第8話

 小さくてもヒビが入ったグラスは、もう使い物にはならない。

 はじめは水がこぼれなくても、使い続ければいつか決壊する日はくるだろう。


 ヨシローの態度は以前と変わらなかった。

 けれど、一度気になったら小さなことにも違和感を覚えてしまうものだ。


「おかえりー。今日はおまえの好きなパスタだぞー」

「え、うん。ありがとう、着替えてくる……」


 帰宅した三月に得意そうに声をかける銀髪だったが、ミートパスタは連続二日目。


(またこれ、、だ。でも、そんなちっちゃい嫌がらせなんてしない……よね?)


 ヨシローの笑顔の真意がわからない。

 だけど、「出ていけ」と言われない限りはここにいるんだと、三月は脱いだブレザーをハンガーにかけて頷いた。

 同じメニューが続くからってなんだって言うの。おにーちゃんだって疲れていることもあ……あるある!

 三月は深く考えないことにした。


 だが、他にも引っかかることがある。

 体調不良で午前中に早退したとき、ニートが自宅を警備していなかったことがあった。

 半日経ったころ、買い物袋を下げて帰って来たが、買い物にしては長すぎた。

 もしかしたらパチンコを再開したのかもしれない。


「どうした? 何か悩みか?」


 あんたのことですとも言えず、三月は笑顔を作って首を振る。

 パチンコでもいい。全然いい。

 その代わり、変な隠しごとだけはしないで。

 その言葉をパスタと一緒に飲み込んだ。


「ふうん」


 ヨシローは息を漏らして、テレビをつけた。

 食事は団らんの時間だから、テレビをつけないのが暗黙のルールだったはずなのに。

 その行動に、三月は小さく傷ついた。


 二人の間に生まれた見えない亀裂は確実に大きくなっている。

 三月はそれを自覚している。


 夕食後、片付けをしてから、三月は自室からルービックキューブを取って居間へと戻った。

 お茶を淹れて、緊張した面持ちで、テレビを見ているヨシローの隣に座る。


「お茶どうぞ」

「おー、サンガツ」

「……それ、あたしのことバカにしてる?」

「何言ってるんだ、サンキューガッツの略だぞ」

「むしろ何言ってるの?」


 二人の間に、柔らかな笑いが生まれた。

 いつもの感じ。

 大好きなヨシローとの間合いに、胸が温まる。


「おにーちゃん、ルービックキューブ教えてよ」


 学業が忙しくてお互いすれ違っていたのかもしれない。

 けれど、共通の時間を大事にしていれば、また二人の距離も戻るはず。

 三月は祈るような気持ちでヨシローにそれを渡した。


「おっけー。ヨッさんの手腕に見惚みとれるがいい」


 いつものようにガチャガチャと、ヨシローがキューブを回す。

 心地よい音は5秒も続かず、静かに机に置かれて終わった。

 三月は唾を飲み込んだ。

 まったく揃っていないそれに、胸騒ぎがする。


「――ちくしょう、限界だ」


 ヨシローは表情を歪ませ、手のひらを額に押し当てた。


「もう無理。おまえと暮らすの」


 絞り出すようなヨシローの声に、三月は頭から冷水を浴びたように愕然とする。


「前々から思ってたんだ。俺がおまえなんかと生活するのは限界があるってな」

「や……」

「おまえ、本当は母ちゃんに追い出されてここに来たんだろ。だから新学期も、入試も、卒業式も、おまえに連絡ひとつ寄越さなかった。ここでいつまでも暮らした方があいつにとって都合が良かったからな」

「あ、うぅ」


 思わず三月は耳を塞いだ。

 ひどい言葉は、彼女が目を背けていた現実だ。

 彼女が屋敷に来たのは、ヨシローの世話が目的などではない。

 育児放棄の果てに、生きるためにヨシローに頼るしかなかったのだ。


「美桜はダメだったが、おまえの親父は急いで海外から迎えに来ると言っている。それまで、自宅で待っていることだ」


 どうして急に、追い出すようなことを言うのだろうか。

 理由がわからない。

 喧嘩もしたけれど、うまくやれてたはずだった。


「おにーちゃんは、あたしといて楽しくなかったの?」


 先ほどまで饒舌だったヨシローからの返答はない。


「あたし、おにーちゃんが大好きだよ! お母さんやお父さんなんかよりも、おにーちゃんとずっと一緒に暮らしたいよ!」


 三月の必死な訴えにも、顔を上げようとしない。


「お母さんに邪険にされているのも知ってた。あたしより不倫相手の方が大事だって。知ってたよっ!!」


 彼女の母・美桜は、母親になりきれない女だった。

 夫で婿養子の優輝が海外にいるのをいいことに、独身のような振る舞いをしていた。

 そんな生活に、我が子は邪魔者。興味も愛情も持てない。

 そんな母の顔色を伺うようにして生きていた三月は、この家で、初めて家族の温もりを知った気がした。


「あたしの家族は、おにーちゃんだけだよ。だから、ね? お願い。出て行けなんて言わな……」

「明日までに」


 やっと口を開いたヨシローを、三月はすがるように見つめる。


「明日までに帰れ、自分の家に」


 けれど彼の答えは、三月の気持ちをすべて無視するものだった。


「どう、して……」


 恨めしそうに三月は唇を噛んだ。

 悔しさは涙とともにあふれて止まらない。


「どうせ捨てるのなら、優しくなんてして欲しくなかった!!」

「……」

「おにーちゃんなんて、大っ嫌いっ!!」


 ルービックキューブをヨシローに投げつけて、三月は居間を飛び出す。


 それが彼女と彼の最後の対話であり、最期の会話となった。



 そして8か月後、ヨシローは一人きりで死んだ。

 

 


 

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