第33話 醜い心

 ベッドに横たわり、ディアンは浅い呼吸を繰り返す。


 傷からくる発熱からか、意識は朦朧としていて、じんじんとうずく背中の痛みに、深く眠りにつくこともできない。


 時折手に触れるひんやりとした感触は、アルベールの手だろうか。だとしたら自分は、アルベールを守ることができたのだろう。


 あのとき、背中に感じた焼けつくような痛みを、アルベールに味合わせずにすんでよかった。


 そう思うものの、アルベールが自分を心配する声に、切なくなる。震える声で、「目を覚まして、ディアン」「死なないでくれ、ディアン」と悲痛に漏らすアルベールに、今の自分は、「大丈夫だ、心配ない」と答えることができない。それに不穏なことを呟くのだ。


「オレが代わりに死ぬはずだったのに」と。


 気に病んでいるだろうことは、想像がつく。庇われ、その相手が傷を負ったのだ。優しいアルベールは、自分を責めるだろう。


 早く目覚めて、心を楽にしてやりたい。


 あれから何日経っているのか。力の入らない腕では、アルベールを抱きしめることもできない。


(俺は大丈夫だ、アルベール。心配するな、アルベール……)


 しばし覚醒していた意識も、次第にまた薄れていった。


     ◇◇◇


 あれから五日、未だディアンは目を覚まさない。


 ベッドの脇に椅子を据え、アルベールは片時も離れずディアンにつき添っていた。


(オレのせいで、ディアンは──)


 床に広がっていく血だまり。どうすることもできない無力な自分。

 この世界の医療を思えば、生死の狭間をさまようほどの大怪我だ。ここには前世の自分が知る、最先端医療などない。


 憎い──ダリウスが心底憎い。


 恨んでも恨んでも足りない。自分の中で膨らんでいく憎悪。


 そんな自分の醜さを、遠い前世の記憶がどがめ、苦しめる。


『お兄ちゃん、罪を憎んで人を憎まず、だよ』と。


 憎しみの向うその果ては──闇。


 わかっている。わかっていても、万が一ディアンが死ぬようなことがあったら。自分は正気を保てない。この手で、ダリウスを手にかけるだろう。そして自分は、闇に呑み込まれる。


 頭の中を汚染していく、悪想念の渦。


 今の自分を、ディアンは好きだと言ってくれる? 


 そんなはずはない。自分自身、好きだと思えないのに。


「ディアン。オレはおまえに、相応しくないな」


 ディアンの手を握り、ため息交じりに呟いたときだった。


「ん……」


 声を漏らし、ディアンのまぶたがぴくり動く。


「っ──! ディアン、ディアン……」


 彼の手を握る自身の手に力を込め、何度も名を呼ぶ。その声に応えるようにうっすらと開かられた目は、ぼんやりと白い天井を見ている。


「あ……み、ず」


 絞り出すように出された声は、しわがれていた。無理もない。五日ぶりに、声を発したのだから。水も一日数回、口に含ませる程度だった。


「起きられるか」


 問うと、小さく左右に首が振られる。


 アルベールは自身の口に水を含ませると、そっとディアンの唇に押し当てた。少しずつ流し込むと、ディアンの喉仏がごくんと上下に動く。しかし飲みきれなかった水が、頬を伝って首筋へと流れてしまう。


「すまない、今拭いてやるからな」


「ア……ルベール」


「うん? まだ水が欲しいのか」


 優しく問いかけるアルベールに、ディアンは小さく頷く。

 アルベールは水差しを手に、もう一度水を口に含んだ。次は少し角度を変え、唇を寄せる。


 今度はうまく飲ませることができたと、身を起こそうとしたとき──。


「ちょっ……んん……はぁ──」


 ディアンに後頭部を手で鷲づかみされ、唇をはまれる。口内に入り込んできた舌は、アルベールの口の中の水分を、すべてなめ取ろうとするかのようにうごめく。


 もう止めさせないと、ディアンの身体に障ってしまう。


 そう思うものの、ディアンの温かな体温に触れていたい。目覚めてくれたディアンを、もっと感じていたい。その欲求を抑えられなかった。


「あ……」


 不意に離されてしまった唇を、追いかけそうになる。


「続きは、俺が動けるようになってからだ」


 微笑みながら、ディアンはアルベールの唇に人差し指を当てる。


「なな、何が続きだ。勘違いするな。オレは別に、おまえを求めたわけじゃない」


 我に返ったアルベールは、羞恥から憎まれ口を叩いてしまう。そんなアルベールを目にし、ディアンは破顔した。


「よかった。いつものアルベールに戻ったな」


「え──?」


「暗い顔をしていた。木枯らしの吹く中、波打ち際で、ポツンと佇んで凍えているように見えた」


 触れた唇も冷たかったと言われてしまう。


「ディアンが悪い。オレなんかを庇って、こんな……大怪我──」


「俺なんか? なぜそのようなことを言う」


 ディアンは眉間に皺を寄せ、アルベールを咎める。


「──オレは醜い人間だ。ダリウスを憎み、おまえにもしものことがあったら……この手で殺してやると──」


 俯き、絞り出すように言葉にする。


「どうしてそれが醜いのだ? 感情のある人間なのだから、普通だと思うが。俺だってそう思ったぞ。アルベールを傷つけた人間は、許さない。この手で切り捨ててやると」


「え……ディアンも?」


「ああ。誰だって、最愛の者を傷つけられれば、湧いてくる感情だ」


 しかしそれで、本当に憎む相手をあやめてしまったら。自分が新たな憎しみを生んでしまう。そう心情を吐露する。


「大丈夫だ。おまえはいくら相手を憎んだとしても、実行には移さない。アルベールには、衝動を抑えられる理性と知性があるのだから」


 一時的に憎む心が生まれても、葛藤の末、きっと克服できる。あとは、憎しみを払拭するほどの幸せを手に入れればいいだけだ。


 そう言ってディアンは、アルベールを安心させるように朗らかな笑みを浮かべた。


(幸せ──どうやって?)


 これまで自分にとっての幸せは、大切な人が幸せになることだと思っていた。自分は考え違いをしていたのだろうか。


 ただの自己犠牲? ただの自己満足?


 ふと、以前ディアンに言われた言葉を思い出す。


『自分自身が幸せであってこそ、人を幸せにできる』


言い換えれば、自分自身を幸せにできない者が、ましてや他人を幸せにできるはずがないということだ。

 

「難しい顔をして、どうしたのだ」


 眉間に皺が寄っていると、ディアンに指先で撫でられる。


「よせ……まだ、自分の気持ちに折り合いがつかないだけだ」


 やんわりとディアンの手を退け、顔を俯ける。


「アルベール、もっと顔を見せてくれ。随分と長い間、離ればなれになっていたような気がする」


 ディアンの手が、すっと頬に添えられる。伝わってくる体温に、改めて彼の生を感じた。


「よかった、ディアンが生きていてくれて。オレは……オレは──」


 堪えていた感情が一気に溢れ出し、大粒の涙がとめどなく流れる。


「当然だ。未練を残したまま、あの世にってなるものか」


「みっ……れ、ん?」


 嗚咽おえつを漏らしながら、なんとか言葉にする。


「まだ、アルベールを幸せにしていない。俺を長生きさせたければ、まだまだ、幸せが足りないって顔をしていろ」


 アルベールには、沈んだ顔は似合わない。そう言って、涙で濡れた頬を拭ってくれる。


「言ったな。では……これからも悪役王子でいることにしよう」


「ほどほどにしておけよ。愛する者を悪く言われるのは、いい気がしないからな」


「善処する」


 ディアンの前では、自分をさらけ出せる。醜い自分を見せても、包み込んでくれる。


 真に愛してくれる者を得たアルベールの心は軽くなり、満ち足りた笑顔でディアンを見つめた。


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