敗北者宣言
有明 榮
そうだとも、ぼくの心はそれほど堕落してはいない。(若きウェルテルの悩み/ゲーテ)
その日、僕は使い古したラップトップと、それから洋服類と文庫本をいやというほどに詰めたキャリーバッグを引きずって、博多駅のホームに立っていた。年末の帰省ラッシュに重なってしまったためかホーム上は人が乗客と見送る人たちでごった返している。もう十数年も実家に帰っていない僕からすると、見送りという行為程無駄なものはないと思える。それだけの期間離れてしまえば、もはや家族は他人になるし、実家も他人の家だ。
二年近く前に久しぶりに届いた年賀状には、知らない男の顔が載っていた。五つ離れた妹の旦那ということだった。それ以来、実家からの便りは来ていない。
泥濘をわたるように人混みをかき分けて窓側の席に陣取ると、すぐ後から二人組の女が座ってきて、若い方が僕の隣に座るなりハンドバッグをあさり始めた。
「お母さん、二冊持ってない? 忘れてきちゃった」と小声で娘が後ろの母親に聞くと、
「そう言われてもねえ。あたしも自分のぶんしか持ってないわよ」と母親もまた静かに言った。
所在なさげに彼女がポケットからスマートフォンを取り出したのを見て、僕はキャリーバッグのファスナーを少し開けると、「これ、僕のですけど。よかったら」と彼女に差し出した。彼女は「いいんですか」と、色素の薄い大きな目と、対照的に小さな唇を細めた。
大した美人というわけでは無かったが、年相応に愛嬌は持ち合わせているようで、五、六年ほど前に成人式を迎えていた妹の姿と重なるようなところがあった。マットな黒の革ジャンとウェーブをかけた黒髪がちぐはぐな雰囲気を醸していたのも、その愛嬌を増長させていた。
「今時珍しいですね、若い人で。電車でも飛行機でも、大概みんなスマホいじってるか寝てるのに」
「でもお兄さんもじゃないですか」
「僕はまあ、仕事柄みたいなものだし」
「へえ。学校の先生とか? モームなんて昔一回読んだっきりですよ」
「読んだことあるんですね。そこまで有名な感じはありませんが、よく知ってましたね」
「大学の講義で扱ってたんですよ。それ以来好きなんです」
「ああ、道理で……」
そういわれると、確かに僕もそれを知ったのは文学の講義からだったし、そのせいで「今の僕」があると言っても過言ではない。確かに僕はこうして外に出る時は何冊も本をバッグに詰めているが、必ずといっていいほどモームは一番取り出しやすいところに入れていた。
「ところで、お姉さんはどちらまで?」
「広島です」
「じゃ、一緒ですね。席を変わらなくてもよさそうだ」
「そうですね。ありがたくお借りします」
ええ、お構いなく、と言って僕はコートの内ポケットからワイヤレスイヤホンを取り出した。いつもより機嫌が少しだけ上向いていたので、アプリからハードロックの適当なプレイリストを選んで再生した。
広島に行く、とは言っても、何かしら目的があるわけではない。時折、ふらりとどこかに行きたくなることがあるに過ぎない。数少ない友人からも共感が得られなかったが、この年になるとそういうモラトリアムじみたことは考えなくなった、ということだ。
腑に落ちない理不尽や不条理を自分の外の世界に放り投げて、時間による解決を待つのは、社会に放り投げられたいっぱしの大人として好まれる行動ではないだろう。が、それでもやはりやりきれない時がある。そんなとき、僕は延ばせるだけの場所に足を延ばして、静かなテキストの海に身を浸すことにしているのだ。
広島駅に差し掛かる時、僕らはそろって席を立った。
「これ、ありがとうございました」とホームに降り立って彼女は本を差し出した。僕はそれを受け取らずに、
「それ、そのまま差し上げます」と言った。
「そんな、たまたま借りただけで……。さすがに貰えません」
「僕、それはもう一冊持ってるんです。二冊買っちゃってたんで」
「ああ、そういうことでしたか。知らない作家さんなので、せっかくなら頂戴します」
「どうでした、その作家は。僕は結構気に入ってるんですけど」
「……正直なところ、私には合いませんでしたね」
彼女はやや申し訳なさそうに言った。せっかく貸してもらったのにわがまま言ってすみません、と頭を下げんばかりの勢いだったので、ぼくはいやいや、と半ば強引に押しとどめた。丁度そのとき、彼女の母親が先に行ってるから、改札でね、と僕たちの横を通り過ぎていった。ホームは新幹線から降りてくる乗客と、乗ろうとする乗客で相変わらず込み合っていた。
「まあ、好みは人それぞれですからね」と僕は肩を竦めた。彼女は相変わらず申し訳なさそうに黙っていたので、せめてと思い「どこが気に入らなかったんですか」と尋ねた。
「そんな、貸してもらったものに批評するなんて……。それにこれ、装丁が自費出版のものですよね。大手から出しているなら編集さんもいるでしょうに、自費で編集さんもなく出しているものに意見なんて言えませんよ」
「僕はそうは思いませんね。自費でも出版社でも、世に出しているものは世に出しているもの。同じ読者として、感想を分け合いませんか」
「そうですね、遠慮なく言うなら……」
「ええ」
「あまりにも、独りよがりな感じがします」
「独りよがり、というと?」
「ジャンルは人間ドラマだし、構成も悪くないと思うんです」
「であれば、どこが逆に気に入らなかったんです?」
「なんというか、ずっと『どこかで見たことがある』っていう感覚が続いていて……。いえ、どこかで見たことのある流れだからこそ安心して読めるのもあるんですが、人間ドラマとして展開するなら、もっと会話とか仕草とか、工夫のしようはあったと思うんです」
「……会話の流れですか?」
「ちょっと押しつけがましいっていうか。あまり作例は出したくないですが、『老人と海』のサンチャゴの独白を何倍にも薄めたような……もちろん、こういうモノローグが好きな人はいると思うんですが」
「仮に作者にアドバイスするとしたら、何て言いますか」
「そんな、アドバイスだなんて……でも、もっと人と会話したら、って言うと思います。小説の会話だろうと、普段の会話だろうと、ベースは変わらないはずですから。……もしかして、その作者さんとお知り合いだったりしますか?」
「いえいえ、そんなことは……。私は読者ですよ。どんな時でも」
敗北者宣言 有明 榮 @hiroki980911
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