってはいられないからな。マルセル領の領主に謁見する。そのための情報収集をして来い」ジークフリートが言った。


 両親と妹のことが心配だというのも本心だが、昨日、ミュリエルとモーリスが、ヴィラに戻ってくるまで、ずっと生きた心地がしなかったフィンを、ジークフリートは気の毒に思っていた。


 ジークフリートに大切な女性はいないが、大切な家族ならばいる。彼らが危険に晒されているというのに、自分は何もできず、待つだけだなんて、どれほどの苦痛だろうか、想像するに難くない。


「ありがとう。ジーク」兄の思惑の全てを、この一瞬で理解したフィンは、最大限の感謝を示した。


「オーナー、借りられる馬はありますか?」青ざめて、いっそ死人のような顔をした、店のオーナーに、モーリスが訊いた。


「あります」


「2頭借りたい」


「承知しました。馬小屋へご案内します」


 モーリスは、ジゼルを一度ギュッと抱きしめた。「ミュリエルのことを祈っててくれ」


「モーのことも祈っているわ」ジゼルは、その大きな体に、精一杯腕をまわして、抱きしめた。


「ありがとう」先に馬小屋へ向かって走り出した、ミュリエルとフィンの後を、モーリスは追った。「フィン、お前がミュリエルを馬に乗せろ。もしものことがあったら、何が何でも必ず、ジゼルの所に連れて帰れよ。お前の兄貴が言っていたように2回目の爆発だ、絶対に何かある」


「もしものことがあったら、モーリスさんを見捨てて、ミュリエルを守りますから、自分の身は自分で守ってくださいね」


 モーリスは聞きたかったことが聞けて、ニッと口の端を持ち上げて笑った。

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