第2話 豚野郎に岩塩
――おかけになった携帯電話は電源が切れているか、電波の届かないところに――
「……んん?」
抑揚のない機械音声にオリヴェールは眉を寄せた。生存確認と称して、友、トーマス・スミスはよくオリヴェールに電話をかけてくる。その彼にたまたま電話をかけてみたところ、全く繋がらない。
「……珍しいこともあるんだな……イギーのところの学校建設の進捗を聞きたかったんだけど」
出張でもしているのだろうか、と、このときは深く考えることはしなかった。
勝手に賭けの対象にされるわ、銃を持った狂った男に追いかけられるわ、散々な目にはあったが、それのおかげでイグナシオの住む集落では着々と新しい学校建設が進んでいる。中心になって動いているのは、オリヴェールの友というトーマス・スミスから依頼を受けた男だった。彼は英語の他にスペイン語も堪能で、会話にはまったく困らない。
今日も作業に入るはずだったのだが、現場は急に規制線が張られ入れなくなっている。トーマスから依頼を受けている男、サムは気になって近付いてみると、その前に太った男が立っていた。男は、この地方の役人だと名乗る。
「勝手なことをされては、秩序が乱れるだろうが! 」
顔を赤くして何やら喚き散らしている。サムはイグナシオを見つけると手招きをする。イグナシオはサムの横に立つと小さな声で話しかけた。
(……何事です?)
(……今日、突然やってきてこの有様だよ。あのデブ何なんだ?)
イグナシオはあの男がこの地方の役人の一人ということを説明した。しかし、役人とは名ばかりで、金にがめつく、自分の得になることでしか動かない。この辺りは良質な岩塩が採掘できることもあり、あの男は一帯の採掘場を手中に収め、微かな賃金で労働者を雇い働かせ、市場で高所得者向けに高額転売を行う。しかし、希少な現金収入故、その男に楯突いて収入が減ることを恐れる集落の人々は何もできないでいた。そして今以上に不利な条件を出され、余計に生活が苦しくなることも避けたいのだ。それを聞き、サムはふぅん、と呟いた。
恐らくは、ここの集落の人々に教育を受けさせたくないのだろう。頭の悪いチンケな役人でもうまい汁を啜れる場所をそのままにしておきたいという考えが透けて見える。
『緊急事態。至急、返答求む。 サム』
ポケットで唸りを上げた携帯電話を取り出し、画面の文字を目にした男、トーマス・スミスは特に返信する素振りは見せず、携帯電話を再びポケットへ戻そうとした。しかし近くにいる男がそれを目敏く見つけ、彼の携帯電話を奪い取る。
「…おいおい、トム。何だよ、このメール」
男はギャングの一人で、これ見よがしに周りの仲間にも聞こえるように文章を読み上げる。周囲にいる男達の空気がヒリつくのを感じた。トムは大きくため息をつき、携帯電話を返すよう求める。
「……それは、女が俺に会いたいって意味のメールだ。この文章なら浮気だって思われないだろ?」
俺は賢いからな、と付け加え、もう一度、携帯電話を返すよう求める。彼の携帯電話を持っている男は今度はそれに応じた。トムに向かって携帯電話を投げながら言う。
「紛らわしい文面にするなって女に言っておけよ」
「……ふん、バカだな。だからいいんじゃないか。他に女がいるってバレないなら、それは他に女はいないと同義になる」
携帯電話を受け取ったところで、トムが男に対し、意味わかるか?とこれみよがしに頭を傾げて見せた。煽られたと感じたギャングは何やら頭にきたような反応を見せたが、その怒りが言葉として出ることはなかった。
「他にも示し合わせて作った暗号として例文があるが、教えといてやろうか? あんたも他に女を囲うときに使うといい」
トムがニヤリと笑いながら言うと、相手のギャングは何か言おうと口を開いたが、すぐボスと呼ばれる男に遮られた。お前ら、遊んでいる場合ではない、と。
「デカい取引前に随分と余裕そうだな。チンケな地方のお役人だが、俺達の良いように動いてくれるやつなんだ、大事にしてやらなきゃならねぇ」
目の前に現れた男を見て、トーマスは豚を思い出す。私利私欲にまみれたとよくわかる、肥えた身体を揺らしてくる様は実に醜い。その顔に貼り付いた笑顔は、己の私欲がまた肥えると確信しているからなのだろう。
「……あー、その男ねぇー。イグナシオくんのところにも現れたよ。やっぱりギャングと通じてたんだねぇ」
サムがとあるホテルのベッドでゴロゴロ転がりながら、のんびりと言うと同じベッドに腰掛けているトムが小さく唸る。
「…そっちの学校建設も邪魔し始めるとはな……。都市部の方ではギャング達の薬物取引を容認する代わりに、なかなかの金額を得ているクソだ。こういうのは潰したところで代わりはいくらでも出てくるが……」
ここで言葉を切り、ベッドで転がるサムを見た。
「……なに?」
「……連絡のタイミングが最悪だっただけ。メッセージを連中に読み上げられたときは肝が冷えたぞ。…女からの暗号メッセージだって誤魔化すハメになるし、しかも本当かどうかギャング共につけられてたからな……だからラブホテル選ぶしかなかったとはいえ……」
明日から俺は連中に男とラブホ入ったって知れ渡るんだ、と乾いた笑いと共に呟いた。
「……女、と断言してあれだけ煽っておきながら実際は男と一緒にって俺のイメージよ……」
「まー、別にそれは仕方ないじゃん? それに俺とホントに寝たわけじゃないしさー」
「……簡単に言ってくれるなぁ……」
それはさておき、と今まで転がっていたサムが身体を起こしてベッドの上で座り直した。
そこで二人はこれからのことについて話を詰めることになる。トーマスは表向きは新聞記者だが、実のところアメリカの諜報機関に所属している。これを知る者は彼の勤務先にはいない。こういった潜入捜査は長期出張という名目で、実際の取材はまた別の諜報員が埋め合わせている。それか、全く関係ないフリーランスの、まさしく友人のオリヴェールに詳細を知らせず依頼したりする。
サム、ことサミュエル・テイラーも同じ諜報機関の所属だ。イグナシオの学校建設の出資者ゆえの進捗確認という名目で来ている。その実、出入りしている役人が悪事に身を染めているという情報を得たので調査を兼ねていた。
そうでなければトーマスとしては、イグナシオのためにもオリヴェールを呼びたかった。全く知らない人間よりもきっと気が楽だったのではないか、と思う。
「……ところで、イギーは元気か?」
「……んー、まぁまぁ普通、ってところじゃない? ただ、期待していた人間じゃなかったのか、初日に俺を見たときの反応がちょっと気になったかな。……なんて説明したの?」
「……いや、はっきり説明しなかった、というが正しいか……」
学校建設の件、イグナシオはてっきりオリヴェールも同行してくる、と思っていたらしい。
「あぁー期待させちゃった分、申し訳無さを感じているワケねー」
そりゃあの反応になるか、とサミュエルが言うとトーマスは言葉を詰まらせた。この件が終わったらちゃんと謝っておいたほうがいいことをサミュエルは付け加えると本業の話に戻る。
実際のところ、ギャング潜入捜査をトーマスが行い地元警察の一斉検挙の手助けをしている。そしてサミュエルはギャングと繋がる汚職役人の失墜に動くとなると、イグナシオ達の集落をカバーしきれなくなるという状態だった。まだ本格的に汚職役人を相手に動いていないサミュエルだが、これからはそちらの配分が多くなっていくのだろう。やはり人手が足りなくなるのは明白である。
「……こうなっては、最終手段があるんだが……」
対応は早い方がいい、とトーマスは電源を落としていたもう一方の携帯電話を使った。サミュエルは、最初からそうすれば良かったのに、と言いたげにため息をついてみせた。
金髪碧眼で色白長身の美人が、ついに南米の砂漠にあるオアシスを中心に発展した小さな町に立った。
「…………」
どこまでも突き抜ける青空と赤茶色の大地に挟まれ、強烈な太陽光に刺し貫かれ、その美人は既に限界ギリギリである。
太陽光の刺さる南米の砂漠より、北欧の雪原の煌めきのほうが遥かに似合うであろう美人こと、オリヴェール・マケラの体力はもはや無いに等しい。
心なしか息苦しいし、目眩もする。長期の移動で疲れているところにこの環境のせいだろう、と思い、オリヴェールは予約のホテルへ向かった。荷物を放り出しベッドに飛び込む。
約束の日時は3日後、今イグナシオのところで手伝っている男が迎えにくるらしい。
「……トムの野郎……急に呼び出しやがって……!」
文句を言いながらも、結局承諾してしまうのは、古くからの友の頼みと新たな友の再会が待っているからである。
せっかくなので、明日はちょっと町を見て回ろうと思い、今日はもう眠りにつくことにした。
寝ても覚めてもあまり体調は変わらなかった。時差ボケしているのかもしれない、と無理のない範囲で町を見て回る。売店で水と簡易食を買っておく。飲食店に入る元気は出なかった。体調が戻らずげんなりしたまま、約束の日を迎える。
宿泊先に一人の男が訪ねてきた。男はオリヴェールにトムの知人だと言う。
「はじめまして、マケラさん。サミュエル・テイラーと申します。トム……トーマス・スミスから詳細は伺っているかと思いますが」
「……あ、あぁ、聞いてるよ。どうもよろしく」
「……随分、顔色よろしくないようで……?」
サミュエルは力なく握手するオリヴェールを心配そうに気遣う。オリヴェールは、長旅とこの日差しで参ってるかも、と呟いた。
「……時差ボケも抜けてないみたいで……」
「そうですか。まぁ、我々の主な仕事は出資者ゆえの視察、という名目で目を光らせることですが……あまり無理はなさらないように」
そう言うとオリヴェールと共にバス乗り場へ向かった。長距離バスに乗り込み、数時間移動した後、朽ちかけたバス停の痕跡のような場所で降りる。
「……すみませんねぇ、ここから歩きなんですよ」
そう言って延々と続くなだらかな登り坂を示され、オリヴェールは意識が飛ぶかと思った。
ゼェゼェ、と息を切らしながら歩き続けていると、開けた視界にポツリポツリと家が建っているのが見える。サミュエルは振り返り、集落に着きましたよ、とオリヴェールを労ったが、その声に反応できないほど彼はもう限界を迎えていた。
足を止めた瞬間、胃から込み上げてくるものがある。それを抑えきれず、オリヴェール嘔吐し、力なく崩れ落ちる。意識が遠のく寸前、自分の名前が呼ばれたような気がした。
「…………」
オリヴェールは意識を取り戻し、ゆっくり目を開ける。頭が痛いし気持ち悪いのは治まっていないが、屋内に寝かされていることだけはわかった。視線を動かすと、近くに見知った顔がある。目が合うと彼は安堵した表情になった。
「……イギー……?」
「ハイ、そうデスよ。気分はどうデスか、おりサン」
「……めっちゃ気持ち悪い……頭イテェ……」
「……お水、飲めマス?」
「…………ちょっとムリ」
「飲めソウならここにありマスから。ワタシ、ちょっとお外いますね」
そう伝え、彼は外へ出ていった。オリヴェールは自分のあまりに情けない姿に本気で泣きたくなった。手伝いにきたのに、何もできず、横たわるだけとは、と。
外に出ると、サミュエルが家の入口辺りでイグナシオを待っていた。様子を聞くと、だいぶ参っているようだとイグナシオが言う。
「……どうも高山病みたいですね。急に標高の高いところに来たから、耐えられなかったんだと思います」
「…下の町で3日滞在しても慣れなかったようだね……」
サミュエルは家の中を覗きながら心配そうに呟く。
「……それに、君も付きっきりで看病していられないだろう?」
「……まぁ、それはそうなんですけど」
イグナシオもそこが気掛かりだった。数日後には、別の町で僻地観光のツアーガイドをすることになっている。距離もあるので行き来していられず、何日もその町に滞在しなければならない。
「……そこは信頼と安心の妹に任せましょう」
留学先のカナダから帰ってきている妹は、英語が堪能だという。その彼女ならきっと大丈夫、とイグナシオは言った。
こうして些かの不安が残りつつも、サミュエルはオリヴェールとバトンタッチし、集落から去っていった。
気が付けば何日か過ぎていたらしい。だいぶ頭痛も取れてきたオリヴェールは、そろそろ動きださなければ、と身体を起こす。急に動いたせいか歪む視界に対抗していると、近付いてくる気配を感じた。恐らくはイグナシオだろうと思い名を呼ぶ。だが、返ってきたのは彼の思っている返事ではなかった。
「……んだよ、兄貴を馴れ馴れしい呼び方すんな」
「!?」
刺々しい女性の英語が耳に刺さる。恐る恐る顔を向ければ、腕を組んでこちらを厳しい視線で見下ろしている女性が立っていた。顔立ちがイグナシオによく似ていて、凛々しい印象を受ける。
「……あたしはマリエラ、マリエラ・ベネガス。イグナシオはあたしの兄貴。兄貴がいない間アンタの面倒をみる役目になったンだよ」
「…イギーが、いないというのは何故」
そこまで言ったところで、マリエラに顔横の壁を叩かれる。
「!?」
「……さっき、言ったよな。兄貴を馴れ馴れしい呼び方すんなって。特に、あたしの前では」
「……ハイ」
勢いに押され、小さく返事を返すしかないオリヴェールに対し、マリエラはきつい口調のまま畳み掛ける。
「……それにあたしを呼ぶときはベネガスって呼びな。名前で呼んだらぶっ殺すぞ」
「……ハイ」
その小さな返事を聞き、マリエラは壁から手を離す。用があったら呼びな、無かったら呼ぶな、そう言い残し、彼女は部屋を出ていった。その勢いに、オリヴェールはもう体調が悪いだのなんだのと言っていられなくなってしまった。
聞けば、イグナシオ別の町に観光ガイドの仕事に出たようだ。定期的に数日から1週間ほど不在になるらしい。その間、通訳兼世話係となったのが彼の妹のマリエラだった。マリエラの英語は流暢でとても聞きやすかった。オリヴェールに対する口の悪さを除けば。
(……相当な勢いで嫌われてンな……)
目が合えば睨まれるし、話しかければ怒られる。しかし行動を見ていれば、他者を重んじる優しい性格というのはよくわかる。英語でオリヴェールに話すときはキツイ言い方だが、スペイン語を使っているときは穏やかそうな響きだった。
(……イギーの妹だな)
とくに、笑うと本当にそっくりだと思う。
動けるようになってから、オリヴェールは積極的に集落の人々と関わろうとした。その都度マリエラに通訳を頼み、罵倒されながらも行動を共にする。例の豚のようなと形容される役人が邪魔をしに来たとき、対抗できる方法も模索していたが。
「……奴はたまーにやってきて、学校建設を邪魔しようとするんだ。何日も居座ってよ。でも、その都度、今までいた男が何か握らせて追い返してた」
あれ、カネなんだろ、と忌々しそうにマリエラは呟く。どうやら、サムは役人に邪魔される度に金を握らせて追い返していたらしい。訪れる回数の割に大きな実害はないところから察するに、男は小遣い稼ぎにもってこいの場所だと学習してしまったようだ。
「……しかし、その方法は……」
オリヴェールにはできない。いくら握らせれば満足する額かわからない上、そもそも現金をあまり持ち合わせていないのだ。
「……ま、アンタにゃ期待してねぇよ」
カネ持ってないの知ってるし、とマリエラは言うと家の中に入っていった。取り残され、オリヴェールはそーなんだよなー、と呟くしかできない。
結局、いい考えなど浮かぶ筈もなく、準備できていないところに例の役人が来てしまった。
豚のような、と形容されるのがよくわかるほど醜く肥えた身体を揺らし、ゼェゼェと息を切らし汗を大量にかきながら集落へやってくる。そして何事かを喚き、従えてきた者たちがあっという間に建設現場を封鎖していく。
後から駆けつけたマリエラは、オリヴェールの隣に立ち、男の言っていることを通訳していく。ただただ理不尽な言い分を聞かされ、オリヴェールは怒りが込み上げてくるがどうしようもできない。
しばらくして役人は、周囲を見渡し誰かを探しているようだった。恐らくはここまで
そこでようやくオリヴェールに気が付いたようだった。何やらニヤニヤと下品な笑みを浮かべている。
「……アンタ、目ェ付けられたな。まぁ、そんだけ目立つ美人なら仕方ないか」
「どういう意味だよ」
「言葉の通りだよ。アンタ見た目いいから、観賞用になれって豚野郎が。いつもの報酬より価値があるって」
「死ね豚野郎」
嫌悪を顕わにして吐き捨てる。しかし男は大層オリヴェールの容姿が気に入ったようで、その表情すら褒め称えているらしい。
オリヴェールの前にマリエラが立ち塞がり、男と何やら口論を始めてしまった。オリヴェールは二人が何を言い争っているのか理解が追い付かず困っていると、丁度、イグナシオが観光ツアーガイドの仕事から帰宅する。
そしてマリエラと役人の睨み合いを目撃し、オリヴェールの元へ駆け寄るとぐいぐい腕を引き二人から離れるよう言った。
「……ワタシがいない間に、ご迷惑ゴメンナサイ」
「いや、いいんだ。……なんかよくわからんが豚野郎が言ったことにイギーの妹が反応して……」
あの状況なんだよ、と指し示す。イグナシオが男の姿を確認すると、彼の身体は見るからに緊張した。オリヴェールを掴む手が震えている。
常ならざる様子に疑問を感じていると、男もオリヴェールの後ろにいるイグナシオに気が付いたようで、また下品な笑みを向けてきた。
「…野郎!」
マリエラが英語で吠える。
「……兄貴を見るんじゃねぇ! マケラ、絶対に兄貴を野郎の視界に入れんな!」
「……何が、どういうことなんだよ」
イグナシオ背後に隠すようにして立ち、マリエラに向かって言うと、彼女は歯これでもかと食いしばり、己の怒りを抑えようとしている。言葉を食いしばった歯の隙間から押し出すように、オリヴェールにだけ聞こえる声で苦しみを吐き出す。
「……兄貴は、野郎の岩塩採掘場で働かされてる時に……酷い目に遭ってきた……でも、あたしの学費の為に……耐えてたんだぞ……! それをまた思い出させるなんて」
マリエラの言いかけた言葉が止まる。オリヴェールが静かに彼女の言葉の先を制したからだ。あとは身体が自然に動いていた。下品な笑顔で何かを得意気に話している役人の顔面に、オリヴェールの右の拳が飛んだ。
役人は鼻血を出し、ゴロゴロ転がってなにか喚いている。オリヴェールの突然の行動に誰もが目を丸くしていた。
「……ってぇ〜! 初めて人間を素手で殴ったわ」
思ったより固いんだな、と転がる男を見下ろしながら言う。
「……おりサン!」
「野郎が何を言ってたかよく分からなかったが、野郎を殴っていい事だけは分かった」
思ったより痛かった右手を擦りながら言うと、足元の男はオリヴェールに向かって何か言っている。イグナシオもマリエラも通訳をしなかったが、きっと罵詈雑言なのだろう、とオリヴェールは推測していた。イグナシオが怒りに震えるところを見ると、その推測は外れていないようだ。
すると黙って立っていたマリエラが、すっ、と役人に向かって進み出る。そしてしゃがむと役人の肩に軽く手を置き、一言二言、言葉を発した。そして、いきなりその顔面を殴りつける。しかも一度や二度では済まなかった。何度も何度も拳を振るい続ける。突然のことに固まっていたオリヴェールとイグナシオは我に返り、慌ててマリエラを止めに入る。
「……いくらなんでも、それ以上は、死んじゃうだろ、待て、落ち着け、ベネガスさん!」
「マリー、マリー!」
二人が引き離すと、マリエラはゆっくりと立ち上がり、とても冷静な口調でちょっと手を洗ってくる、と言い家の方へ向かった。しばらくして彼女は戻ってくると、これみよがしに周囲へ叫んだ。しかも棒読みで。
「……たーいへーん。お役人さんが大ケガしてるー。そういえばさっき揉めてたよねー。美人がなんか殴りつけてたよねー。あんな美人、目立つからすぐ捕まっちゃうと思うけどー」
スペイン語でそう叫んだあと、オリヴェールにだけ聞こえる声で英語を話す。
「……あの男をぶん殴って大ケガさせたのはアンタ。アンタがやったことになったから、今すぐ逃げな。そういうことにした責任もあるし、あたしが空港まで送っていってやる」
「……な、なんだって……?」
急展開すぎて理解が追いついていないオリヴェールをグイグイと引っ張り、集落から出ていこうとする。
「……その足であたしも一旦、留学生のカナダへ飛ぶ。詳しいことは道中、説明してやるよ。兄貴の過去も、知りたきゃ話してやるし……」
さっさと来な、と容赦なくオリヴェールを引っ張っていった。
「おにーちゃん! 私、大学に戻るけど、また連絡するから心配しないでー!」
オリヴェールを引っ張りながら、マリエラはイグナシオに向かって叫び手を振った。
「……あ、あぁ。マリー、気を付けて、勉強頑張ってな」
イグナシオも動揺しながらも手を振り返し、二人を見送る。
「……ウゥ…………」
しばらくして、役人は目を覚ました。小娘に顔面を殴られ続けたところまで記憶はある。あれは野外だったが、今はどうやら屋内に運び込まれているらしい。
粗末なベッドに寝かされ、顔は手当されているようだ。ちょっとでも表情を動かそうとすれば痛みに襲われる。見た目のいい外国人とあの小娘だけは絶対に許さないと心に決めていると、この家の夫婦が男の前に現れ、彼のいるベッドの側で深々と頭を下げ謝罪をした。
娘のご無礼をお許しください。
子の不始末は親の不始末、責任を取らせていただきます。
何でもお命じください。
そういって頭を下げたままの二人を見て、男には良からぬ考えが浮かんでくる。利用するだけ利用してやろう、と。何でも、というなら何でも聞いてもらわなければなるまい、と。
たまには欲を発散する手伝いでもしてもらいたいとあからさまに言えば、女性は何なりとお申し付けください、とやはり深々頭を下げ、どうぞこちらへ、と役人を促した。
奥の部屋に入り、その向こう扉の前で男を待つ。さぁ、こちらです、と女性はドアを勢いよく開けた。男の前には何もない開けた大地が、遥か眼下に見えている。
男が崖っぷちに立たされていると気が付くまでに少し時間を要した。どういうことだと振り返ろうとすると、先程の夫婦は男の後ろで穏やかな笑みを浮かべている。
子の不始末は親の不始末。
私達が完遂せねばなりません。でも大丈夫です、お役人さま。あなた一人ここから落ちても、何も変化は生じません。
いなくなったことすら、認識されないことでしょう。
たった一人で、こんな山奥に来てしまわれたのだから。
二人は、役人の背中に軽く触れた。男は抵抗することなく、ただ重力に従うだけだった。
そして中断していた建設は、主導していた役人がいつの間にかいなくなっていたことで、何事もなかったかのように再開されていく。
『御社とのご契約内容を確認したいので、弊社までご足労いただけませんでしょうか サム』
トーマスの携帯電話が振動すると、ギャングの一人はそれを奪い音読する。今度のは何なんだよ、と再び詰め寄り、トーマスはため息をつきながら前のように解説をしてやることにした。
「……言ったろ、遊び相手との暗号文だって。これは家に来て、って意味だよ」
前回のこともあるので、敢えて性別に言及しなかった。しかしこれまたメールが来たタイミングが悪い。ここのギャングと通じていた悪徳役人がぱったり姿を見せなくなっているため、かなり緊迫した空気感が漂っているからだ。奴の口利きで商売の場が増えていたため、ギャングからしたら確実な稼ぎの場がなくなっている。中には減った分を取り返そうと無理をして、警察に捕まった者までいた。
(……早い、展開が早すぎる……。こっちの準備ができていないのに)
このままでは当初の予定に反し、一斉検挙の前に組織の重要人物達が身の安全を優先して姿をくらませてしまう。
(……やっとここまで来て、計画が潰れるのは勘弁だぜ)
トーマスはサミュエルの指定場所に急いで向かう。サミュエルが南米に滞在する間、借りている安アパートまで来た。今回は尾行を撒くことに成功する。
「……やばい、やばいぞサム! 展開が急すぎる! せっかく入り込んで組織の重要人物ごと一網打尽のハズが、組織そのものの足並みが乱れてきてる…。このままじゃバラけて全員捕まえるどころじゃなくなっちまうぜ!」
「……それはこっちも同じだよ! 例のクソ役人、行方不明になっちゃったんだから!」
「なんだと!?」
家族から捜索願を出され、事件と事故の両面から捜査をすることになったという。もし、組織の重要人物達が先に逃げ隠れしてしまい、役人が見つからなければまた組織壊滅計画は振り出しに戻る。長い間準備してようやくここまできたのだから、取り逃がすわけにはいかない。最悪、役人自体はみつからなくとも、先に組織の人間を圧えてしまえばいい。
「……こうなったら予定はかなり早まったが、根切り部隊入れるしかねぇ」
それで一網打尽にしてやる、とトーマスは諜報機関の上司に連絡をした。事情を話すと、上司も電話の向こうで困ったように唸っている。
『……仕事早すぎない? 今は根切り部隊で行けるチーム、ほとんど出払っちゃってるんだけど』
「……ウワー、慢性的人手不足!」
『トムの件、こうなったらさっさと消しちゃおうか。……たまたまこっち方面に出てきてる他国チームの応援で良ければ手配できるよ』
「お願いしますチーフ」
しばらくの沈黙のあと、彼の上司は再び話し始める。
『…応援は日本のアヤメ・セタのチーム手配したから。知り合いだからちょうどいいだろ? 明日、現地集合でよろしく』
「……アヤメチームかぁ……。あ、いや…ありがとうございます、チーフ」
ため息を一つ、それから電話を切ったトーマスはサミュエルと最後の大仕事の準備をしようと動き出す。サミュエルとしてはなぜトーマスがあまり気乗りしていないのか分からなかったが、現地で合流したアヤメという日本人女性が率いるチームメンバーと協力したことでその理由がよくわかった。
彼女たちは何も残さないスタイルのチームだった。
全てが終わったあと、振り返れば突入したハズの建物すらなくなっていた。アヤメが率いるチームはきっちりと片付けを行い、既に人知れず去っていたのである。
「……ニンジャの末裔とか冗談でよく言ってる奴いるけど、これ見ちゃうとそう言いたくなるのわかるな……」
サミュエルは改めて更地になったところを眺めて呟いた。隣のトーマスに至っては、無言のままだった。
トーマスとサミュエルが後片付けする手間が省けていた頃、オリヴェールは帰国していた。
結局、俺は何しに行ってたんだ、というどこか釈然としない気分が続いている。しかも、男を殴った右手の痛みが引かず、腫れていることもあり病院で検査したところ、小指と薬指が骨折していたことがわかった。医者にはしっかり『何か』殴ったことが原因だとバレている。曖昧な言い方をしたが、おそらく人間を殴ったことは筒抜けなのだろう。
いわゆる、ボクサー骨折というもので、素人が何かを殴ったとき、だいたいこの部分に怪我をするらしい。
利き手の指を2本骨折したことにより、日常生活は不便極まりなかった。コーヒー1杯淹れるのだって一苦労だ。
「…………」
なんとか淹れたコーヒーをすすりながら、マリエラとの会話を思い出していた。
マリエラが兄であるイグナシオに対し、他者からすれば異様に感じるほどの態度にはしっかりと理由があったのだった。
『…学校に通うのはマリエラ、僕は働く。二人で通うだけの学費を出したら、……家族が生きていくことができないよ』
当時、マリエラは寝たふりをして、兄が両親に話す言葉を聞いていた。この日のことは今でも忘れられないという。何も知らないふりをして、学校に通うこと。兄の想いを台無しにしないで勉強を頑張って、今度は自分が兄を助けるのだと、一層、勉学に励んだ。
しかし自分の進学が、兄を苦しみに追いやっていたなんて、と言いかけたとき、オリヴェールはその先を制した。
それ以上、言葉にしなくても言いことを伝える。言う事で晴れる苦しみもあれば、そうでないものもある。きっとこれは後者だ、と。言う程に己を責めることになってはいけないと伝えると、彼女は、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない、と小さく呟いた。
「……兄貴の過去は、知らなくていいのかよ」
「…………」
確かにそこは気になっていた。あの男を見た反応を考えると、ただならぬ事態に陥っていたのかもしれない。
「……そうだな、それは確かに本音を言うと知りたいと思っているしすごい気になってる。でも、それを身内のベネガスさんから聞くのは……フェアじゃない気がする」
うまくいえないけど、と腕を組んで唸りながらオリヴェールは言った。
「……だから、それは急がない。気にかけてくれてありがとう、ベネガスさん」
本当に世話になった、と礼を言い握手を求めると、マリエラは素直に握手をした。
「……マリエラ、でいいよ。それに兄貴の事も呼びやすいように呼びなよ。……ずっと感じワリィ態度で悪かったな」
ぎこちない謝罪に、オリヴェール気にしなくていい、と笑顔で返した。そしてひとつ気になっていたことがあり、それだけ聞いておきたい、とマリエラに言う。
「……そういえば、マリエラがクソ役人をぶん殴る前、何か言ったろ? スペイン語だからわからなくて。あれは何だったんだ?」
そう尋ねると、握手したままのマリエラが固まる。もう一度声をかけると、少し慌てたようにオリヴェールの手を離すと少し距離を取り、最初の頃のような刺々しい態度になってしまった。
「言わねぇ、ぜってー言わねぇ。アンタに言うべき言葉じゃないから絶対に言わねぇからな!」
「……そ、そうなのか……?」
「……前言撤回、あたしの名前を呼ぶんじゃねぇ。兄貴の事も馴れ馴れしい呼び方すんじゃねぇ! 国に帰れ! アンタはあっち! じゃあな!」
そういうとズンズンと力強い足取りで、マリエラは自分が乗るべき飛行機のあるゲートへ消えていったのだった。最後に怒らせたのはまずかったか、と反省し、オリヴェール自分が乗るべき飛行機の方へ向かう。
「私の大事な人達の分も、受け止められるわよね」
男を殴る前に、マリエラそう囁いた。イグナシオはもちろん、オリヴェールも自分の大切な人という枠に入れた瞬間だった。しかし、これは決して本人に直接言えたものではない。
照れ隠しにしては少々、乱暴だったかな、と帰りの機内で人知れず反省していたマリエラだった。
もちろん、怒鳴られて別れたオリヴェールは知る由もない。
オリヴェールがそんな思い出に浸っていると、玄関のチャイムを鳴らす音がした。オリヴェールが出迎えるまでもなく、鍵が開けられる音がして長身の美女が遠慮なく家に入ってくる。
「……ねーちゃん、来てくれて助かったよ」
訪れた金髪碧眼の美女はオリヴェールの姉だった。長い髪をかき上げ、オリヴェールの右手を見て、我慢できず笑い声を上げた。
「……ほんとに、人を殴って、指を折ったの……! あっ、ははは。デブでブヨブヨしてるからいけると思った? 忘れちゃ駄目よ、頭蓋骨があることを」
「…………」
彼女はひとしきり笑うと、改めてオリヴェールに向き直る。笑ったことを謝罪し、詳しくは聞かないけど、と前置きをしてその右手を両手で包んだ。
「あなたが人を素手で殴るなんて、余程のことだったんでしょう?」
「……まぁ、そう」
歯切れ悪く肯定すると、オリヴェールの姉は大丈夫よ、と言って彼に微笑んだ。
「……困ったことがあったら、いつでも言いなさい。今回みたいな、ケガでもなんでもいいから。あなたのために駆けつけられる、ただ一人の家族だもの」
「……ありがとう、ねーちゃん」
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