第4話 ここから
颯君の表情が締まってる。
呼吸音も聞こえるような気がする。
これは、来るのね。
『
「いないよ。お兄ちゃんから聞いてない?」
『聞きましたけど、やっぱり慈枝さんの口から聞きたくて』
「
『いません』
もう、言っちゃって!
『
うれしい……でも、言わなきゃ。
隠して背負っていくのはイヤ。
「ありがとう。私も颯君のことが好きよ……でも、よく聞いて」
『え?』
「私ね、あの後男の人と付き合ったの」
「颯君のことをあきらめたつもりになって……その、どうかしてたんだと思う」
「でも、あんまり長続きしなかったの。たぶん、無意識にその人に颯君を求めていたんだと思う。でもというか、当然というか、誰かの替りはできないって言われた」
お願い、引かないで。
嫌いにならないで。
『慈枝さんは魅力のある人だから、そこらの男どもがほっとかない思います。でも、俺の気持ちはそんな過去のことの影響を受けません』
うれしい。でも、本当に大丈夫なのかしら……我ながらいやらしい質問だと思うけど、これでだめならあきらめるしかない……望まないけど。
「……気にならないの? どこまで進んだか、とか」
『気にならないといったら嘘になります。でも過去より未来のほうが大事です。俺と一緒に未来に向いていただけますか?』
ちょっと無理してるみたいだけど……ありがとう、お言葉に甘えます。実際手を繋いだだけだし。
「ありがとう。二人で未来へ向かいましょう」
「フフ」
『ハハ』
「よかった、引かれたらどうしようと思ってた。手を繋いだだけだよ」
『もうそれは気にしませんよ、俺のほうこそ、チャンスをものにできなかったヘタレには興味ない、とか言われたらどうしようと思ってました』
「チャンスって私が部屋に行った日のこと? 大丈夫、まだチャンスは継続中だよ」
私のほうこそ匂わせることしかしなかったヘタレだったよ。
でも、良かった。
『俺のことを忘れないでいてくれてありがとう』
「私のほうこそ、忘れないでいてくれて、ありがとう」
そして、許してくれてありがとう。
…………
『いらっしゃい、慈枝ちゃん』
「こんにちは、マスター」
『そちらは彼氏さんかい?』
『こんにちは、3分ほど前からの彼氏で、
『そうか、喫茶
『はい、もちろんです』
『慈枝ちゃんいらっしゃい。ご注文は決まってますか?』
「奥さんこんにちは。私はヘーゼルナッツクッキーとアールグレイください」
『えっと、俺も同じものをお願いします』
『はい、ヘーゼルナッツクッキー二つとアールグレイを二つね』
『「はい、お願いします」』
『貴方が慈枝ちゃんの彼氏でしょ。ウチの看板娘を落としたんだから、責任持ってよ』
「そんな、奥さん。看板娘だなんて……」
『本当だぞ、慈枝ちゃんが就職のためにやめたら売り上げが下がったぞ』
『「え!」』
『この人ったらおかしいのよ、慈枝ちゃんがやめる前後の売り上げをウェルチのt検定で比較したのよ』
『P値は0.015で有意水準の0.05より小さいので有意であり、慈枝ちゃんが居たときと居なくなってからの売り上げが変わらないという帰無仮説は棄却される、と』
『えーと、ウェルチのt検定って統計的な手法ですよね』
「マスターは、引退したけど大学院の理工学研究科の教授で、奥さんは准教授だったのよ」
『慈枝ちゃんの友達の
『え、Ms.Ramanujanって
『『ほう、くわしく』』
『俺は、聞いただけですし、その、学術的にちゃんとした言葉で話す自信がないですが――』
『ふーん、Ms.Ramanujanはうまくみんなを導いたのね。さすがあなたの教え子ね』
『おう、洞察に富んでて、メリハリがはっきりしたいい論文を書く子で……そうかそうか』
『お兄さんはウチに来たことあるわよね。そう再会できてよかったわね』
「疑問を持たないんですか? 琴菜ちゃんと兄とは12歳違いで、出会ったときは琴菜ちゃんが5歳、兄が17歳」
『持たないぞ』
『5歳と17歳では、ちょっとマズイんじゃないの? なんて思う人がいるけど、18歳と30歳なら大丈夫ってことになるし、20台後半とアラフォーとなったらもう誰も気にしない。年齢差なんてそんなものよ』
『俺と慈枝さんが再会できたのは、遡ればマスターと奥さんのおかげなんですね。ありがとうございます』
『今度、4人で来たら?』
『慈枝さん、そうします?』
「颯君さえよかったら」
『出来上がったよ』
『ヘーゼルナッツクッキーとアールグレイお待ちどうさま。砂が落ち切ったら飲み頃よ』
「どう、おいしいでしょ」
『おいしいです。慈枝さんがバイトしたのはこれが理由ですか?』
「そうよ。おいしいと幸せになるから」
『ところで、いい映画でしたね』
「うん、ハッピーエンドはいいわね……あの映画、一部の評論家からは主人公君が大人になれてない劇でしかないって酷評されてるらしいけど」
『あれは、いわゆるマリッジブルーだと思います』
「なんでそう思うの?」
『職場の先輩がああいう状態になったんです』
「結婚式前日に逃げ出しちゃったの?」
『さすがにそこまでではないです。だけど、だいぶ奥さんとなる女性――今は奥さん――を困らせたみたいですよ。第三者はそれを“大人になれない”と見ることもできて』
「ああ、確かにSF的な設定もあって、事態の深刻さが増してるから……そうね、そういう見方をする人はいるわね。もともとの主人公君のイメージもあるからますます」
『ま、見方は自由で、“大人になれない”と片付けるのは簡単ですけど、俺は、男たちへのメッセージだと受け取りました。あ、ちなみに、その先輩の行動を俺たち第三者はもっぱら駄々っ子と批判しましたが、当の女性……奥さんになった人はそう思っていなかったようです』
『その先輩のことを俺達よりずっと理解してたんですね』
読解が苦手だった颯君がこういう深い見方ができるようになったんだ……
颯のくせに生意気だ! なんてね。
でも、よかった。あのころの真っ直ぐな颯君で。
「うん、なるほど、そうするとヒロインの行動も理解できる……ねえ、私にあんなふうに振舞ってほしい?」
『え……いや……まだ』
「まだ?」
『そういう判断はもっとお互いのことを深く知ってからがいいと思います』
『でも、俺はそれをゴールとします』
それは、遠回しに?
「うん、私もそうするよ」
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
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