女王の冠

オキタクミ

女王の冠

 ひさしぶりに実家に帰ると、また、玄関の靴箱の上に並んだ母お手製の人形たちが増えていた。軍手を丸めてつくられた犬のぬいぐるみとか、折り紙でできた小さな三角のパーツから組み上げられたペンギンとか、ビーズ細工のドラえもんとか。三和土に立ったままなんとなくそれらを見ていると、「おかえり」と声がした。そちらに顔を向けると、奥のドアを開けて母がひょっこり顔を出していた。

 「ただいま」


——


 「症状」はいろいろあったが、いちばん身体的にしんどかったのは、ものを食べられなくなったことだった。肉が一番だめで、ひどいと見ただけで吐き気がしてしまう。パンや米は口の中に入れることはできるが、何回か噛んで甘みが出てくると、それを気持ち悪く感じて吐き出してしまう。野菜は比較的ましなのだけれど、それでも調理してあったり味がついてたりすると、やっぱり食べるのはしんどい。なぜか、生の野菜だけは普通に食べることができた。

 母は最初、なんの調理もしていない野菜だけがのった皿を自分の子どもの前に出すのが後ろめたかったらしく、お粥をほとんど粒がなくなるまで煮てみたり、根菜類を柔らかく茹でてから擦りおろしてみたりと、いろいろ試していた。しかし、なにを出されてもけっきょく私が食べられないので、数日もすると受け入れて、切っただけの野菜を出すようになった。ただ、それでもやはりなにかしら手はかけたいらしく、何種類ものカラフルな野菜にいろいろと凝った飾り切りを入れたり、見た目が綺麗になるよう盛り付けに工夫を凝らしたりした。私は定年したばかりの母に今さら迷惑をかけるのが忍びなく、「そんなに手間かけなくてもいいよ。ていうか野菜切るくらいは私もできるよ」と言ったのだが、「いいから。あんたは休んどきなさい」と聞かないのだった。

 「どういう仕組みなの? 生野菜しか食べられないっていうのは」

 スティック状のにんじんをぽりぽりとかじる私を食卓越しに見ながら、母は言った。その表情は心配そうであるのと同時に不思議そうでもあった。

 「どういう仕組みって言われても」

 「お医者さんはなんか言ってなかったの」

 「ちょっと変わってるけど、まあ摂食障害ですね、って」

 「そりゃそうなんだろうけど」

 母の前にはなんの料理も置かれていなかった。母はメニューを私に合わせたりせず普段通りの食事をしていたが、気を遣ってだろう、私の前ではそれらを食べないようにしていた。代わりに母の前には大判の手芸の本が開かれていて、母はそれを見ながら、手に持ったつくりかけのフェルト人形に針と糸でなにか縫いつけていた。

 「なにつくってるの」

 「女王様」

 そう言って母は人形の正面をこちらに向けた。その女王様はまつ毛の長い目を静かに閉じていて、波打つ豊かな長い髪を頭から垂らし、大きく広がるスカートと丸くふくらんだ肩の真っ赤なドレスを身にまとっていた。母は今、右手の先にステッキを縫いつけているところだった。なにか物足りない感じがして、なぜだろうと考えて、気づいた。

 「冠は?」

 「最後の仕上げにやるの」


——


 ある深夜、空腹で目が覚めてしまった私は、子ども部屋のベッドから起き上がって台所まで行き、冷蔵庫の一番下の段を開けた。そこには野菜がぎゅうぎゅうに詰め込まれていた。その中から、私はスーパーのビニール袋に入ったひと玉まるごとのキャべツを袋ごと取り出して、台所にどんと置き、立ったまま、キャベツの葉っぱを外側から順に、ちぎって洗って食べ、ちぎって洗って食べを繰り返した。

 その途中で、袋の中に小さななにかがいるのに気づいた。緑色の芋虫だった。ちぎったキャベツの葉っぱですくって外に出してみた。葉っぱの先でつつくと、動きは弱々しかったが、生きてはいるみたいだった。スマートフォンで写真を撮って画像検索すると、モンシロチョウの幼虫らしいとわかった。

 そういえば、小学校の授業でモンシロチョウの幼虫を育てて羽化させたのを思い出した。子ども部屋に戻って押し入れを開け、小学校のころの理科のノートを引っ張り出した。一年生のノートから順番にページをめくって、とうとう、モンシロチョウの幼虫の飼い方をまとめたページを見つけた。そのノートを持って台所に戻ると、幼虫はまだ葉っぱの上でじっとしていた。私は、ちょうど逆さまにして乾かしてあった牛乳パックを手にとり、キッチンばさみで下の部分十センチくらいを切り取って天面の欠けた立方体のようにし、そこに葉っぱごと幼虫を入れた。それから天面にラップを張り、呼吸できるように菜箸でぷすぷすと穴を開け、台所の窓際に置いた。


——


 翌朝、すでに起きてベッドのうえでだらだらしていたら、母の短い叫び声が聞こえた。のろのろとベッドから這い出して叫び声の聞こえたほうへ向かうと、母が台所で窓際の牛乳パックを指差しながら、こっちを見て言った。

 「なにこれ」

 「モンシロチョウの幼虫」

 「なんでいるの」

 「冷蔵庫の野菜にくっついてた」

 母はまた短く叫んだ。

 「どの野菜? 捨てないと」

 「大丈夫だって。外で育ててるんだからたまには虫くらいつくよ」

 けれども母は納得しなかった。どの野菜か言わないと、野菜室の中身を全て捨ててしまいそうな勢いだったので、キャベツについてたのだと私は教えた。すると当然、母はそのキャベツを捨てようとした。

 「ちょっと待って。エサ用にとっといてよ」

 「嘘でしょ? あれ飼う気?」

 「うん」


——


 母が台所に置いておくことを絶対に受け入れなかったので、モンシロチョウの幼虫は私の子ども部屋に移った。エサ用のキャベツを野菜室に入れておくことも拒まれそうだったのだが、私は野菜室から出したら腐ってしまうと主張した。けっきょく、キャベツをラップで何重にもぐるぐる巻きにすることで、それを野菜室で保存することを、母にしぶしぶ認めてもらった。

 翌朝から、起きてまず窓際の牛乳パックの中身をラップ越しに覗き込み、幼虫の様子を確認することが、私の日課になった。やはり弱っているらしく、じっと見つめていてもほとんど動かなかったが、よくよく見ると昨晩からは少し移動していた。キャベツの葉っぱを箱から取り出して、冷蔵庫のぐるぐる巻きのラップを解いてちぎり取った新しい葉っぱと交換した。取り出した葉っぱを注意深く探すと、ほんのちょっとだけ齧り跡がついているのが見つかった。

 小学校の理科のノートは、牛乳パックの横に開きっぱなしにして置いておいた。開かれたページには、小学生のころの私が幼虫を観察しながら描いたスケッチが載っていた。ふと、またスケッチを描いてみようという気になり、私は学習机の引き出しの中をあさって、名前シールのついた二十四色入りの色鉛筆のケースを取り出した。真上からしか覗き込めないのは不便だったが、立ち位置を変えたり首を捻ったりしながら、少しずつ幼虫の全体像を描いていった。くびれがなくて柔らかそうな薄緑色の体。それを覆う短くて白い体毛。脚は、前のほうに小さな尖ったのが三対、吸盤のように丸っこいのがお腹のあたりに四対、同じく丸っこいのがお尻のところにも一対。私の絵は、小学生のときよりほんのすこしだけうまくなっていた。


——


 それから数日経った朝、目をこすりながら牛乳パックの中を覗き込むと、幼虫はころんと横向きに倒れていた。傍らのキャベツの葉から落っこちたみたいに、全部で八対ある脚を葉っぱのほうに向けて。眠気が覚め、不安が湧き上がり、死んでしまったのだとわかるまで、少し時間がかかった。屈み込み、顔を近づけて眺めた。見ているうちに、なんだかむしょうに悲しさが込み上げてきた。窓からの朝日がラップを透かして幼虫の上に降り注ぎ、緑色の額の上に空気穴の影が小さな金色の輪っかをつくっていた。

 「大変!」

 という声が背後からして、母が部屋のドアを開ける音が聞こえた。

 「エリザベス女王が亡くなったんだって。それでね、おんなじタイミングで、バッキンガム宮殿の上に虹が出たんだって。すごいよね」

 だからなんだって言うんだろう。悔しくて泣きそうだった。だから私は、ロンドンの空のその虹は、私の部屋の片隅で死んだモンシロチョウの幼虫のためにかかったのだと、信じた。

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