第3話 GOと言ったらそれに従う?
一時は危機に陥ったが、イグナシオ済む集落近くの学校建設は順調である。
あれ以来、妙な邪魔も入ることなく作業は着々と進んでいた。
進捗管理をしていたサミュエルもそれを確認し、帰国することが決まった。あとは完成までたまに電話、手紙などで進捗確認に入るくらいである。
気掛かりなのは管理者が突然行方不明になり、閉鎖された岩塩採掘場だった。就業環境は最悪だったが、貴重な現金収入の場でもある。再開を望む声はあった。
(……あのクソ役人、マジでどこ行っちゃったんだ……? いないはいないでいいんだけど、このままだと彼らの現金収入が途絶えちゃうしなー……)
帰る道すがら、諜報機関の上司には報告を上げておく。回答としては、現地の支部で代わりの人間を探しておくということで落ち着いた。
サミュエルとしてはこれ以上の打つ手はないので、素直に帰国するしかない。
サミュエルも帰国し、外部の者がいなくなったイグナシオの集落は、特に変わることなく日々が過ぎていく。たまにサミュエルから連絡があり、備品が届いたり、教師の手配中の報告を受けたりするくらいだ。
それからも、イグナシオは定期的に秘境観光のツアーガイドの仕事を受けていた。家族の生活を支えるには、両親が管理する牧場だけではやっていけない。いずれ就学する幼い弟と妹のために、貯められるものは貯めておこうという考えのもとだ。
今日からまたしばらく仕事で出かけることを注げると、珍しく幼い双子はイグナシオにしがみついてきた。前はよくあったが、最近は全然なかったのでイグナシオは不思議に思いしゃがんで二人と視線を合わせる。
「…どうしたの?」
二人にそう聞いても彼らは答えずにしゃがんだイグナシオにしっかりと抱き着く。本当にどうしたの、と言いながら二人の背中をさすった。
「……にいちゃん、あのへんなおじさんが言ってたことはほんとう?」
「……にいちゃん、ほんとうなら、わたしたち」
――いないほうがいいの?
「!!」
幼い子どもが知ってはいけない事実が、彼らの耳に届いてしまっていたのか。取り返しのつかない事態に、イグナシオはどう言えばいいのか、二人の背中を撫でながら考える。
太った役人がマリエラと口論して岩塩採掘場の事を口にしたとき、二人はそれを聞いてしまったのだろうか。イグナシオとしては途中から合流したので、すべてを聞いていた訳ではないが、推測するに岩塩採掘場で働いていた人間を罵倒していたようだ。その中に、二人の両親について触れた部分があったのではないかと。
ベネガス家では二人を弟、妹としていたが、実のところ二人は岩塩採掘場で働く両親を失い、保護されたのである。その時はイグナシオもそこにいた。劣悪な環境で、言うにも憚られる地獄も見た。酷使され命を落とす者もおり、彼らも体調を崩してからも休むことは一切許されず、命尽きるまで働かされ続けたのだった。
彼らのことはイグナシオの両親もよく知っていたので、二人の死後、ベネガス家の子どもとして双子を受け入れて何事もなく過ごしていたし、これからもそうなるはずだと思っていた。
ここで真実を告げることはできない。受け止めるにはあまりに重すぎやしないか。しかし嘘でごまかすのも違う気がする。
「あのへんなおじさんが言ってたことで、みんなもお兄ちゃんのお友達もすっごく怒っているの見たでしょ?」
双子を抱きしめて背中を撫で続けながら言うと、二人はそれぞれ、見た、と言う。
「……そうだよね。ひどい事を言ったから怒ってた。へんなおじさんは本当の事を言ったんじゃないよ。みんなを怒らせることを言ったんだよ」
どうかな、わかるかな。そう尋ねると双子は少し間をおいて、うん、と頷いた。イグナシオはもう一度、二人をしっかり抱きしめる。
「……まだ、気になることある? お兄ちゃんに言っておきたいことある?」
そう問えば、二人は首を横に振った。その様子に一安心し、立ち上がるとイグナシオは二人に向けて、仕事に出かけると手を振る。二人は笑顔で手を振り返し、外に遊びに出た。それを見送ってから、彼も家の外に出る。家の外でそのやり取りを聞いていた彼の両親は、何も言わず息子を力強く抱きしめる。彼もそれに応えたあと、出かけていった。
フィンランドでは、利き手を怪我して不便な生活を送っているオリヴェールだが、定期的に訪れる彼の姉、リトゥヴァの助けによりなんとか過ごしている。彼女の作り置き料理のおかげで三食レトルト続きから逃れることができた。
「オーリィ、ケガの調子はどう?」
持ってきた食事の余りを冷蔵庫に入れながら聞くと、オリヴェールはぼちぼちだと答える。
「ねーちゃんのおかげで、三食レトルト地獄にならなくて本当に感謝してるよ」
そんなことになったら胃が爆発しちまう、というと、リトゥヴァはそれなら良かったと笑顔を浮かべる。
「…それでオーリィ、仕事はいつ復帰するの?」
「……まぁ、とりあえず2週間は休むことにした。追々、簡単なのからまた受けるさ」
何もしないのは死ぬからな、というと彼女はそうね、と相槌を打ち少し黙ったあと、こう続けた。
「……オーリィ、久しぶりにねーちゃんとお出かけしない?」
「……なんて?」
彼が呆気にとられている間にリトゥヴァは話を進めていく。せっかくだから、美術館や博物館をハシゴしましょう、と彼女ははしゃいでいる。突然のことに困惑したが、オリヴェールとしてはそのプランに賛成だった。知的好奇心を刺激されることは大好物だからだ。
「さすが、ねーちゃんだな。行きたいところをよくわかってるよ」
「でしょう? 私も長期休暇を取ろうと思ってたし、ちょうどいいじゃない」
二人はガイドブックを開きながら、ヨーロッパ旅行の計画を楽しそうに立て始めた。
イグナシオは双子から言われた言葉が引っかかりつつも、努めて平常心を装い、観光ガイドの仕事をしていた。
この日は団体ではなく、個人の申し込みが数組あったのを案内する。ひとり、多くても二人という小規模だった。合計しても10人以下になるなど久しぶりのことである。
人数が少ない分、和気藹々と話が弾む。観光客同士も仲良くなり、とてもいい雰囲気だった。
「…………」
ただ、イグナシオはその中でも一切言葉を発していない、一人のアジア人らしき男が気になっていた。輪の中に入るでもなく、少し距離があり、風景の写真や地面の写真を多く撮っている。
(……英語がわからないのか、どうなのかよくわからないけど……楽しんでもらえてるのかなぁ?)
男の表情が全く変わらないのも気になっていた。つい、そちらを気にしてしまい、不意にこちらを向いた男と目が合う。見すぎてたか、と焦りつつも、ぎこちなく会釈をしてみた。すると男はやはり表情を変えることはなかったが、会釈を返してきた。そしてイグナシオの方に足を進める。
黒い長い髪を結い上げ、団子状にまとめていた。まとめきれなかった短い毛はくるくるとねじれて巻いているところをみると、彼はなかなかのくせ毛のようだ。瞳も髪と同様に黒く、表情は全く読めない。
「……興味深いツアーでした。ガイドいただきありがとうございます」
「…………」
男の口から出てきたのは完璧なスペイン語だった。英語が来ると思っていたイグナシオは、自分の中にある言語のスイッチを切り替えるのに少々時間を要してしまう。イグナシオの沈黙に、男は小首を傾げた。
「……ご、ごめんなさい。英語で話すかと思って構えていまして……。スペイン語、お上手ですね」
「ありがとうございます」
男の声は、落ち着きがあり、淡々としていた。そして彼はいくつか質問してもいいかと尋ねる。ツアー途中なので移動しながら答えると約束し、ツアーの説明の合間に二人は話していた。
「……では、イグナシオさんはこの辺の町に暮らしてるわけじゃない、と」
「そうです。僕はもっと……山側の……この地図で言えばずーっと北東の方になりますかね。仕事がある時だけ、事務所のある町に滞在してるんです。出稼ぎ?みたいな感じで」
「……北東……」
男は何故か方角が気になったようで、そっちの方には何があるのかと尋ねる。イグナシオは不思議なことを聞く男だな、と思いながら会話をしていた。集落が点在していて、他には全く何もない、と答えれば、男はしばらく黙り、そうですか、とだけ呟いた。
「興味深い話でした。どうもありがとうございます」
「…あ、いえ。楽しんでもらえたなら嬉しいです」
そして二人は握手を交わす。それ以降、スペイン語を話すアジア人は話しかけてくることはなかった。
「……やぁ、サミュエル・テイラー。おれは日本支部、チーム・アヤメ所属のイテツ・アンドウだ。今、話してもいいだろうか?」
先程のスペイン語を話すアジア人、イテツはツアー終了後、自分の宿泊先に戻りながら電話をする。その言葉は、英語に変わっていた。電話相手、サミュエルは全然いいよー、とのんびり返す。
『あ、その節はどうも〜。おかげさまでお片付けがあっという間に終わっちゃって驚いたよ。すごいね、チーム・アヤメ』
まだ現地にいるのかを聞くと、イテツは肯定する。ただし、チームの他の二人は既に出国しているとのことだ。ヨーロッパの方で要請があり、二人はそちらに向かっている。イテツはどうやら、単独で行方不明になったあの役人を追っているらしい。その件に関しては、サミュエルも気になっていたのだ。何かわかったら自分にも教えてほしい、と願い出る。イテツは構わないと応えた。
「……で、例のクソ役人が行方不明になったっていう土地に来てみたんだが、調べても痕跡が全く何もない」
『……そーなんだよねー。びっくりするくらいキレイに消えちゃってるじゃん? 強盗とか、何らかの事件事故に巻き込まれてたら痕跡が残るハズなんだけど、俺たちでも見つけられないってことはさー、消した奴がいる、って考えるのが妥当じゃない?』
もしそうなら只者じゃないよ、この手腕、と付け加える。
「このあとはGPSが途絶えた辺り――ここからなら東から北東方面かな――探ってみるが……何も出なかったら完全に切り上げる。それでいいか?」
『オッケーオッケー。……まぁ、もし隠れて生きててまた出てきたなら……今度はちゃんと俺が片付けるよ』
「頼もしい限りだ」
『……それにしても大変だよねー、南米のあとはヨーロッパだなんて』
「…それに関しては、タイミングが良かったのか悪かったのか」
『?』
チリで仕事が終わったら、どこ経由で帰ろうかという話になった、とイテツが話し始める。来るときはアメリカを経由したので、ちょっと遠回りでもヨーロッパ経由で帰ろう、という案が出たようだ。観光しながら帰るにちょうどいい思っていたが、乗る飛行機を決めてから要請が入ったらしい。メンバーの一人、タロウがキレ散らかしてた、と言えば、サミュエルは目に浮かぶね、と苦笑している。それはそれで、とイテツは話を元に戻した。
「……で、例のクソ役人のGPSが途絶えた辺りに集落があるらしいんだが、それは知ってるか?」
『あぁ、もちろん。そこの学校建設の管理もしてたからね。住人のこともある程度、知ってるけど……まさか、そこの誰かが消したと思ってる?』
「可能性を言ったまでだ。それにそこの集落に住んでいるようなことを言っていた若者にも会ったが……別段、不審なことはなくて」
サミュエルは電話の向こうで沈黙して聞いていたが小さく、ふぅん、とだけ呟いた。
『……仮にあの男が集落の誰かに既に殺されてた、とするよ? つまりはあの男の行いを思えば、集落の誰かに殺されて然るべき、ってことなんだよきっと』
そうであれば、それ以上踏み込む必要などない、とサミュエルは言外に含んだ言い方をした。
「なるほど」
『それにもともとトムと示し合わせて、クソ役人とギャングを一網打尽にする予定だったからさぁー。予定が狂ったけどイテツさん達に根切り部隊やってもらったし、当初に想定してた結果は得られたわけだから結果オーライなところはぶっちゃけある』
あとは閉鎖されてる岩塩採掘場の就業環境改善と、管理者として相応しい人間を配置できれば完璧なんだよね、とサムが言う。次はイテツがしばらく沈黙したあと、そうか、とだけ呟き、二人は少し言葉を交わしたあと通話を終了させる。
「……まだまだ後処理は多いな」
イテツはどこまでも突き抜けて青い空を見上げてため息をついた。
ところ変わって、観光しながら帰る予定が仕事になってしまったチーム・アヤメの残る二人、リーダーのアヤメとメンバーのタロウは、郊外の森の中に潜んでいた。
「……なんでもかんでも、要請を飲み過ぎなんじゃあねぇの? だから、断らない日本人、って便利に利用されちまうじゃあねぇかよ!」
声を潜めてタロウが文句を言う。配置についてからずーっと文句を言っていたが、隣のアヤメは聞き流している。
「コレだって、俺達がヨーロッパ経由するってバレた途端に来るしよォー」
「……まぁ、借りは作っておいて損は無いわよ」
ここでようやくアヤメが返事をする。ずっと喋りっぱなしのタロウが軽く片眉を上げた。
「こういう借りの積み重ねがいつか私達の命を救うわ」
「……そうかよ」
「そうよ」
本当なら都市でお買い物してたのにな、とタロウが呟き、構えていたライフルのスコープ覗く。あなた、お買い物ってタイプじゃないでしょ、と返しながらアヤメも双眼鏡を目にあてた。
二人は森の中に佇む、一軒の屋敷が監視できる位置についていた。ここに住んでいる自称発明家の発明品が、新兵器開発を早める恐れがある、というのでその動向を探りにきたのである。しかしすぐに動きがあるわけでもなく、ただただひとりの男の、しかも何の変哲もない生活を覗いている時間が流れていた。
しばらくの沈黙のあと、アヤメからタロウに声がかかる。
「……ずっと気になってたこと、今聞いてもいいかしら」
「ナンでも聞いてくれていいよ」
些か暇が過ぎるのもあり、タロウは投げやりに答える。
「あなた、なんで英語ができないフリしてるワケ?」
「!!?」
何でも聞けとは言ったが、彼の中で一番答えにくい内容が来るとは思っておらず、つい動揺してしまった。
「……バレ、てた、のかぁ……」
「私には、ね。……テツがどう思ってるかはわからないけど」
あの鉄仮面だし、と付け加えるとタロウは唸りながら呟いた。
「……そうかぁ……」
上官相手に問題を起こして自衛官を辞め、その後、単身渡航し傭兵業に身を置いていたタロウは、周囲の助けもあり語学と銃の扱いを習得していた。
生きて今ここにいることができているのは彼らのおかげ、彼らの存在があって自分がいる。しかし、それは同時に苦しみに苛まされる記憶も蘇る。
「……英語ができる、ってことはそうなるだけの背景があるとか……まぁそんなん。……それを説明できなくて、じゃあ最初からできないって事にしちまえばラクだろ、って思ってな」
「……私はもともと知ってるけど、それ、テツには話していないのね……」
「なんでもかんでも言やぁいい、ってことはねぇだろ。……きっと、テツだって隠してること山ほどあるだろうさ」
タロウの言葉に、アヤメはそれ以上は何も言わなかった。先程よりも重苦しい空気が二人にのしかかる。それを感じながら監視任務を続けていると、アヤメの携帯に連絡が入る。彼女は端的に受け答えし、すぐに電話を切った。
「……予定変更、対象は始末するわよ。行っちゃいけないところに営業に行ってる確証が出たから」
「……だから俺にライフル支給されたんだな。そういう可能性も読んでたわけか。……まぁ、そういうことなら指一本で終わりの仕事だわ」
逆にラクだね、と呟いたタロウは潜んでいた位置を変えるために動き出す。より、狙撃しやすく、確実に狙える場所へ。アヤメはタロウが狙撃に集中できるよう、周囲を警戒する。
銃声が一発。驚いた鳥が飛び立ち、ざわめきだった森はすぐ静まり返る。
遠く離れたところから、遠くが見える筒を覗き、右手の人差し指を動かすだけ。今日はそれで終わりだ。
「俺らはさぁ、何かが起きる前に動いて、何かが起きないようにすることしかできねぇんだわ。何かが起きちまったら、無力だよ」
タロウは使ったライフルを手際よく分解しケースに収めると、指定されたポイントの茂みに隠してその場を立ち去る。
「……でもあなたは『何かが起きた』その只中に身を置いて戦っていた人間よ。奪いもしたけど……救いもした」
「……そうだな」
アヤメの言いたいことはよくわかっている。あの時は、あの場所は、誰もが生きるために必死だっただけだ。
「……今回、こうなるってわかってたから、テツを別行動にしたのか?」
「……正直に言って、五分五分だったわ。偶然、彼がまだあっちで調査を続けたいって言ったから尊重したまで」
「……そうか」
こういった諜報機関の活動で、ある対象を消す、という仕事も無いことはなかった。もちろん、3人とも覚悟の上、行っている。主にライフルを使い、離れたところから行えるタロウに対し、イテツは、己の手を使う。奪う瞬間をその手を用いて見届ける。彼は表情を変えることなく、最後まで目を逸らさないのだ。
「……テツは覚悟が違うっていうか、ひとつひとつに向き合いすぎてる気がするっていうか。……俺はそんな覚悟がないから、感触を何も知らなくて済む方法を取って、やった実感なんか沸かなくて、今も何も感じないからこのままレストランで食事ができちまうんだ。唯一、使った人差し指だって、金属触ったくらいしかわからねぇ」
右手の人差し指を動かしながら、何事もなかったかのように言うタロウに、アヤメは私もそっち側よ、と呟いた。
「……私達がとうの昔に捨て去ったものを、彼は捨てずに抱えているのよ……」
人の心ってやつだろ、とタロウが返す。
「……まぁ、何でもお見通しのアヤメさんならもうご存知だと思うけど、テツがこういう仕事のあと……しばらく一切、食事しなくなるだろ……? 俺はそれが心配でよ……」
「……もちろん、私もそこが気がかりなの……」
割り切ってしまえばきっと少しはラクになれるのかもしれないが、イテツはそれをしない男だった。飲み込んだ苦しみを消化するまで、他のものは一切、口にしないようにしているのか。
「……かといって、敢えて触れないように私達で隠してしまうことは違うと思う。それは彼に対して、彼の覚悟に対しても失礼に値する行為だわ」
「……そうだな。……強い男で困るぜ、テツはよぉ」
「…だから私達は出会ったのよ」
「そうでした」
二人は森から都市部へと移動する。その途中でアヤメは現在南米にいるイテツに、当初の予定通り帰国する旨のメッセージを送った。しばらくして、イテツからも同じく予定通り帰国する、と返信がある。
「……テツも予定通りの便を使うそうよ」
「じゃあ、時間できたしお買い物して帰ろうぜ」
「……あなた、ほんとにお買い物したかったのね……」
何買うの、と聞かれてタロウは少し考えた後で、見ないとわからねぇだろ、と上機嫌に返す。
都市部では二人は別行動をした。集合場所と集合時間を決め、思い思いの方向へ足を進める。
タロウはガイドマップを広げ、街を見て回り、時に裏路地を通った。細い道を通り抜け、その先の小さな噴水がある広場に出る。人々がくつろぐ穏やかな時間が流れている。
さて、ここから先はどうしようかと考えていると、立ち止まっているタロウに女性がぶつかった。思わずスリに遭ったかと思い、財布の所在を確認するがそれは無事だった。女性が謝罪をしながらタロウを見上げる。美しい金の髪が揺れ、その下の蒼い瞳がタロウの黒い目を見つめた。
(……すっげー美人……)
女性はタロウを見上げたまま動きを止めているし、タロウはタロウでどう返せばいいか悩んだが、とりあえず自分もぼんやりと立ち止まっていたことを謝罪する。
「……いや、こちらこそ、ぼんやりしてて悪かったな」
地図を畳みながらポケットに突っ込むと、女性は柔らかく微笑む。顔にかかる髪を耳にかける仕草ひとつ取っても優雅だった。
「…やっぱり、シュガーちゃんよね。まさかこんなところにいるなんて思わなかったから、信じられなかったけど」
「……な、なんで」
自分の傭兵時代のふざけた偽名を知っているんだ、とタロウは驚きに固まる。偽名を考えるのが面倒で、姓が佐藤だから砂糖と読み替えて英語変換しただけの呼び名だ。しかも所属していた隊の中でちょっと流行り、調味料の偽名を名乗る人間が増えたという思い出付きで、正直、ろくでもない記憶しか出てこない。
(……こんな金髪碧眼美女、俺がいた隊にいなかったぞ……? 別の隊だったか……? いやでも、こんな美女いたら目立つよな……)
どうにも思い出せず、もしかしたら本当にシュガーっていう奴がいて、この女性が勘違いしているのかもしれない、とタロウは無理矢理に結論付ける。いや、人違いだろう、と返す前に女性が言った。
「……その様子だと、私がまだ誰か思い出せてないみたいね。じゃあ、ヒントよ。髪を切りに行くのが面倒で、あなたのバリカンを借りてたのは誰だったかしら」
「!」
まさか、とタロウが呟くと女性はにっこりと笑った。ちょっと短気で、面倒くさがりで、気が強く髪の短い女性の傭兵が。
「……リリィ、リリィなのか。あの……リリィ?」
どうも外見もピンと来ないし喋り方も大人しくなっていたから、にわかには信じ難いがバリカンのエピソードだと彼女以外は当てはまらない。
「そうよ、あのリリィ。よかった、思い出してくれて」
穏やかに微笑む彼女の笑顔は、記憶の彼女と全く重ならなかった。
「……元気、なんだな。いや、びっくりしすぎて何て返すのが妥当かわからなくなっちまった……」
リリィはタロウ達が所属していた大きな隊の解散が決まったとき、生き残った者達の再就職先を探してくれた一人でもあった。彼女に次の人生へと背中を押してもらっていた人間は多い。
「シュガーちゃんも元気そうで良かった。ここへは観光?」
「あぁ、そうだ。今は自由時間でな」
好き勝手ブラついてんのさ、と言えばリリィも同じだと言う。
「……まさか、テキトーに選んだ場所で昔々の仲間に会うとはな……。人生ってわかんねぇわ」
「ホントよねー。私だってたまたま休みが取れてたまたまここを選んだだけだもの」
そういって笑う彼女にタロウもつられて笑う。
「……今何してるとか、そういう詳しい事は聞かねぇ方がいいよな。俺たちは、傭兵業でなくなった瞬間から他人になったんだもんな」
「そうかもね。本当の名前も知らない、赤の他人だもの」
リリィはそう言うとタロウの後ろの方に視線を向ける。そして彼に対してもう一度、ポケットに入れた地図を広げるよう言った。タロウは、言われた通りに地図を取り出して広げる。リリィはまるで道案内をしているような仕草をしながら、タロウに話しかける。
「……私の方が時間切れね。あなたの元気そうな姿を見ることができて本当に良かった。……ねぇ、シュガーちゃん、これだけ言わせて。苦しい思いをしてきた分、これからのあなたは楽しい思いをして然るべきよ。だから」
あまり自分を責めないで、そういうと彼女はタロウから離れ歩き出した。その姿を目で追えば、どうやら待ち合わせ相手が現れたらしい。距離は遠いが、相手も相当な美形の男だとわかる。
去っていく姿を見送りながら、リリィに言われた事を反芻していた。
そして自覚する。自分の中でいつまでたっても消化できずに心の奥底に沈むものは、未だ形を変えることはないのだろう、と。
だが、彼女に会えたことで少しでも消化していこうという意志に影響を与えたのは確かだった。
「……ねーちゃん、なんか観光客に絡まれてた?」
オリヴェールが個人行動を終え、集合場所に向かうとリトゥヴァが大柄な男と地図を挟んで会話しているのが見えたのが気になった。しかしリトゥヴァは優雅に否定する。
「……いいえ、道を聞かれたから教えてただけよ。集合場所の広場を間違えたみたいで」
しかしオリヴェールは、腑に落ちない表情をしていた。そうやってナンパする口実だったのかも、と言えば、リトゥヴァは笑いながら否定する。
「あら、オーリィ心配しすぎじゃない? 私だってナンパ目的かそうじゃないくらいわかるわ」
大丈夫よ、と言えばオリヴェールは些か引っかかるようだが、ねーちゃんがそういうなら、と納得してみせた。
ヨーロッパで新たな仕事を押し付けられていた二人から、片付いた旨の連絡を受け取っていたイテツも、粗方、予定していた雑務は終わらせていた。
結局、例の役人の所在はわからず終いで生死の判断は付けられないままだった。しかしながら、岩塩採掘場については諜報機関の南米支部を通し、管理は集落の人間に委ねられるよう取り計らう。責任者を集落の長が引き継ぎ、それを支える役目の人間を数人指定し、経営方針に偏りが出ないよう外部の人間を入れる、ということで落ち着いた。
「……ということで、外部からの管理者はサミュエルに頼みたい。学校建設の出資者で名を連ねてるならいいだろ?」
『わぁ、仕事はやい』
数日前は役人のことだけ調査に入ると思っていたが、まさかそこまで手を回していたとは思わず、サミュエルは驚いたままを口にする。
「就業環境については、規律を明文化しておいた。これなら反すれば処罰があるっていう牽制にもなるしな」
『ほんと仕事はやい』
因みに外部管理者については自分が就任で問題ない、とサミュエルは返した。
『……延長して調査も就業環境の改善にも入ってくれてありがとう、テツさん』
「……いや、全然構わない。おれも気になっていたし、途中で投げ出せなかっただけだから」
これで引き上げる、とイテツは伝えて電話を切った。最後にひとつ思い浮かんだことがあり、実行するか一瞬迷ったようだったが、イテツは実行すべくその場所へ足を向けた。
そこは観光案内所のひとつで、彼が参加した秘境ツアーを取り扱っているところだ。数日前に担当してくれた青年、イグナシオがいるかを尋ねる。受付の男は胡散臭そうにイテツを見たが、奥に行きイグナシオを連れてきた。イテツは彼と外に出る。
「この間はありがとうございました。おれは明日、帰国するんですが、渡し忘れたものがありまして」
そう言ってイテツは折り畳まれた紙幣を数枚、イグナシオに渡す。彼はとても驚き受け取れない、と言っていたが、間にメモが挟まっていることに気が付いた。その様子にイテツはそこに自分の連絡先が書いてあることを伝える。
「……こう、客からの連絡先をもらうとか、規則に反しているなら捨ててもらって構いません。あなたとの話はとても興味深く面白かったのでそのお礼と、もしこれからも話相手になってくれるなら」
判断はおまかせします、と言いイグナシオからの答えは聞かずに立ち去った。
「……ベネガス、クレーマーか?」
イグナシオが事務所内に戻ると、受付の男が声をかける。いいや、違うよ、と返事をして彼は事務所の奥に入っていった。
改めて紙幣の間のメモ用紙を引き抜く。そこには丁寧な字で電話番号と名前が書かれていた。
「……イテツ・アンドウ……」
いつ連絡を取るかはわからないが、この縁も大事にしようと彼は思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます