時を刻まぬ喫茶店
Nao
第1話 喫茶店との出会い
私はこの街で産まれ、この街で育ち、この街で働き、この街で息をして。
見慣れた風景は時と共に移ろい、人は目まぐるしく行き来し、友人知人はそこそこ、この街から出ていき、昔の知り合いなんて、親族数人程度と、残りの友人知人達が親御さんや家族とこの街で暮らす程度である。
そんな人たちともたまに会うかどうかというもので、一日の大半は職場の連中と面を合わせている。社会というものに出てからは殊更それが当たり前になってしまい、家族とは朝晩に挨拶を交わし朝晩の食事を共にし、たまの休みにやっと共に買い物に行くかそこいらをあてもなくドライブする程度になってしまっている。
時間も物流も、人もお金も、街並みも時には風景さえも、私の意思とは全く関係なく流れていって、私も流されて。それが、それでも、そのような人生も誇らしくも感じている。
そんなこの街には、昔からやっていると思われる喫茶店がある。私の自宅からほど遠く、ほど近く。街の路地裏のような一角。建物は南北は短く幅広、東西はそれよりは少し細く長めの十字の形。赤レンガを主体とした外観。レンガの色は少し黒くくすんでいて、レンガ本来の色とくすみが独特のコントラストを演じている。そのコントラストがまたなんとなくだが、温かみを感じさせる。窓枠は木目の窓枠で、その木目はレンガの黒くくすんだ様子より深い黒。屋根は真っ黒に近い瓦屋根となっており、西側には低めの煙突が突出している。
南側正面には入口となるドアがあり、ドアの取っ手は金色。塗装が剥げており、銀と金のまだら模様。ドアの手前には一段程のステップがあり、その両端、建物を縁取るように花壇がある。正面の花壇には夏の花が咲き誇る。種類も名前も知らないが、夏にしか咲かないから、多分夏の花だろう。
花壇から正面の道路までは少し離れており、道路ギリギリには低めの垣根が建物の正面のドア延長上を避けた端から端まで植えてある。
この垣根の両端には喫茶店の建物南北の両端へと続く小道のようなものがあり、その小道はそれぞれ喫茶店東西にある扉へと伸びている。東西にある扉は正面のドアとは趣が異なり、重厚感を感じさせる鉄扉。正面の温かみを感じる雰囲気とは異なり、冷たさすら感じない無機質な雰囲気を醸し出している。その東西の扉を包むように、東西にはそれぞれ小道を挟んだ庭園のようなものがあり、東側には桜の木が植えてある。その周りには春の花が咲く。西側には銀杏の木が植えてあり、その周りには秋の花が咲く。建物の北側には東西の扉より更に簡易的な扉があり、勝手口のように見受けられる。北側には数台程度の駐車場が設けてある。駐車した人たちは東側へと迂回して南側正面への扉へ向かわなければならない立地となっている。その北側には冬に咲く花が咲く。喫茶店の周りは常にどこかしら花と四季を感じる事が出来、喫茶店近辺はちょっとした散歩スポットのようなものにもなっている。それだけこの周囲の人たちはこの喫茶店を知っている。
この喫茶店、看板は木彫りで「time」と表記されている。私が幼少期から既に存在しており、地域で知らない人はいないだろうと思われるこの喫茶店は、誰もが使ったことが無い、と言う事でも有名。そして、誰がやっている店なのかを誰もが知らない。例えば店主が出入りしている様子を誰もが見たこともないし、店内の様子を窺おうにも、窓ガラスは全てすりガラスとなっており、店内の様子がまるでわからない。
だけども、正面のドアには「open」と「close」が記された看板が釣られており、その看板は明らかに人の手によって表に裏にと返されて示されているのも確かだ。そんな不思議な事が身近にありながらも、誰もが気にも留める事も無いし、少し様子を見に行くなんて事もしない。そうして結局今に至っている。
とある日。私は自宅と職場とこの喫茶店との程なく遠くもない所に営業廻りで向かう事になった。徒歩で移動できる位の距離ながら、先方に遅れて着くわけにはいかず職場を早々に出たはいいが、当たり前のように先方との約束時間まではしばらく間がある。何処かで時間でもつぶそうかと、考えてみたものの思い当たる所もない。そういえばと思いながら喫茶店の様子を見に行くと、看板は「open」になっていた。東側の春の花たちが咲き誇るここで時間を潰していこうと思い立ち、ドアの取っ手に手を当てて静かに引いてみる。
ゆっくりと、それでも軽やかに開いたドアの向こう側は、初めて見る景色。落ち着いた木調の店内。鮮やかな光沢のある重みが映えるコールタールの色合い。その色合いは、テーブル、椅子、カウンター、そしてカウンターの向こう側の棚。全てが統一感に満ちあふれている。窓のすりガラスからは柔らかな光が店内を照らし、緩やかな時間を感じさせている。カウンターの棚にはサイフォンが数台とコーヒーカップが並べてあり、ノスタルジックな雰囲気。店内にはジャズが流れており、そのジャズの音源は昔ながらの蓄音機。少しノイズが入り、そのノイズがまた古(いにしえ)の時間へと誘うようである。
カウンターの端には一人の女性が座り、新聞を読みふけっている。カウンターの向こう側には店主と思われる男性が一人おり、初老というには少し早いような、私よりは少し歳が上に見えるような、そんな見た目の男性は私に「どうぞ」と、カウンター目の前の席を案内する。
私はゆっくり腰掛け、左右に目を移す。外観から見ていた細く長い東西の部分は、すりガラスが均一にはめられており、南側に二人向かって座る様配置された、小さめのテーブル席が各三卓づつ用意されている。卓上にはそれぞれすりガラスからの光が差し込み、優しい時間を演出している。その対となる北側は東西の扉それぞれに連なる通路となっている。まるで異世界へと続くような雰囲気に、私は目を奪われてしまう。
ふと我に返りカウンターに置かれているメニューを手にとる。メニューはずっしりと重みがある本革の表紙。それとは裏腹に、中のメニューは一枚の厚めの和紙。記されているのは数種類のコーヒーと、トーストセットにランチセット。トーストセットはアメリカンコーヒーにトーストが一枚。ランチセットはトースト二枚と目玉焼き、ウインナーとサラダまでつくようだ。今日の目当てはあくまでも時間潰す程度だから、と思い、アメリカンを一杯お願いする。店主は頷くと、サイフォンを棚から取り出す。今時珍しい、アルコールランプで抽出するタイプだ。思わず、わぁ、と声に出る。新聞を見ていたカウンター端に座っていた女性は、おもむろに立ち上がり、私に水を一杯だしながら私に一言言ってきた。「おや、初めてだね。二回目かしら。」良く分からない話をし始めたので、私が困っていると男性は「こらこら。そうやってお客さんをからかうんじゃないよ。」そう話しながら、ゆっくりと抽出されていくサイフォンの中のコーヒーに目を移す。どうやらこの二人は夫婦であろう。
柔らかなコーヒーの香りがゆっくりと私を包み込むと、店主は棚からコーヒーカップとソーサーを取り出し、カップにゆっくりと注ぐ。入れたコーヒーをカウンター向こうにいつの間にか回り込んだ女性が、ゆっくりと私の目の前に差し出しながら「お待たせしました。どうぞごゆっくり。」と丁寧に話す。
目の前のコーヒーカップに手をあて、口元まで運ぶ。淹れたてのコーヒーという事もあるのだろうか、とても香り高い。一口、口に含んでみる。思った以上にスッキリとした味わいで、苦みと酸味が抑えられた飲みやすいアメリカンである。普段からコーヒーは嗜む程度で、普段から喫茶店はあちらこちらと気軽に入る風潮があるが、なかなかどうしてこのクリアな感じは、癖になる味だと思いながら、ゆっくりと一杯のコーヒーを、喫茶店の雰囲気と共に楽しんでいる。
雰囲気を更に彩る名の知らないジャズ。初めて見る柔らかな雰囲気の店内。そして癖になるコーヒーの香り、味。何故か初めてには思えない。店主も女性も、記憶には全くないが、少なからず二度目ではないだろうか。そんな思いがやがてこみ上げてくる。そのあたりで店主は私に問いかけた。「お客様、もしかしたらこのひと時が何度目かに感じていらっしゃるのではないですか。」
まるで心を読まれたようで、動きが一瞬止まる。コーヒーカップをゆっくりとソーサーに置き、私はその隣に置いてあるコップの水をゆっくりと口に含むと、店主に「なぜ、わかったのですか。」と質問に質問で返す。
店主は、使用済みのサイフォンをゆっくりと下ろしながら「妻もからかうように申し上げましたでしょ。二回目、と。初めましてとご挨拶したのにも関わらず。」
確かに来店時、奥さんである女性は私にそのように私に声をかけている。だが、私は間違いなく初回の来店である。二度目ではない。店主はゆっくりと話を続ける。
「時系列、と言いますか。時の流れから言えば、お客様は初回のご来店です。ですっが、お客様の意識は一度、こちらに来ておりまして。お客様の感じる既視感にも似た感性は決して間違いではありません。私たちは一度、こちらでお会いしておりますから。」
店主の言わんとしている事がまるで理解が出来ない。だが、全くわからないわけでもない。確かに私はそう感じている事も間違いではないのだ。奥さんは「一言で説明しようとするのが無理なのよ。私たちも説明しづらいのよね。特に初回の数回目の人には。」あぁ。更にわけがわからない。
店主はこう話した。「そうですね。お客様は多分、今日来た理由は何かしら時間を費やす為にいらした、多分そんなところだと思います。ところが、店に入った瞬間に目的は時間を費やす為に(何をどうしよう)という意識に変わったと思います。この店の雰囲気を隅々まで見てらっしゃいましたし、コーヒーもゆっくりとお飲みになってらっしゃる。多分、店内の曲も楽しんでおられたように見受けられます。当初の目的を果たす為とはいえ、目的を果たす為にする事をご自身でご堪能なさっておられてます。そこまでの事柄が全て、実は「そのように誘われていた」としたら、どう思うでしょうか。」
私は、店主の言葉を、ゆっくりと嚙み砕いて飲み込んだ。何となく、そんな気がする。そう、何となくではあるが、私は私の意思で来たのではあるが、そこには誘われていたような気がする。ただ、そう思える根拠など何一つ無いのも確かなのだ。
ふと時間が気になった。店内を見渡すが、棚の右にある古い壁掛け時計は全く動いている気配がない。手持ちのスマートフォンは何故か電源が落ちており、慌てて電源を入れてみようとするが、全く動きを感じない。
店主は「おや、急に慌てて。この後なにかご都合あるのですね。」
私は返す。「そ、そうなんです。こちらに入ってもう何分時間を過ごしたでしょう。
ちょっとの時間をこちらで過ごそうと思って入ったのに、すっかり堪能してしまいまして。」まるで慌ててしまい、少し言葉もつんのめる。だが、店主は私を落ち着かせるようにゆっくりと話をする。「ここは「time」時を刻まぬ喫茶店、とも呼ばれております。実際時間は流れておりますが、砂時計で例えるなら、砂の一粒一粒が、ゆっくり、ゆっくりと下に落ちるかのように、ここでは時の流れがまるで緩やかです。外に出てしまえば、さほどの時間は刻まれていないでしょう。」
理解が追いつかない私を置き去りにしながら、店主は続ける。「今日はどうやらここまでのようです。またあなたはこちらにご来店なさいます。今度は二回目の、初めての入店になるでしょう。でも気になさらないで下さい。あなたが店の外に出た瞬間、まるでひと時程の夢を見ていたかのように、記憶はおぼろげで曖昧になります。この雰囲気も、この会話も、私と妻の顔ですら。ここは、そうゆう喫茶店です。」
私は店主にお代を払い、店を後にした。
さて、困った。スマートフォンの時刻に目を落とすと、先方との約束時間はまだもう少し。時間は有り余っているから、喫茶店で時間でもつぶそうかと、喫茶店にやって来たはいいが看板は「close」。さっきは「open」だった気がする。仕方ない、先方の近くに行ってみようと歩き始める。喫茶店の正面、春の花が咲き始めている。
綺麗な花に目を奪われながら、歩み始めた私は何故か、飲んでもいないコーヒーの香りがほのかに香るのであった。
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