第3話 終焉を迎えるにあたり

 一つの確かな記憶と、一つのおぼろげな記憶。その二つを確かに抱え、移ろいゆく四季を迎え、そして儚さと共に見送る。街の装いもたゆたう如く移り変わり、人は流れ時がひたすらに刻まれていく。私はそうやって時節をゆっくりと進んできた。相も変わらず内向的な部分は決して変わる事もなく、仕事を辞めてからというものよりそれは強くもなった。妻に焼香を上げる人も途端に少なくなった。私が焼香を上げる場面だけが、ただただ多くなった。時にはほぼ他人だったり、少しばかり身内だったり、幼少の頃からの付き合いだった友人知人。残された人達のほうが、圧倒的に少なくなってしまった。

 一人の時間が圧倒的に多くなったとはいえ、あまり苦にもならなかった。年を取ったとはいえ、時間を持て余してしまう程の事はなく、時に書物を読み漁ったり、いつからか書いている回想録のようなものを書いたり、そこいらを散歩してみたり。特に、あの喫茶店の周りは好きだった。四季それぞれが揃っており、芽吹き蕾を付けて花をゆっくりと開かせ、そして儚く散っていき、そしてやがて枯れていく。その様を毎日のように見に行き、その周りの空気と共に四季それぞれを吸い込むように。店内へと赴く事は無かったが、毎日がたまらなかった。

 そんな毎日も何べんも過ごしているうちに、私もそろそろ動きが悪くなってきて。身体のあちこちに痛みやら、張りやら、そんな事もざらになってきた。書物を読むのも億劫な位に目も疲れやすく、回想録を書くにもミミズが這ったような字。漢字どころか、文字すら途端に忘れ抜ける程にまでなっていた。こうなってくると、やれいよいよか、という思いにすら感じてしまう。

 特に今更、思い残す事も無いとはいえ、さて残せる事も多くはないなと考えてしまう。特に誰に残す、という事ではないのだが、どこかに私と妻とが生きていた証みたいなものを残せたらいいな、と最近は考えていた。

 ふと、あの喫茶店を思い出す。毎日書き綴ってきた、拙い回想録を元に自伝でも書いてみたいと思い立つ。そうだ、あの喫茶店で少しばかり過去に行こう。この回想録を持って。少しばかり過去で、この回想録を元に自伝でも書いてそれをあの喫茶店にでもおいてもらおう。まだ、あの店主達はいるのだろうか。

 そう思い、玄関を飛び出る。老体ながらにその時は身が軽く、軽快な足取りが気持ちいい。外は白い粉雪が舞っていて、息つく色も真っ白。低い垣根にうっすらと雪が積もる中、私は正面の看板に目を流す。良かった、開いている。

 冷たいドアの取っ手に手をやると、変わらず静かにドアは開く。店内はとても久しぶりながら、全く代わり映えもなく、名の知らぬジャズが流れ、すりガラスが店内を明るく照らしている。店主と店員は私よりも随分若く、あの時のままの見た目である。

 渋めのモカにホットミルクをブレンドして欲しいと、我儘を言いながら、カウンターに座る。店主は少しも顔を曇らせる事無く引き受ける。店主と店員の所作を見ながらふと。テーブルが少し高くなったような気がする。多分、私の背が小さくなってしまったからだ。目の前にいる相も変わらない店主と店員に驚愕するよりもむしろ、改めて年老いた自分の手をまじまじと見ながら、ゆっくりと名の知らぬジャズと相変わらず静かな店内を堪能する。

 店員が運んできたモカとホットミルクのブレンドを口にする。柔らかい口当たりと、奥底にある深み。暖かさも愛極まり、とても優しい味わいだ。半分くらい味わったあたりで店主に相談してみる。過去で自伝を書かせて欲しい、と。そして、この店に置かせて欲しいと。

 店主は店員と顔を合わせる。店員はどうぞお好きにといわんばかりで店主に投げるそぶりをする。店主はさほど思い込む事無く、どうぞお好きに、ここには書物がそれなりにありますから、そこに紛れ込ませる位の事になるでしょうと、私に笑顔で返した。

 私は残りのブレンドを、ゆっくりと飲み干す。美味しかったと店主に伝えお代を店員に渡すと、それでは、行ってきますとだけ伝え西側の扉へ向かう。すりガラスの向こう側はいつの間にか吹雪になっているようだ。雪が影のようによく見える。

 西側の扉を出て、私は何回かの季節を逆さまに巡る。芽吹き咲き誇り散り乱れ果てていく様を逆さに見る。特に目安となる時期や時代も無かったが、なるほどこれはこれで異様な儚さを持っている。四季を数回巡り、私はいつしかの秋へと辿り着いたあたりで店内へと入る。

 店内に入ると、出た時と変わらない店主と店員が待ち構えていた。ゆっくり、時間をかけていいですからと、西側のテーブル一席を案内する。私は回想録をテーブルに置き、持ち込んだ原稿用紙をドンと置く。そこからは一心不乱に、文字を落としていき、回想録を読み返しを繰り返す。

 時に思い起こしながら、それでも何とか書き終える。なかなかな物になったと自負する。店主にコーヒーをお願いすると、店主は「お疲れ様です。書き終えたのですか。」と私に聞いてきた。私は「えぇ。拙いですが、何とか。」そう言い是非見てほしいと店主に渡す。店員が私見たい、と横から入ってきた。店主曰く、店員は書物が好きだそうだ。結果店主はコーヒーを、店員は私の自伝を読むという形になり、私は来たコーヒーをゆっくり味わいながら、店員の様子を伺う。店主はいつものように食器を拭いてみたり、サイフォンを洗ったりしていた。

 やがて読み終えた店員は、ゆっくりと私にこう話した。「普通。でもよく書けていると思う。私たちが出てくるとは聞いていないけどね。」包み隠さないその評価が、とても身に染みた。

 コーヒーも飲み終えたあたりで、店員にお題を渡す。店主はいつの間にか用意してあった本革調のブックフォルダに、私が書いた原稿用紙を収めていた。「ほら、こうやって一枚一枚を折って挟めるものなんですよ。こうすると、立派な書物ですよ。」

 私への餞別だと、店主は言い放つ。大事にしてくれる様に私はとても胸が熱くなり、店主と店員に何べんも何遍も感謝を伝えた。

 やがて帰ろうとすると店主が「お客様。お客様のお帰りの出口は今日はあちらです。」と、北側の勝手口を指した。店主が続けて「私が途中までお見送りいたします。」そう言うと、私を後にし北側の勝手口に赴く。私は後に続き、店主が開いてくれた扉から外へ出る。

 扉から外に出ると、まぶしい程で目がくらむ。やがて目が慣れてくると、それはまぶしさなのではなく、一面が白い世界である事がわかる。以前と大きく違うのは、周りには本当に何もなく、出てきたはずの喫茶店すら既に見えない。言葉の通り、一面が白い世界なのである。

 店主は「お客様。お客様が向かうのは彼方への岸でございます。時間もそこそこに隔たりました。潮時と此方の方々は言いますが、そういう事なのです。」

 私はああ、そうか。終焉を迎えるという事なのかと、納得していた。もうそういう頃合いなのは自分が良くわかっていたから、特に感慨深いこともなかった。

 店主は「あぁ、お客様。あの自伝ですが、後で私共が題名をつけさせていただいても宜しいですか。まだ読んでおりませんが、きっとお客様が気に入るお題をつけさせて頂きますよ。」

 私は微笑みながら店主にうなずく。店主が誘う後を追いながら。やがて真っ白な世界は私とそれらの境を曖昧にしていく。店主は私を笑顔で見ている。曖昧な境すらやがては無くなり、それを見送った店主はどこかにある喫茶店の勝手口へと足を運ぶのだった。

 

 

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