第7話 Dish×Retainer×Vampire
「どういうこと?」
振り返るとアイゼンバーグは頭を垂れて水を被り、髪に飛んだ血をバシャバシャ洗い流していた。髪を通って下に落ちる水が赤を含まなくなると蛇口を閉め、背を伸ばした彼は髪の毛を掻き上げた。その、濡れて輝く純白の髪がひどく美しかった。
「そのままの意味だ。俺から離れれば、ホノカは殺される」
引き込まれそうになっていた意識が一気に引き戻された。
殺されるって、意味が分からない。アタシは彼の顔が見えるところまで回り込んだ。
「何で? アタシは関係ないのに!」
叫ぶつもりはなかったのに叫んでしまった。だって殺されるなんておかしい!
「関係はある。吸血鬼の存在を知った時点で関係者だ。俺たちは人間に存在を知られてはいけない。いろいろ面倒なことになるからな。だから知られたらその相手を殺すか、眷属にする」
淡々と言ってのける彼にアタシの怒りは増幅する一方だった。
「そんな一方的な! どうしてアタシが殺されるわけ? しかも眷属って何!? 吸血鬼にされるってこと!? だってそもそも吸血鬼だっていう秘密を話したのはアイゼンバーグなのに!」
そう、アイゼンバーグがバラしたんだから悪いのはアイゼンバーグに決まっている。知りたくもなかったことを知ってそれで殺されてしまうなんて理不尽にも程がある! そうでなければ眷属にって、吸血鬼にさせられるってこと? そんなの嫌!
「ハッ。どうして俺が? どうして人間よりも吸血鬼が罰を受けなきゃならない? たかが人間ごときに俺たちが」
ゾクリ、全身が冷たくなる。
アタシの方を向いたアイゼンバーグの顔が、背筋が凍るほど怖ろしかった。ニヤリと笑う唇から覗く銀の牙はもちろんのこと、瞳が、少しも笑っていない冷たい青い瞳が怖かった。アタシを、いやアタシたち人間を明らかに自分たちより下に見ている目、蔑みの、目。たぶんアイゼンバーグたち吸血鬼は人間を家畜のようなものとしか思っていないんだ。ただの食べ物、力の無い弱きもの、食べ物に抱く感情などなく、殺すことなど至極簡単な――。
「でも、それならあの女の子は?」
アタシがアイゼンバーグを見た時に血を吸われていたらしいあの女の子は殺されてしまったのか?
項垂れた身体、首筋から見えた真っ赤な血。それとももう殺された後で、死んでしまっていたのか? だとしたらアイゼンバーグは、この人は……人殺し。
「彼奴か。彼奴なら生きている」
「へ?」
驚きの一言に間の抜けた声が出てしまった。生きているって、だって。まぁほっとしたのだが、彼は今、自分の存在を知った者は殺すと言っていたのにまたどうしてだろう?
「彼奴は俺を見た瞬間に気絶した。そこを噛みついてやったから記憶も飛んでいるだろう。だから彼奴は俺のことを吸血鬼だと思うどころか、俺に会ったことさえ覚えていないだろう」
「じゃ、眷属ってやつに、吸血鬼になったってこと?」
「俺の眷属になるわけがない」
アイゼンバーグはなにやら少し不機嫌そうに言った。血を吸っただけでは眷属にはならないということだろうか。
それなら。
「アタシだってそうやって見逃してくれれば良かったのに」
あの時アタシも見たのは一瞬だった。あの時はアイゼンバーグの顔さえも分からず、吸血鬼だなんて思わなかったのに。もしアイゼンバーグが追いかけてさえ来なかったら、攫われなかったら、アタシも全て忘れられただろうに。
「……ホノカが逃げるからだ」
「どういうこと?」
「不味いものを飲んでかなりムシャクシャしていた時にホノカが逃げていくのを見て美味そうだと思って、反射的に追いかけた」
だからあの時少し怒ったような顔をしていたのか。あれは怒りというか不機嫌な顔だったのだ。というかなんだ? 美味しそうって何? 吸血鬼って人間が美味しそうに見えるの? まぁ、人の血を吸うんだからそういうこともあるか。いや、でもたったそれだけでアタシは命を狙われるようなことに巻き込まれてしまったのか? 獲物を追いかける肉食獣みたいな、ただの反射で? もう自分の運の無さに悲しくなってきた。
もしかしてアイゼンバーグはアタシを食べるために連れているのか? アタシなんて何の利益にもならない足手まといを放っておかずに命を助ける理由はそれしかない。アタシはその御陰で命拾いしているわけだが。
真意を探ろうとアイゼンバーグの背中を睨んでみる。
「傷の治りが遅いな」
アイゼンバーグがアタシの前に左掌をかざした。左手はあの人の剣が深く突き刺さったはずで、穴が開いていたはずだった。それなのにもうその穴はふさがっていて少しだけ痕が残っているだけだった。
治りが遅い、ねぇ。やはり吸血鬼はいろいろな意味で人間と比べてはいけない生き物かもしれない。これで治りが遅いというのにはいささか疑問があるのだが、この分の回復力なら命に別状はなさそうだ。多分胸の切り傷も治っているんだろう。アイゼンバーグもそうだけど、剣のあの人もきっと。
「良かった。それなら大丈夫みたい」
アイゼンバーグはアタシの言葉を聞いて少し驚いたような顔をしてアタシを見た。何だ、この人。さっきからよく驚くような気がする。
「まぁな。それよりホノカもどうにかしろ。血の臭いがきつい」
言われてハッとしたアタシは自分の姿を上から下に見た。そういえばアイゼンバーグに抱えられた所為でアタシも血みどろになっていたのだった。確か顔にも血が飛んでいたような気がする。皮膚についた血は洗えるが、制服にこびりついたこれはどうにかできるものではないな。
アタシはとりあえず手や顔についた血を洗い流した。髪の毛にはついていないことを祈って水を止める。
「髪も、服もだ」
あぁ、髪の毛にも跳ねていたか。でも制服は洗えないし、下が下着なので脱ぐこともできない。今日に限ってこれだ。やはり母の言うことを聞いて着替えておくべきだった。
「服と言われても」
口ごもるとアイゼンバーグが突然アタシの襟元を鷲掴みにした。
「な、何!?」
驚いて腕を両手で掴み返す。相変わらず冷たい。ではなくてなんなんだ!
「洗えないなら脱げ」
「無理!」
即答した。だって、脱げなんて意味が分からない! アタシはこれでも女の子だし、一応人前で下着姿になるのには抵抗がある。一緒にいる相手が男であるなら尚更だ!
「アタシ一応女なんだけど!」
必死に抗議するもそれがどうしたと言わんばかりの顔をされる。もしやこの人、デリカシーの欠片もないのか? そんな綺麗な顔しておいて!
「そのままだと奴らに気づかれる。特に匂いに敏感な面倒な奴がいるからな」
面倒なヤツ? そういえばさっきもそんなことを言っていたような気がするのだが、そんなにも面倒なのだろうか。
でもこれを脱ぐことは出来ない、絶対に! 女の意地だ!
「無理なものは無……いっ!」
キュンキュンッ
話している最中で突然頭を押さえつけられて舌を噛んでしまったことはもはやどうでもいい。今までアタシの頭があったところの壁についさっきまでは無かった小さな穴が空いていることに気づいたからだ。
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