第10話 朝は希望
12日の朝、目を覚ましたミュリエルは、『レ・ドニ』の敷地内にある、小さく可愛らしいレストラン『ソレイユ』に向かった。
ジゼルはミュリエルを見るなり駆け寄ってきて、その腕にしっかりと抱きしめた。
「ジゼルさん、大丈夫ですか?」
「もちろんよ。ミュリエルが無事だったんだから、大丈夫に決まっているでしょう?」ジゼルはミュリエルの頬を両手で包み込み、ミュリエルに優しく微笑んだ。「自慢の娘だわ。危険な場所に行かないで欲しいと思うけど、あなたが人から褒められ、讃えられるのを、母として誇りに思うわ」
ミュリエルは一瞬表情を曇らせたが、ジゼルの手を取って、こくりと頷いた。
幼かったミュリエルは、将来モーリスとジゼルを、家族のように思うことなど、想像していなかった。
誰かを、大切に思ったことなど、なかった幼いミュリエルは、大きな愛で包み込んでくれるモーリスとジゼルに戸惑い、訝しんだこともある。
それが、家族に対する無性の愛なのだと、理解するまでに、長い時間を要した。その間、根気よく待ち続けてくれたモーリスとジゼルに、一度心を開いてしまえば、ミュリエルは、自分の命よりも、彼らの命の方が、数倍も大事だと思えた。
「折角の旅行が、幸先の悪いものになってしまい残念です」
「ミュリエルのことだから、今日は、負傷した人たちの治療に行くのでしょう?帰りをここで待ってるわ。ミュリエルが帰ってきたら、旅行の続きを楽しみましょう。たくさんの人が亡くなって、心を痛めたのは事実よ、だけど、私たちが旅行を続けてはいけない、ということではないと思うのよ」
「はい、復興には時間がかかるでしょうから、マルシェで遊ぶことは出来なくなってしまいましたが、今晩は、マリーナのレストランを予約しているのです。以前フィンさんと行ったレストランで、とても美味しかったので、モーリスさんとジゼルさんにも、食べてもらいたいのです」
少し嬉しそうに話すミュリエルを、ジゼルはもう一度抱きしめた。
顔色が優れないギャビーを見て、ミュリエルは心配そうに近づいた。
「ギャビーさん、恐ろしい思いをしましたね。マルセル警察は、原因究明に全力を注いでいるでしょう。人は分からないことに恐れを抱くものです。事故の真相が分かれば、恐怖は和らぎます」
「お父さんが死んだ時、お母さんは私たち姉弟に、遺体を見せませんでした。お父さんの元気な姿だけを、覚えていて欲しかったからだそうです——死んだ人を初めて見ました。まるで蝋人形みたいに見えました。ついさっきまで笑ったり、泣いたり、怒ったりしていた人間だったのに……」ギャビーは、大粒の涙をポロポロとこぼした。なぜ自分は泣いているのか分からなかった。ただ悲しくて、悲しくて。
「命が消えるということは、耐え難い苦痛を、生者にもたらすものなのでしょう。薬師や看護師を志すのなら、覚悟をせねばなりません。命が消えてしまったことを、悔しく思うその気持ちが、人を助けたいと、思わせてくれるはずです。今のその悔しさを、大事にしてください」
涙が溢れる目を、グイッと拭ってギャビーは顔をあげた。「はい、ミュリエルさんとモーリスさんが、助けに向かったのに、泣くことしかできない自分が、悔しかったです。ミュリエルさん、私は薬師になりたいです。大勢の人の命を救う、薬師になりたいです」
「私の一番弟子の誕生ですね」
ギャビーの顔が、パッと明るくなった。慈愛の天使だと、世界から褒め称えられる人の、一番弟子の称号を得たのだ。これを喜ばない人はどこにもいない。
後ろで見守っていたイザベルは、娘の成長と決意に涙した。
その震える肩を、ジゼルが抱きしめた。
「いつの間にか、大人になったわね」
「はい……父親がいないことで、普通の子供のように、甘やかしてあげられず、姉として弟たちの面倒を、見させてしまった。そのことを、心苦しく思っていました。でも、真っ直ぐに育ってくれました」
師を得て、独り立ちする準備を始めるであろう娘を、イザベルは嬉しくも、寂しくも思った。こうやって、子供たちは巣立っていく、いつか時が来たら、死んだ夫に話して聞かせてやるのだ。私たちの子が、どんなに凄いかを。
あの愛情深い夫は、きっと子供たちの人生に関われなかったことが悔しくて、地団駄を踏むに違いないと思うと、イザベルの顔に自然と笑みがこぼれた。
ユーグとティボーは、昨晩フィンが言っていたようにケロリとしていた。事故直後は茫然としていたようだが、この回復力は幼さ故なのか、それともシャンタルの手腕なのか、とミュリエルは思案した。
なんと言っても、シャンタルは波瀾万丈の人生を、強く逞しく生きてきた女性だ。
シャンタルの夫は、息子がまだ幼い頃に、戦争で帰らぬ人となった。当時、子連れの未亡人への風当たりは、今よりもずっと冷たかった。
だから、少しくらい難のある男性でも、我慢して再婚をするしか、生きる道が無い女性も多いが、シャンタルは、持ち前の気丈さを発揮した。
人々から蔑まれるような仕事でも、金になるならと、心を殺して受け入れてきた。そして、1人で息子を立派に育て上げたが、その息子も、若くして病死し、シャンタルは1人、取り残された。
モーリスとシャンタルが知り合ったのは、随分と昔になる。モーリスより少し年下のシャンタルの息子は、彼と釣り仲間だったのだ。
今年76歳になるシャンタルは、昨年の秋、心臓発作で倒れた。シャンタルの体を心配したモーリスとジゼルは、シャンタルを自宅に招き入れ、同居することにした。
ミュリエルは、元婚約者のアンドレから、婚約破棄の慰謝料として巻き上げてきた300万トレールのうち、半分の150万トレールを、モーリスの薬店を買い取る、という名目で渡した。
その金があれば、3人で暮らしていくのに困らないが、シャンタルは、自分の食い扶持は自分で稼ぐと言って、洋品店からの依頼を受け、レース編みや刺繍を卸している。彼女が作るレース編みや刺繍は、とても繊細で評判がいい。
モーリスもジゼルも、手仕事はシャンタルの身体の健康にいいだろうと思い、続けさせている。
モーリスとジゼルが、ミュリエルを実の子のように、可愛がってくれているのと同じように、シャンタルは、ミュリエルを孫のように、可愛がってくれている。
そのことにミュリエルは、時々心がくすぐったくなる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます