第2話 再来

 まるでそこに行ったかのような、それでもあまりにもおぼろげで儚すぎる、記憶の片隅も、四季が数巡もするとまるで曖昧になる頃合い。季節は夏を迎え、私は歳を重ねていて。

 さほどの趣味も持たず、決して目立つ事もなく、何となく社会というものに馴染んでいるように振る舞う私の人生も伴侶というものがいる。互いの実家も近く、互いの両親も顔なじみで、お互いも幼少期からの腐れ縁。そうは言いながらも、甲斐甲斐しく私の身の回りを当たり前のようについて回り、粗を取り払い、気高さは持ち合わせず、自尊心はまるでなく、私を立ててくれ、そして人に良く好かれる、気立ての良い女性。私にはとてもとても勿体ない程ながら、昔から私しかいないと、ついて回る。

 そんな人もつい先日、足早に旅立ってしまった。晩春に大病がわかった時には既に手遅れで、私はただ毎日、日々やつれていく手をしっかりと握りしめる事しか出来ずにいた。亡くなってからも、特に悲しみに打ちひしがれる事もなく、粛々と、淡々と葬送を終え、焼香に訪れる人も少しづつ、日を重ねる毎に少なくなり、最近は朝晩と私が線香の一本をあげる程度だ。

 そんな毎日も少し嫌気がさしてきて、私は家を出る。真夏の日差しがとても強く照り返す日で、家を出たはいいものの、特に用事という用事もないのに、はてどうしたものかと、そこいらを歩いてみる。

 目的も無い中ふらふらと歩いていると、いつの間にか喫茶店の前にいる。正面の低い垣根の向こう側には、向日葵が咲き誇っていて、看板は「open」と示されている。そういえば、昔ここに来たんだが・・入ったような。でも入っていないんだよな、と記憶の齟齬にも似た違和感を抱えながら、冷たいコーヒーでも飲みたいと、ゆっくり歩み寄り、扉を開く。

 中は一度何処かで見たような、でも初めての感覚の、レトロな喫茶店。

聞いたこと無いジャズ。見たこともない食器たち。初めて逢うと思う、店主と店員。私より幾分若く見えるその店主は、立ち尽くす私にカウンターへと誘う。

 店主の横にいた店員が、コップ一杯の水とおしぼりを差し出す。カウンターに置いてあるメニューを開きながら「いらっしゃいませ。初めてのご利用ですか。」と私に聞いてきた。私は店員に「はい。初めて・・だと思います。」と言葉を濁してしまうと、店員は「おや、あんた、初めての二回目だねぇ。」と良く分からない事を言われた。店主はまた、「こらこら。そうやってからかうんじゃないよ。」そう言うと私に微笑みかけ、「ご注文は決まりましたか。今日は暑いですからね。アイスコーヒーご用意出来ますよ」。

 多分、今日みたいな日はほとんどの人がアイスコーヒーと注文するのだろう、そう思いながら私はアイスコーヒーを注文する。出てくるまでの間、聞いた事の無いジャズを聴き、店の中を漂う緩やかな時間を、私は少し楽しんでいる。

 そうしているうちに、店員が持ってきたアイスコーヒーは、とても冷えているようで、私はゆっくりと口に含ませる。スッと体の熱を下げてくれるような冷え方ではあるが、しっかりとコーヒーの香りも楽しめる。コーヒー独特の酸味もあり、申し分ないコーヒーだ。こうやって何かを嗜むのも、本当に久しぶりだ。それほど、ここ最近は色々あった。色々、ありすぎた。目の前の事柄を、しっかりと終わらせていく事に躍起になっていたんだろう。

 そうして、妻との思い出にも触れ始めていると、私はどうやら、気の利いた言葉の一つや二つも、伝える事も無いままだったな、と今になって気が付いた。子供にも恵まれ無かったが、妻に苦労をかけまいと、毎日それなりに必死に働いた。決して裕福な生活とは言えない程の暮らしではあったが、それでも困窮する程でも無かったとは思う。そういう生活を維持する事で精一杯だったけど、言葉できちんと、妻に何かを伝える事はなかった。不器用な自分に、本当に腹がたってくる。

 アイスコーヒーに入れられた氷がカラリと音を立てて、ふと我に返る。店主はどうやらもの思いに耽る私の様子を見ていたようで、「いかがいたしましたか。」とゆっくり私に問いかけた。私は何故か店主に妻が亡くなってからの様をかいつまんで話をする。特に親しい間柄でもないし、そもそも私は内向的で自身の話等を自ら話すような者ではない。だが特にわだかまりもなく、サラサラと店主に話をする自身に驚きも隠せないでいて、一通り話し終えると、少し水っぽくなったアイスコーヒーを一口飲む。水っぽい味なのに、先程より酸味と苦みがより濃くなった気がして。次の瞬間には、私の瞳からはボロボロと涙が出ていた。

 思い起こすと、あれもこれもと「思い出」というものがよみがえる。例えば週末の何気ない買い出しの、何気ない会話。あてのないドライブ。朝晩の食事。徐々に鎮まる、夜更け。それら全てにはいつからか妻がいて、そして今はもう、思い出は少なからず積み重なる事はない。彼女との思い出はもう、少しづつ過去へと変わっていってしまうのだ。そう思うと余計に、妻に想いを伝えなかったという事柄が途轍もない程に悔しくなり、そして悔いている自分が今ここにいる。

 店主の横で静かに聞いていた、店主の奥さんだと思われる店員は、静かに私の手を取りゆっくりと話し出す。「その想い、今からでも伝えられますよ。」

 それを聞いた私は、店員に返す。「それは、いったいどうゆう事、でしょうか。」

店員と店主は、ふと見つめあうと互いの意思を確認するように、ゆっくりと目を合わせる。スッと私の手を取った店員が手を放すと、店主はゆっくりと話し始める。

「ここは時を刻まぬ喫茶店。ここは・・そうですね、端的に言えば”時”そのものを形にしたような、そんな喫茶店でして。お客様が望めば、時は遡り、そして望めばまた時は進みます。お代として頂きますのは、お客様自身の”時”。遡った分は、遡るその時のお客様の時を、進んだ分は、進んだ時のお客様の時を。遡るにせよ、進むにせよ、時を隔てるお客様はそれに記憶がその分加えられます。時を隔てられる側の、もう一方のお客様は、意思も特になく、隔てた分だけをこちらのお店で過ごしていただきます。」店主の説明を、一字一句聞いていたつもりであるが、いまいちわからない。

 店主の横の店員が「もう。いつもだけど、もう少し簡単に言えないのかしら。。そうね、例えばあなたが二年前の夏に戻りたい、とするでしょ。そうした時に、あなた自身は二年前に戻るのよ、そのままの記憶で。ところが、二年前のあなたはそれを知らないのよ。だからすれ違うように、ここに来させるわけね。そうでないと二年前のあなたと二年後のあなたが同じ時間を過ごす事になるでしょ。向こう側のあなたはもう少し四季を前倒しで来るのが通例だね。こちら側のあなたが夏に行きたいのなら、あちら側のあなたは、春に来る。向こう側のあなたはこちら側のあなたの意識を少しばかり緩衝受ける。結果向こう側のあなたは時間軸では”初めて”だとしても”二度目”の来店のような感覚を受けるし、今あなたは二度目の来店ながら”初めて”の感覚があるはずよ。そして。こちらから過去、未来と時間を隔てる貴方自身は、二年なら二年過去に行き、そして二年後の今に戻る。合計四年の歳月を隔たりを経て重ねる事になる。これはとても神経・細胞は過去に行くなら若返り、そして老いる。未来に行くなら逆さね。どちらにしても相当”人生”という時の砂時計を、時を隔たり行き来した分使用するから、そこが私たちのいう「お代」というものね。そこまでする価値があるかどうかは、お客様であるあなたが決める事よ。」


 店員の説明は、店主よりもより具体的であった。具体的であるがゆえに、私の想いもまたより強くなる。果たして、それはこの一刻程のものなのだろうか。そんな事はもう、ある程度答えが出ているようなものである。現に私は”二回目の来店にして初めて来た感覚”に陥っている。つまり、私はここで過去にいくのだ。この感覚こそが、答えなのだと私自身が導ている。

 私はどのようにして過去に行くのか、店主に聞いてみる。店主は簡単に話す。左側の、西側の扉から出て、戻りたい分だけを反時計回りに店の外を回り、逆さにめぐる時間と四季の中で行きたい時間と巡り合えたなら、その時間に一番近い扉から、店内に入り、そして南側正面の出口から出ればいい、と。あまりにも簡単すぎる説明で、私は半信半疑であったが、店員は付け加えるように、遡る時間も四季も、とても早いからゆっくりと回るといい、と。そして、こちらに帰る時は、南側正面から店内に入り、東側の扉から出て、今の頃合いに見合った分だけ時計回りに店の外を回り、足早に移ろう時間と四季をしっかり見て帰ってくればいい、のだそうだ。

 私はわかりました。それでは早速、と店主に伝えると、店主は「お気を付けて」と一言。店員は「戻った分だけかえってくるのよ。たまに過ぎちゃう人いるから。」と加えた。

 私はアイスコーヒーのお代を店主に渡すと、西側の扉へ向かった。扉までの通路にはすりガラスからの光がこぼれており、南側のすりガラスの向こう側には向日葵の影が見えている。さび付いた扉のノブを回すと、見た目よりは少し軽く扉が開き、私はゆっくりと扉を閉める。西側にある庭園のような間をぬって、私は店の正面へと回り始める。歩くごとに、気持ち悪い程時が遡る事がよくわかる。枯れていたはずの庭の秋桜が咲いたと思えば、すぐに蕾へと帰る。西から日が昇り、東に沈む。南側に満開で咲いていた向日葵達は既に枯れ、咲き誇り、蕾となる。東側の桜が舞い上がり、満開を迎えると七分咲き、五分咲き、三分咲きと、逆さになった時間はやがて美しくも思えてくる。目指す時間が行きすぎぬよう、私はゆっくり、ゆっくりと歩を進める。そうして三分咲きの桜が一分咲きとなる頃、私は東側の庭園をくぐり抜け、東側の扉から店内に入る。先程でたばかりのような気分ではあるが、店内は先程と少し趣も変わっているかのようにも見える。何故か店主も店員も不在で、私は出てもいいのかと思いながら言われた通りに南側正面の店のドアから出る。建物の南側の縁には、小さな春の花が一輪程咲いていた。

 建物の正面の道路まで出ると、店は「close」の看板が出ている。いつの間に店を閉めたのか些細な事に思えて、私は妻のいる自宅へと向かう。

 自宅に着いたのは十時も過ぎない時間帯で、その時の妻は食器を洗っていた。ただいま、と声をかけてみると、「あら、どうしたの。何か忘れ物をしたの。」と私に問いかけてきた。

 「忘れ物。。そう、うん。忘れ物があってね。大事な、忘れ物なんだよ。」妻はそれを聞くと洗い終えた食器を水切りラックに置き、いそいそと手を拭きながら「あなたが忘れ物なんて、珍しいわね。今までなかった事でしょう。」と私に言ってくる。どうやら私の忘れ物は仕事道具だと思っているようだ。

 「いやいや、仕事の忘れ物じゃないんだ。もっと大事なもの。ちょっと、座ってくれるかな。」私は妻に座るよう促すと、私もゆっくりと座る。こうやって妻と面を合わせて話すのも、本当に久しぶりのような気がする。そうして、思い出話から少しづつ、ゆっくりと話していく。まるで夢のひと時のようだ。そんな中で私は妻に謝る。歯の浮くセリフの一つや二つも話出来ずに来てしまった事。そうして妻に対する想いを言葉にできなかった事。そういった、本当に些細な事でもしかしたら妻を傷つけてしまっていたのかも知れないという事。そして、私自身が改めて妻を愛しているという事。ゆっくりと、確実に、妻に伝えた。

 伝えられた妻は、狐にでもつままれた様な顔をして、そうして大きく笑い、そうして泣き、そうして私の顔をじっと見て。ありがとう、と私に言った。

 じゃあ、そろそろ行かなきゃ、と妻に言うと、ちょっと前まで当たり前のように言われていたように、「行ってらっしゃい。気をつけてね。」と私を見送る。多分、これが本当に妻との別れなのだと思いながら、それでも私は平然とした様子を演じ、行ってきます、と自宅を後にした。

 喫茶店まで戻ると、さっきまでは「close」だったはずの喫茶店が「open」となっている。正面の扉をあけると、やはり店主も店員もいない。わたしは言われた通りに今度は東側の扉を開け、小さな庭園を抜け時計回りに回る。先程の遡った景色の早さ程、私が歩く度に時間が移ろう。そうして向日葵が満開を迎える頃、私は南側正面から入る。店主と店員が出迎えると、私に「お帰りなさいませ。ちょうどいい頃合いのご帰還、ですよ。」と店主は私に言う。店員も「ほんと、あなた真面目な人なのね。もう少し過去で遊んでくる人もいるのに。」どうやら、色んな人が時間を隔てているらしい。先程まで飲んでいたアイスコーヒーの氷は既に解けかかっていたが、本当に先程までそこにいたのだと、それは物語っている。

 店主と店員に「おかげさまで。ありがとうございました。」私はそう二人に伝えると、南側正面から店を出る。南側正面に咲き誇っている向日葵を背にし、正面の道路へと出る。急にぶわっと吹く風。どこから飛んできたのか、一輪の桜の花びらが、私の目の前にヒラリと舞う。私はそれを拾い上げる。

 自宅に帰り、グラスに水を入れる。花びらを浮かべ、そっと遺影の前に置く。

 その花びらはいつまでもいつまでも、クルクル、クルクルと、まるで妻の気持ちを演じるように、回っていて、私はそれを、じっくりと見ながら自分で淹れたコーヒーを飲む。いつもより少し、コーヒーの味は甘く感じるのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る