第6話 Strange×Wonder×Vampire
それからどこかの廃ビルに着き、地面に下ろされるまでアタシは放心状態だった。気絶していたわけではない。彼の冷たい胸と血の臭い、それから上下運動のせいで何度も吐きそうになったことを覚えているから。でも、ただ、それだけ。
アイゼンバーグは地面に下ろされても足に力が入らなくてへたり込んでしまったアタシの腕を引っ張り、立たせようとする。しかしアタシはそれに答えられそうもなかった。自分の身体ではないみたいに全く力が入らないのだ。
「どうした? 俺のことが怖いのか?」
また、ニヤリ顔。その顔がなぜかすごくアタシの怒りを煽り、血がカッと頭に上ってきた。アタシはアイゼンバーグを下から睨み、大声で叫んだ。
「なんで、なんで笑っているの? 誰かを殺した後にどうして笑えるの? おかしいでしょ!」
アイゼンバーグは少し目を見開いて驚いたような顔をしてから無表情になった。
「そんなに簡単に人を殺して良いの!? 良くないでしょ! アタシ、君みたいな人嫌い、嫌だ!」
かつてないほど大きな声を出したためアタシは息切れした。こんなに怒るのも初めてで、なんだか自分が自分でないようだった。だって、だっておかしすぎるのだ。どうしてそんなにも普通に笑えているのか分からない。いや、普通じゃない。笑っていられるなんて普通じゃない!
「人間が吸血鬼の俺に怒鳴るなんてな。だが腰を抜かしたままでは威力半減だな」
また笑う。さらに自分の頭に血が上るのが分かった。コイツは誰かを殺してしまったことをどうとも思っていないのか! おかしい、間違っている! こんな狂ったヤツの近くにはいられない、いたくない! アタシは腕を掴んでいたヤツの手を振り払い、役目を忘れている自分の足を心の中で叱りつけて、ゆっくり、なんとか立ち上がった。
「足がふらついている」
「うるさい!」
一喝し、震える両足を両手で押さえたがそれでも震えは止まらなかった。怖い。何も感じさせない無の表情が冷たくて、真っ赤な姿がぼうっと光っているようで。今までの生活では感じることもなかった恐怖がここにある。だってコイツはあの人を殺したんだから……吸血鬼なんだから。でも怖がるままではいけないのだ!
「命はそんなに安くないんだから! あと君も早く帰って傷の手当てをしてもらえ! アタシはもう、帰る!」
ここがどこだか全く見当もつかなかったが、この際それはどうでも良い。同じ日本なんだからうろちょろしていればなんとか帰れるだろう。とにかくアタシは早くコイツから離れたかった。だからヤツの姿を確認することもなくきびすを返し、覚束ない足取りで歩き出したのだった。
すると三歩も行かないうちに背中から笑い声が聞こえた。アイツのものらしい高らかで天に響く笑い声に驚き、振り返ってみるとヤツはまるで絵画のような綺麗な顔で、どこか可愛らしく、大笑いしていた。瞬間、ホントにちょっとだけ見とれてしまう自分がいる。そんな自分が不甲斐ない。
「アッハッハッハ! 俺を怒鳴っておきながら俺の怪我の心配するのか? 意味が分からないな」
腕を組んで俯きがちに笑う、馬鹿にしたような態度のヤツにアタシはムッとして眉を動かした。しかしもう何も言いたくなくて無視してこの場を去ろうとした。それなのに。
「言っておくが、マリウスは死んでない」
衝撃的な言葉のせいで身体が固まってしまった。
え? だって、だってマリウスってさっき剣で刺されて動かなくなった人だろう? あの人はあんなにも怪我をしていて血みどろで、通常心臓のある部分を刺されたのに生きているのか?
「嘘、ホントに?」
油が切れた機械のようにゆっくり振り返ると、あぁ、と言って笑っているアイゼンバーグがいた。静寂の中にクックックックと押し殺したように笑う声がこだまする。いや、だってあの人.
アタシはこの目で、見たのに。動揺の所為で視界が右に左に動いている。
「なんだ、不満なのか」
「いや、そうじゃないけど……」
いきなり笑うのを止めるアイゼンバーグ。その顔はやはり嘘を言っているようには見えなかった。つまりあの人は生きている? じゃぁ、それじゃぁ……。
「良かった」
また足の力が抜けてへたり込んでしまった。あの人、生きているんだ。全然そのようには見えなかったけど、今は信じられないことが多すぎて脳が麻痺しているらしい。彼は生きているのだと、彼の言葉を信じ込んでいる。
あぁ良かった。あの人は死んでいないのだ。アイゼンバーグは殺していないのだ。沸き上がっていた怒りが徐々に収まっていく。
「良かったとは、また変わったことを言う。別に親しくもないホノカが心配するようなことではないはずだろ」
アイゼンバーグはゆったりとした足取りでアタシの前まで来て、ぐいっと腕を引っ張った。身体が浮き上がる。しかし、それでも立ち上がれないアタシに少しだけ眉を寄せてそのまま歩き出した。どうやら引きずっていくことに決め込んだらしく、お構いなしに引きずっていくので靴がすり減りそうだった。ガガガガガガッと不愉快な音がしている。流石にこれではいけないと思い、アタシは頑張って足に力を入れて立ち上がった。その間も彼は進んでいるので少しもつれながらではあったが、立ち上がり、今は一応歩いている。相手の足が速すぎることもあってまだ若干引きずられているが。
「確かに親しくはないけど、でも目の前であんなことがあったら心配する。当たり前でしょ」
遅れて答えるとアイゼンバーグは少しだけ不思議そうな顔をして振り返った。しかし何も言わずに前を向いてしまう。
よく、分からない。アタシがあの人を心配しているのは人間社会では比較的当たり前だろうが、彼の世界では違うらしい。考え方が根本的に違うのだろうか。
トンッ
考えていたらアイゼンバーグが立ち止まっていることに気がつかず、背中にぶつかってしまった。少しだけしっとりした感覚がアタシの顔に伝わる。そうだこの人、今立っているのが不思議なくらいひどい怪我をしていたのだった。いつの間にか血の臭いに慣れてしまっていたので忘れていた。こういう時、適応能力の高い人間というものが嫌になる。
「さて、早く洗い流さないとな。血の臭いに誘われて面倒な奴が来る前に」
アイゼンバーグは呟いてアタシの腕を放し、ボロボロになったシャツを脱ぎ捨てた。真っ赤な背中が露わになり、少しだけ肺がギュッとなる。臭いに慣れても視覚的には慣れていないらしい。
それからアイゼンバーグは目の前にある蛇口を捻って出てきた水で体を洗い始めた。そうか水道。アイゼンバーグがここに来たのは水道で身体の血を洗い流すためだったのか。血の臭いに誘われてということだし、吸血鬼だからその類の臭いには敏感なのだろう。
アタシは洗い流されていく華奢な背中を見ながら、傷口には染みないのだろうかとぼんやり考えた。そんな素振りもないからきっと痛くないんだろうけど、深い切り傷と大量出血しているところを見るとホントに大丈夫なのかなと思う。さっきの男の人もだが、こんなになっても生きているというのはすごく不思議なことだ。
彼らは、吸血鬼というのはどんな存在なのだろう。知りたいとは思うが、まぁ知る必要もないような気がする。アタシは巻き込まれただけだから。
そうだ、今なら家に帰れるかもしれない。あれから随分と経ってしまっているのでさすがに家族も心配しているだろう。ここが分からなくてもそう遠く離れているわけでもないだろうし、何しろチャンスは今しかない。
アタシは白い彼の背中を窺いながら、きびすを返した。
「逃げてもいいが、殺されても知らないからな」
踏み出した一歩が、止まる。今何と言った? 殺される? アタシが?
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