Noトラブル!Noライフ!

とりのめ

第1話 異国を走れば厄介に当たる

「自己紹介がまだだったな、俺はオリヴェール。オリヴェール・マケラだ」


「……はぁ、そデスか。よろしくですネ、でも今はそんなジョータイ違います」


「…………」


 オリヴェール、と名乗った男はそれもそうだ、と現実逃避から帰ってくる。横にいるもう一人の男は、大きくため息を吐くだけだった。


 机と椅子のバリケードの後ろに隠れ、飛び交う銃弾から二人は身を隠している。ここはもともと、有名なファストフード店だったが、突然始まった銃の乱射事件で地獄と化していた。


「……んー、ナンでこうなっちゃったんデショウねー」


 オリヴェールの横で、男は持っていたハンバーガーを食べ始める。あの一瞬の間にしっかりハンバーガーも掴んで避難していたことに驚くしかない。そしてオリヴェールの食べかけは既に鉛玉のトッピングが施されていた。


「……俺も知りたいね……」


 旅行ついでに仕事のネタを掴もう、なんて欲張ったからなのかもしれない。プライベートとビジネスはしっかり分けるべきだな、と銃声を聞きながら学習する羽目になるとは誰も予想できないものだ。


 * * *


 南米アンデス山脈が連なる一帯には、古くからの暮らしを続けている少数民族がいる。オアシスの貴重な水源と共に集落が点在し、慎ましい暮らしを送っていた。


 イグナシオ・ベネガスもその一人である。生まれも育ちも赤茶色の大地が続く荒野の中だ。標高3000mを超える高地で毎日逞しく生活している。


 実家ではアルパカやラマなどを育て、毛を刈ることを生業としている。これらの毛を使った製品は高級品とは言われるが、業者によって安く買い叩かれてしまうことも多い。イグナシオは少しでも家族の助けになれば、と山を降りた先にある小さな村で観光客のガイドをする仕事を始めた。昨今の秘境ブームで仕事には困らないし、様々な情報を得られる。


 情報は集落に持ち帰り、共有する。外の知識を得ることで、生活をより良くできないかと考えていく。


 彼のように各集落を豊かにしたいと望む勤勉な若者たちにより、荒野の生活にも少しずつ余裕が見えるようになってきた。


「マラソン大会、デスか?」


 いつものように秘境ツアーのガイドをしていると、一人の観光客に声をかけられた。君のように身体能力が優れているなら稼げるかもしれない、と。


「…あぁ、だが普通のマラソン大会なんかじゃあないぜ。山々の尾根を辿って300kmくらいをほぼ休みなしで行くんだ。上位には賞金が出るが……なかなかクレイジーなレースでさ」


 賞金の金額をざっと知らされ、イグナシオは思わず興味が沸く。彼の目の色が変わったことは観光客にもわかった。


「普通のレースじゃ争う相手が多すぎるが、ここなら相手の数はぐっと減るんだ。意識を向けるのはエリート層だけでいい、そんなに大勢いないよ。ここで出会ったのは何かの縁だ、俺は君に賭けてみたいんだよね」


 これ、連絡先だよ、と観光客はチップの間に紙切れを挟んでイグナシオのポケットにねじ込んだ。その後は特に接触することなく、ツアーは終了する。


 帰宅してから、イグナシオは改めてその紙切れに書かれた電話番号を眺める。どう考えても胡散臭い話だ。自分が賭けの対象になるらしい、ということはわかった。この口約束を信じていいものか、本当に金は手に入るのか、心配は尽きない。もしかしたら利用されるだけされて、金は手に入らないのかもしれないという可能性だって拭いきれないからだ。


 しかしこれだけの金額があれば、学校をひとつ建てることができる。近くに学校ができれば、子ども達は何時間もかけて危険な山道を通学しなくて済む。


 未来の子ども達の為ならば。


 イグナシオの心は決まった。


 ところ変わって、ここはフィンランドのある田舎町、薄暗く古びた一軒家に住むフリーランスの記者であるオリヴェール・マケラの携帯電話に珍しく着信があった。彼の携帯電話の鳴らす者など限られている。


「……久しぶりだな」


『オーリ、元気か? 元・同期だし、定期的に生存確認はしておかないといけないな、って思って電話してみたが…何だ、意外に元気そうだな』


「……おーおー、元気だよ元気元気」


 投げやりにそう応えると、電話相手は良かったな、と返してくる。何の用かと問えば、本題が別にあるんだと言われ、詳細を言うよう促すと、相手は声のトーンを少し落として話し出す。


『……ひとつ、取材に行かないか?』


「……取材?」


『あぁ、俺が個人的に気になってたネタがあるんだけど、チャンス到来したっていうのに肝心の俺が行けないんだ…! そこで、信頼と実績のフリーランス、オーリに俺の代わりに行ってきて欲しいんだよ。頼むよー報酬はちゃんと出るからさー』


「そりゃあいいけどよ、お前が追ってたのに急に俺が代わって務まるか?」


『大丈夫だと思うぞ、思う。うん多分、いけるハズ』


 そのはっきりしない態度に些か不安は過ったが、せっかくの仕事のチャンスを逃す手はない。オリヴェールは受けることを決めた。


「……んで、お前は何を追いかけていたんだよ」


 引き受けるからには詳細を知らなければならない。内心は厄介じゃないといいんだけどな、という思いが占めている。


『中米から南米アンデス山脈にかけて暮らしているといわれている少数民族の話は聞いたことあるか?』


「……? いや、よく知らないな」


 その辺りの地域で知っていることといえば、かつてマヤ文明やインカ帝国があって、スペインの征服により滅んだという事実くらいである。


『…スペインの征服で滅びを迎えたとき、争わずに山奥の方へ逃げ延びた人々がいるらしいんだ。そして現在まで人知れず生活を続けているそうだ。高地で生活を続けているから身体能力は優れている、とか、噂話のようなものしかないし、正確な集落の場所だってわかっていない。


 どんな生活をしているのかとか、それこそ基本的な食生活とか文化的な面とか。あとは埋葬方法なんか知ることができたらもっといいな! 死に対する考え方ってそのそれぞれの文化独自のものだからこそ、そこに生きる人々の考え方に通ずる訳で…どうだ、なかなか興味深い話だろ?』


「……んあー、ウン」


 思った以上に熱く語られ、若干引き気味のオリヴェールは、とりあえず返事をして続きを促す。


『……ただの噂話でそんなところに人が住んでいるなんて有り得ない派が大半だろうけど、俺は可能性があるならと思って調査していたんだ。運良く、関係のありそうな人間に接触できて、直接話を聞く機会が巡ってきたんだ! これが本当ならもしかしたら国際的な自然科学情報誌に載れるかも、って寸法よ!』


「…そういやぁ、お前はずっとそっち方面目指してたもんな」


 そういう話が昔から好きだったことを思い出しながら言うと、電話相手は激しく同意を示している。


『じゃあ、承諾いただいたってことで、詳細メールと航空券も送っておくな。行き先はカナダだから、海外旅行する気持ちでしっかりネタ掴んできてくれよー』


 電話が終わって少し経つと、パソコンのアドレスに宛てて情報を送信した、とのメッセージが携帯電話の方に入る。


 オリヴェールは嫌な予感がした。わざわざパソコンのアドレスに宛てたということは、ちょっとやそっとの情報量ではなさそうだ。


 彼の予想通り、長文メールに添付ファイルの数々、しかも航空券の搭乗日は来週だった。


「一週間でこの中身を確認して行けってことかよ!」


 オリヴェールにとっては専門外の中身のため、気を利かせて細かく準備をしてくれたに違いない。丁寧に情報をまとめてくれたのだろう、ということはわかる。だからこそ彼は、どうせならもっと早く言ってくれ、とタスクリストを前に思わず頭を抱えた。




 一週間後。


 怒涛の準備期間は気が付けばあっという間に終わっていた。


 思いの外面倒だったのは、まさかのマラソン大会の取材記者登録をしなければならないということだった。取材対象者がこのレースに出るため、記者登録をした上でスタートとゴール地点となった開催地の街に滞在することになる。


「……イグナシオ・ベネガス、ねぇ……あいつの情報が確かなら、この男が未開の地の知られざる少数民族って可能性があるわけか」


 この男をゴール地点で出迎え、取材をしていくことが今回の目的である。レースの公式サイトでゼッケンナンバーが7番であることを確認したが、写真までは見つけられなかった。


(…あいつ、どういうツテでこの男に辿り着いたんだろうな……)


 厄介なところ経由していないといいなぁ、などと思いながらオリヴェールはカナダへ向かって出発することにした。


 飛行機を乗り継ぎ、長距離バスを使い、長時間の移動の末、ようやく目的としている小さな町に到着する。3日後にスタートするレースに向けて、現地は大盛り上がりをしていた。


 このマラソン大会は普通のものとは異なっていた。オリヴェールはこんな長距離を走り抜けるレースがあることを今まで知らずにいた。山々の尾根を約300km、選手たちは補給地点を経由しながら駆け抜ける。トップ選手ともなれば、僅かな休息で駆け抜けていくものらしい。もちろん途中には山小屋が点在し、休息や仮眠をとりながら進むことができる。


 最速の選手が―天候にも左右されるが―だいたい3~4日くらいでゴールに到着するらしい。取材対象が早いのか遅いのか、全くの未知数であるため、プレスルームでまめに状況確認が必要だろう。幸い、ドローンも飛んでいるのでリアルタイムで順位確認ができる。


 体力に自信があるカメラマンなどは選手と並走して撮影やインタビューも行うらしいが、オリヴェールはとてもそんなタイプではない。


 時は暫し遡る。


 オリヴェールが送られてきた情報量に文句を言っている頃、イグナシオにも郵便が届く。中にはカナダ行きの航空券と現金が同封されていた。道中の公共交通機関を利用したりなど必要に応じて使うよう、手紙が入っている。例のチップと電話番号を渡してきた男から届いたものだ。


 イグナシオが意を決し出場する意思を示すと、男はとても喜び、金銭的な援助もレース中のサポートも他者を介して行うという。そしてやはり男は、レース展開について指示を出してきた。


 彼が求めている条件は2つ。


 決して1位になってはいけないこと。


 ゼッケンナンバー10番の選手を抜いてはいけないこと。


 意図は全くわからないが、それであの男が大金を掴み、こちらに約束の金額をきっちり支払ってくれるのであればどうでもいいことだ。


 この男の言う通りのレース展開になるとすると、イグナシオの順位は入賞圏内に収まり、入賞賞金も貰えることになるそうだ。八百長レースなど気乗りしないが、それ以上に彼は獲得賞金で小さくとも学習の場を増やすことを目的としている。まとまった金が手に入るチャンスであれば何でもよかった。


 どうせなら優勝賞金も狙うのはどうか、と思ったが、どう考えてもレース出場へのアプローチが普通ではなかった。金は必要だ、しかしそれ以上に自分が関わったばかりに周囲にまで厄介事のタネを撒き散らすわけにはいかない。ここは腑に落ちないが、大人しく金持ちの言うことを聞いて目立たないように気を付けようと考える。


 こうして思惑の絡み合ったレースは開催された。


 ほとんど出来レースと化していたので、レース展開にこれといって盛り上がりどころもなく、優勝候補者がしっかり優勝して終わる。ただそれだけだった。


 オリヴェールの追うイグナシオは8位で、ギリギリの総合入賞と、年代別部門での2位を獲得していた。初出場で入賞はなかなかの成績だと、オリヴェール以外の記者も彼に群がっている。


 順位の上位者から順番に、言ってしまえば形だけの取材を行い、オリヴェールは最後にイグナシオの元へ向かう。このでようやくその姿をはっきりと確認することができた。ドローンの空撮では小さすぎてよくわからなかったからである。


 日に焼け、よく引き締まった身体つきをしていた。しかしながらしなやかさを感じさせるレース中の動きは、ネコ科動物を彷彿とさせるものがある。平地を駆けるトラではなく、山岳を移動するヒョウのようだった。


 そして長身のオリヴェールより頭一つ分低いくらいだ。おそらく、身長は170cmよりも低いだろう。オリヴェールは握手を求めながら、労いの言葉を伝えた。


「お疲れ様、入賞おめでとう。初出場の、しかもこんなクレイジーなレースで成績を残すなんて素晴らしいよ。是非ともどんなトレーニングをしていたか、などを聞かせてもらえないか?」


 イグナシオは差し出された手を握り返し、礼を述べた。彼の英語の発音には独特の訛りのような響きが含まれている。


「アリガトございます。ちゃんと入賞できてよかったデス。これで住んでる近くに学校できマス」


「……学校?」


「そデス。賞金で学校できマス。子ども達、遠い遠い学校まで行きマス。とっても大変。学校が近くなれば、とってもラクです」


「……なるほど……。その話、もっと詳しく聞いてもいいかい?」


 オリヴェールに聞かれ、イグナシオは少し考えた後に頷いた。


「ありがとう。それじゃあ落ち着いて話ができるよう、どこかの店にでも入るのがいいかな。昼飯にはちょっと早いけど……何か食べたいものとか、希望はあるかい?」


「……食べたいもの……ハンバーガー、がいいデス」


 イグナシオが、食べたことないので、と付け加えたので、オリヴェールは驚きに言葉がすぐ出てこなかった。しかし、彼の生活環境を思えばそれもそのはず、と納得する。


「…よし、それならどこにでもあるし、すぐ案内できるよ」


 オリヴェールは近くのファストフード店を検索し、イグナシオと共に向かった。


 注文を行い、すぐ準備され手元に届く。その早さにイグナシオは驚いたようで、無言で瞬きを数回していただけだった。二人分のセットメニューが乗ったトレーをオリヴェールが運び、そのあとをイグナシオがついていく。向かい合わせのボックス席を選び、テーブルの中央にトレーを置いた。


「…あー、こっちがイグナシオ、君の分だ」


 オリヴェールは自分の分をトレーの端に寄せた。


「アリガトございます。話には聞いたシ、見た目も知ってマシた。でも、食べるのは初めてナンです」


 イグナシオが興味に目を輝かせているのを、オリヴェールは微笑ましく思いながら自分が注文したハンバーガーにかぶりついた時だった。


 突如、店の入り口で叫び声やガラスが割れる音がする。何事かと振り返るイグナシオとハンバーガーを食べながら顔を入り口の方に向けたオリヴェールの目に入ったのは、銃を持った男の姿だった。男は突然、持っていた銃の引き金を引き始める。銃声を聞き、店内の客は悲鳴を上げながら逃げ出し、テーブルの下へと避難する。


 オリヴェールはハンバーガーなど食べている場合ではない、と慌ててテーブルの下に滑り込んだ。同じようなタイミングでイグナシオも滑り込んでくる。オリヴェールはテーブルの下を這って進み、イグナシオの隣に座り込んだ。


「……まさか、白昼堂々、銃の乱射事件が起こるとはな……。あぁ、そうだ。自己紹介がまだだったよな。俺はジャーナリストのオリヴェール・マケラだ。よろしくな」


「……はぁ、よろしくデス。でもそんなジョータイ違いますネ」


 そして、冒頭の状況になった訳である。


 銃を乱射する男は、人を狙っているようではなく、威嚇射撃のように天井や壁などありとあらゆる方向に銃弾を飛ばしていた。様子を伺いながら、物陰にいれば助かる可能性が高そうだと判断する。逆に、逃げようと下手に動けばケガをしかねない。


 あとは早く警察による制圧が入るのを待つのみである。


 息を潜めてやり過ごそう、店内にいる客たちもきっとそう願った頃、銃を乱射していた男が発する言葉でそれは叶わなくなる。


「いるんだろォ!? チリ人のナンバーセブン野郎がよォ! 俺はお前がここに入るのを見たんだ!」


「!?」


 レースのゼッケンナンバーで呼ばれ、ハンバーガーを食べ終わったイグナシオは椅子の陰から男の方を伺い見た。彼のことは見覚えがある。


「……大変デス、あの男を知っていマス」


「…マジかよ……」


 お前は一体、何に関わってこうなっているんだ、と言ってやりたかったが、オリヴェールは言葉を飲み込む。


「……ワタシが出ていかないと、周りが危険デス。でも仕方ありマセン、そうなっていマス。オリヴェールサン、この手紙を託します。ワタシに何かあったら、差出人と連絡をとってクダサイ。集落の学校建設、お願いシマス」


「……おい……!」


 イグナシオは一方的に話し、持っていた封筒をオリヴェールの手に握らせるとテーブルの下から姿を現す。銃の男はイグナシオに銃口を向けて何やら喚き散らしている。


「やいやい、ヘタクソなガンマン!」


 イグナシオにヘタクソと言われ、更に男は逆上し銃を振り回して近付いてくる。通路を真っ直ぐこちらに向かってくる男に対し、イグナシオは軽く跳んでテーブルの上に乗った。


「ワタシは用がありマス。手短に」


 テーブルの上に立ち、見下ろすようにして言い更に男を煽ると、割れた窓から外に飛び出した。男は怒りに身を任せ、イグナシオが乗ったテーブルによじ登り、同じように窓から外に出て追っていく。


 狂った男がいなくなったことに安堵した客達は、ようやく物陰から姿を現し思い思いに電話を始めた。オリヴェールは改めて握らされた封筒を見て驚きに言葉を失った。その差出人は、彼のよく知る男の名前だったからだ。


 トーマス・スミス。同姓同名などごまんといる名前の組み合わせだが、電話番号はオリヴェールの古くからの友の連絡先である。もはや疑問しかない。


「……おい、てめぇ、トム! これは一体どういうことだ!」


『……開口一番それ? 全くわからないんだけど!』


 電話をしながらオリヴェールは店を飛び出し、イグナシオを探しながら、レースが終わってからここまでの経緯をかいつまんで話した。


『…あ、あぁー、そんなことになっているとは……。いや、こっちも話すと長くなるんだよ……』


「…詳しいことは後だ。今はイグナシオと狂った野郎を見つけねぇと!」


『そうだな。イグナシオと合流したら、飛行機に乗ってアメリカに入ってくれ! 空港まで迎えにいくから』


 飛行機の座席を確保しておく、と言われた後すぐさま電話を切る。そこでオリヴェールは走るのを一旦止め、切れた息を整えながら耳を済ませる。時々聞こえる銃声の方向へ、向きを変えながらオリヴェールは走り続けた。


 イグナシオは店を飛び出してから、人のいない裏路地を選んで走り続ける。動いていれば男の射撃など怖くない。当たるわけない、と確信しているからだ。走るのを止めなければ逃げ切るチャンスは出てくるハズだ、と。


 しかし土地勘などない場所で、ぐるぐると似たような裏路地を走っていると、自分がどの方角を向いているのかわからなくなってしまう。確認する余裕もない。


 不意に角を曲がって別の道に走り込んだところで、屈強そうな男とぶつかってしまった。


「!!」


「……ってぇな! 何だ、このガキ!」


 イグナシオが見上げた先には、筋骨隆々とした男が立っている。イグナシオはまずい、と思って後ずさるが、腕を掴まれてしまった。その握力はとても抜け出せるものではない。


「……なんだぁ? ネイティブアメリカンのガキか?」


 ぐい、と上に引き上げられ、簡単に地面から足が離れる。余程、珍しかったのか男はまじまじとイグナシオを観察している。彼としてもこんなところで捕まっている場合ではなく、逃げ出そうとジタバタ暴れてみるが全く歯が立たない。


 しかも後ろには追いかけてきた男の気配が近付いてきたことを感じる。こんな状態ではただの的だ。いよいよまずい、と焦った時、銃声が数発響いた。そしてその内の一発が、イグナシオを掴んでいる男の足に命中する。男は大きく呻き、よろめくがイグナシオを掴む手の力は緩まなかった。むしろ痛みに耐えようと、手にはより力が込められていく。これでは右腕が握り潰されてしまいそうだ。


「ゴメンくださいね……!」


 ケガ人に手を上げるのは気が進まないが、イグナシオは左手を握りしめると男の顎めがけて振り抜いた。衝撃にによろめき、壁に寄り掛かる巨漢の手がようやく緩んだ。掴まれていた箇所は疼くし痣が残るが、動かすことはできる。手を握ったり開いたりしながら再び走り出した。


(……本当にしつこい男だな……)


 この執着心の強さは尋常ではない、と走りながら思う。


 今、イグナシオを追う男は今回の出来レースで9位になった選手をサポートしていた。イグナシオが現れなければ入賞していたチームである。それが余程、許せなかったとしても、銃を振り回してまで追うのはそれはそれで異常でしかない。


(……もとよりこの男が狂っているのか、金が男を狂わせたのか)


 どちらにせよ、きっとこの疑問の答えは期待できない。


 裏路地をずっと進み続け、走り抜けた先は大通りに面していた。人通りが多く、この中に紛れてしまえばきっとあの男のことは撒けるだろう。


 でもだめだ、とイグナシオは踏み留まる。この狂った男を人の多いところに放ってはならない、この裏路地に留めなければならない、と考えた。


 ここからもう一歩踏み出せば、逃げ切れるかもしれないが、それ以上に見知らぬ誰かが犠牲になるようなことはあってはならないという思いにより、再び彼は裏路地へ向き直る。逆に追ってきた男に向かって歩を進めた。ここまできたら、どうせ死ぬことになるなら一発でも自分の拳を叩きこんでやらなければ気が済まなくなっていた。


 銃を乱射していた男は、銃弾を撃ち切ったのか、銃の引き金を引いて、カチン、カチン、と鳴らしている。イグナシオの接近に気が付き、それはそれは嬉しそうに笑って見せた。


「……バカめ、予備の弾倉はいくらでも準備してあるんだよ…! 死ね! 突然出てきて人の稼ぎを邪魔しやがって!」


 男が銃に銃弾を装填し、イグナシオに銃口を向けた。これは無事じゃ済まないかもしれない、と恐怖が沸き起こるが歯を食いしばり、イグナシオは足を前に出した。男は引き金に指をかけている。一か八か、大きく踏み込んで男めがけて走り出そうとしたとき、目の前の男が変な声を出して横に飛んで行った。


「……!?」


 思わず目で追い、壁に叩きつけられて力なく座り込む男を見てから、先程まで男が立っていた方へ目を向ける。そこには長身の人間が立っていた。大きく肩で息をしながら、デッキブラシを握りしめているオリヴェールだった。


 ずっと走り続けていたため、急に止まったら吐き気が込み上げてくる。不快感を無理に飲み込み、イグナシオの無事を確認してからオリヴェールは力なく壁に寄り掛かった。


「……オリヴェール、サン!」


「……あー、無事で、良かった……。……ていうか、めっちゃ走った……苦しい……すーげぇ苦しい……」


 間に合ってマジで良かった、と持っていたデッキブラシを道に落とした。先程、銃を振り回していた男が変な横跳びをしたのは、オリヴェールが男の後ろから力いっぱいのフルスイングを側頭部に直撃させたからである。


「…これは、ドコから持ってきたものデスか?」


「……裏路地ってのは、なぁ……何でも、あるんだ、よ」


 脇腹を押さえながら壁から身を離すと、イグナシオにここから出るように促す。これ以上のトラブルはごめんだ。


 大通りに出て、人混みに紛れながらホテルへと向かう道中、オリヴェールは預かっていた封筒を持ちながら言った。


「……イグナシオが関わっている封筒の男と話がついたよ。これからこいつのところに行く。ホテルで荷物を整理して、すぐ出発だ。細かいことは着いてからみんなで話し合おう」


「……わかりマシた」


 二人はまずイグナシオの宿泊している部屋へ向かう。彼の荷物はもとより多くなかったので、簡単に整理するだけですぐ出ていくことができた。次にオリヴェールの部屋に向かう。こちらはスーツケースが大きいが、整理整頓されていたため、持ち出すだけで済む。


 チェックアウトを行い、その際に空港行きのタクシーも手配する。来るときは長距離バスで移動費を節約したオリヴェールだったが、帰りはトーマスのおかげで国内線を使える。イレギュラーな事態に巻き込まれはしたが、帰りがぐっと早くなったのは彼にとって不幸中の幸いといえるだろう。


 トーマスの指定した飛行機に乗り込み、二人はカナダを後にする。オリヴェールは離陸した途端、すっかり寝落ちてしまった。イグナシオは爆睡するオリヴェールを見た後、窓の外を眺めている。機内サービスでコーヒーを受け取り、特に代わり映えしない青空と機体の下に広がる雲海がひたすら続くところを眺めながら、今ここに至るまでを思い返していた。


 マラソン大会の参加を誘われてからの日々は、今までのものとは全く違っていたし、まさか指示通りに行動したら殺されそうになるなんて思いもしなかった。もっとも、指示に反してもきっと違った形で命を狙われていたかもしれなかったが。


 しかし行動しないまま、あの時の誘いを断っていたとしたら世界の広さを知らずに生きていたのだろう。


 だが、イグナシオは知ってしまったのである。


 どこから繋がるのかわからない縁に導かれた先にあるものを。




 飛行機を乗り継ぎ、二人はアメリカに到着した。空港まで迎えに来ているトーマスの車に乗り込み、郊外にある彼の家まで向かう道中、誰も言葉を発することはなかった。


 家に入り、荷物を運びこんだオリヴェールはトーマスの前で封筒を振って見せ、鋭い視線で彼を射抜く。


「……どういうことか、ちゃんと説明してもらわねぇとなァ。俺達はなんで命を狙われるような展開になってんだ!『もしかしたら知られざる少数民族出身者がクレイジーなマラソン大会に出るかもしれないから詳細を知るために忙しい俺の代わりに取材してくれ案件』ってだけじゃあなかったのかよ!」


「……間違ってない、正にそのままだよ、オーリに頼んだのは!」


 オリヴェールの怒りを含んだ勢いに押されながらも、トーマスははっきりと言い返す。


「俺に頼んだのは、って事は他にも目的があったのかよ?」


 微妙な言い回しに引っかかりを覚え問い詰めると、トーマスは降参という意思を示すよう両手を上げた。このままではヒートアップする一方だと思い、ソファに座るようオリヴェールに言う。言い合う二人から少し離れたところで困った様子のイグナシオにも、ソファへ座ることを促した。怒りのままにソファへどっかりと腰を下ろしたオリヴェールの横に、イグナシオは静かに近付いてきてそっと座る。


 トーマスはキッチンでコーヒーを準備し、座っている二人の前にそれぞれ置いていく。


 オリヴェールがコーヒーの入ったマグカップを手にしたところで、空いているソファに腰を下ろしたトーマスが詳細を話し始めた。


「……まず、二人には厄介なことに巻き込んでしまって申し訳なかった。実害は及ばないだろうと思っていたんだが……」


「…この際、過ぎたことはいいんだよ、本題だ、本題」


 オリヴェールに促され、トーマスはため息をひとつ吐き出してから続ける。


 最初は南米系ギャングの資金の流れについて追っていたことを話し出す。その時点で結構ヤバめな案件じゃないか、とオリヴェールが口を挟んでくるが、イグナシオに話の腰は折らないほうがいいのでは、と服を引っ張られて止められていた。


 資金調達の調査をする過程で、人間を賭けの対象にしている賭場が立っているという噂を聞きつけた。トーマスはそこに視点を当てることにしたのである。借金で首が回らなくなった者に勝負で勝てば借金がなくなる、と言葉巧みに誘い出していたようだ。そして彼らの行く先は闇の中である。


 調査を進めていく内に、借金を抱えている者以外に地方の、これまた僻地にて懸命に家族や集落の生活を支えている若者にも声をかけていることがわかってきた。正にイグナシオのように、自分の住んでいる集落が少しでも豊かになるのなら、と考える勤勉な若者を。


「…そういうの知ったら居ても立ってもいられなくって、どうにか阻止できないモンかと。しかも調査の過程でまだ知られざる少数民族の可能性まで出てきたから、ギャングの資金調達については俺が、少数民族取材はオーリに頼んだんだ」


「……行けなくなって、って言ってきたのはそれが理由だったんだな…!」


 詳細を聞けば思った以上に危険と隣り合わせだったことがよくわかる。静かに話を聞いていたイグナシオは、小首をかしげてトーマスを見つめていた。


「……トーマス、サン。違います、トーマスサンじゃないデスよね、最初の人」


「……何、言ってんだ? こいつはトーマス・スミスそのものだぞ?」


「最初のチップと電話番号の人、トーマスサンじゃなかったデス。全く別の人。でも、この手紙くれた人はトーマスサン。……何故デス?」


 些か複雑な話を聞き、不信感を纏わせながらイグナシオが問う。何しろ、直接命の危機に直面したため、その全てを信じることができていないようだった。


「…最初にイグナシオに接触してきた男はギャングの下っ端だよ。途中でその男に成り代わって、君と連絡を取っていたんだ。それに現地で君をサポートしていた人間は俺の知り合いで固めた、もし他の参加者がレース中に強硬手段に出てもカバーできるように。……まぁ、強硬手段に出た奴がいたのがレース終わりだったのは予定外だったけれど」


「……そうデシたか。でもそれはそれ、ワタシのホントの心配は別にありマス。ちゃんと学校建設のおカネを得ることです。それが成し遂げられれば、アナタがホントのトーマスサンかどうかは問題じゃないデス」


「資金については心配しないでくれ。それは準備してあるし、落ち着いたら教科書とか、必要な物も揃ってから届けようと思っていたんだ」


 本来の目的が成し遂げられる、とわかったイグナシオから警戒心が少し薄れたようだ。その様子にトーマスは軽く微笑みかけ、まぁ本当のトーマスかどうかで言ったら、俺は本当のトーマスだよ、と改めて説明をしている。


「……誤解?が解けたようで何よりだな。次はこれからどうするか、だが」


 二人のやりとりを黙って見ていたオリヴェールが、今後のことを考えようと先を促す。


 少なからずギャングとイザコザを起こしてしまった手前、堂々と行動するのも憚られた。イグナシオの情報が流れ、移動中に狙われないとも限らない。最初はオリヴェールがイグナシオを住んでいる集落まで護衛を兼ねて送っていこうと提案したが、それはトーマスによって止められる。


「……オーリ、君は自覚があるのかないのか知れないが……めちゃくちゃ目立つ容姿をしているからな? 高身長で色白な上に美形の金髪碧眼のまんま王子様みたいなのが南米の砂漠に立つなんて不自然極まりないし、とにかく違和感がすごい。探している人間はここですよって教えているようなものだぞ?」


 つまりすごく目立つのでそれはやめたほうがいい、とトーマスは畳みかける。なんだといきなり失礼な、という気持ちを込め、無言でトーマスに向けて鋭い視線を突き刺していると、その後にイグナシオが続く。


「……トーマスサンの言う通りだと思いマス。オリヴェールサン、きっと太陽に勝てないデス。日焼けどころか、火傷デス」


 イグナシオは本気で心配しているらしく、無下に睨みつけるようなことはできず、オリヴェールは項垂れながら、心配してくれてありがとうよ、と小さく呟くに留めた。


 つまり、イグナシオは一人で集落まで帰ることになる。二人の心配をよそに、一人で出てこれたから一人で帰れます、と胸を張った。


「それに、山に入れば問題なくなりマス。追いかけられても、相手が動けないはずデスから。逃げ切れマスよ」


 標高が上がることで、追手が高山病の症状で減速するだろう、とイグナシオは説明する。と、同時にもしオリヴェールが同行していたら、逆にピンチになるかもしれないことを指摘した。オリヴェールは悔しいかな、その通りだと理解する。


 イグナシオがアメリカを離れるため、再びトーマスの運転で空港へやってきた。


 空港で三人は固い握手を交わし、また会おうと約束をする。


 飛び立つ飛行機に手を振りながら、思い出したようにトーマスが呟いた。


「そういえば、イグナシオへ取材した内容についてなんだけど」


「あ」


 オリヴェールは本題について全く取材できていなかったことをここで思い出した。


 結局のところ、イグナシオが本当に当時のスペイン侵攻を逃げ延びた少数民族の末裔なのか、なにもわからないままだった。


 また会おうと約束したからその時でいいだろう、とオリヴェールは苦し紛れに答え、トーマスは飛行機を見送ったまま空を見つめていた。

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