第37話 奇跡の大水 ※他視点
女子生徒は絶望するしかなかった。
暗黒の霧の発生からものの数分で教室は魔物に占領され、女子生徒は同級生と一緒にほうほうの体で逃げ出したのが、彼らとは階段の踊り場で運命が分かたれた。
他の同級生が上級生に助けを求めて上の階に向かったのに、女子生徒はあろうことか1階の女子トイレに逃げ込んでしまったのだ。
どこかに隠れたい、ただ一心の行動だったのだろう。
個室に逃げ込み、施錠し、願望を叶える。
一息つく間もなく、少女に泣き出したいほどの後悔が襲ってきた。
なんでこんなところに逃げ込んでしまったのか。
なんでみんなについていかなかったのか。
だが、女子生徒には、もはや泣き出す自由もなかった。
ペタペタペタっ、と足音が近づいてくる。
すぐに人のものでないとわかった。上靴を履いた者の足音ではないからだ。
女子生徒は「逃げ出したい」と強く思った。
咄嗟にそうしなかったのは先ほどの経験で、多少は学習したからに他ならない。
ぴちょん、ぴちょん、と洗面台に水滴が跳ねる音が響く。
女子生徒は息を殺して、そ~っと個室のドアを開けてみた。
……ゴブリンと目が合った。
女子生徒は自分の迂闊さを呪わずにはいられなかった。
なぜ、立ち去るまで待てなかったのか。
なぜ、外を見ようなどととち狂ってしまったのか。
好奇心は猫をも殺す――まさにそれだ。
ゴブリンが女子生徒を見つけて、にや~っと笑う。決して友好的な笑みではない。
女子生徒は怖気が走り、今さらながら個室で籠城しようとして――
「――へぇ?」
ドアをきつく締めようとした瞬間。
妙なものを見た。
恐怖のあまりついにおかしくなってしまったのか、と冷静に思ったほどだ。
ゴブリンの背後――洗面台から、小さな女の子が、ひょっこりと顔を出したのだ。
半透明の雨合羽を着て、長靴を履いた、とんでもなく可愛い女の子だった。
「よい、しょ、――で、す!」
洗面台には、潜めるほどの広さも深さもないはずが、女の子は一生懸命、洗面台から這い出ると、タイルの上に飛び降り、つるんっ、と足を滑らせ、べちっ、と尻餅をついた。
「い、いちぇぇ、……うぅぅ、あるじ~」
見る見るうちに女の子の顔が曇り、涙がじわりじわりと溢れ出す。
と、尻餅の音にゴブリンが女の子を振り返る。
すると、女の子は涙を溜めた眼をきっと結び、ゴブリンを睨み付けて、
「おっ、おまえの、せい、――で、す!」
見事な八つ当たりである。
だが、女の子の八つ当たりなどゴブリンに意に介した様子はない。
哀れ、女の子はゴブリンの餌食に――否、餌食になったのはゴブリンの方だった。
「し、ね、――で、す!」
女の子がゴブリンに手をかざし、パーをグーにした瞬間。
トイレを湿らせていた水気という水気が、ゴブリンの頭部に吸い寄せられるように集まり、清潔とは無縁の水の塊となって呑み込んだ。
「まっ、魔法?」
呆然とする少女を余所に、ごぼっ、ごぼっ、と泡ぶくを立てて、ゴブリンが藻掻き苦しむ。
いくら掻き出そうと、呑み込もうと、振り払おうと、無駄だった。
水の塊はゴブリンの頭部に張り付き、離れない。減った分だけすぐさま補充される。
「おま、え!」
女の子と目が合うと、いきなりそう呼び捨てられ、刺すように指先を向けられた。
「じゃ~、って、する、――で、す!」
「はっ、はい!」
よくわからなかったが、トイレを指差して言うので、とりあえず「大」の方で水を流した。
じゃ~っと便器に大量の水が流れ込む。
何の意味が? と首を捻る女子生徒だったが、お叱りを受けなかったので、どうやら正解だったらしい、とホッと一息――する暇もなかった。
「……ひぃ!」
女子生徒はトレイの個室の壁にそのまま天井まで登るかのような勢いで張り付いた。
トイレの便器に流れ込む水が、次の瞬間、女の子となって便器から溢れ出したのだ。
しかも洗面所の女の子と顔も格好もまったく同じ女の子が。
それも、1人2人ではない。3人、4人、5人……、見る間に数を増やす。
「「「「よい、しょ、――で、す!」」」
1人が便器から這い出すと、また1人が現れ、また1人が便器から這い出す。
女の子の出現は水が止まるまで続き、水が止まると今度は出現した女の子がじゃ~っと水を流す。そうやってエンドレスに女の子が増えていく。
女子生徒は悪夢を見ているかのようだった。
「「「「い、そぐ、――で、す!」」」」
トイレの個室から慌ただしく外に出る女の子たち。
後を追って女子生徒も個室を出ると、もうそこには女の子の形をした混沌が広がっていた。
便器だけではなく、洗面台の蛇口という蛇口が全開にされ、噴き出すような勢いで流れ出る水という水が、洗面台に貯まるより先に女の子となって、次々と湧き出るのである。
中には、洗面台から押し出され、床に叩き落とされる子もいた。
「ひぎぃ! ……ううぅぅ、あるじ~」
「泣いてる、ひま、な、い、――で、す!」
泣き出した女の子の髪を掴み、別の女の子が廊下に引きずっていく。
なかなかにスパルタである。
「なっ、なにが起こっているの?!」
そのとき、白目を剥いて舌をだらんと出したゴブリンが女子生徒の横を通り過ぎた。
「――ひぃ!」
慌てて飛び退く。だが、杞憂だった。
「「「「え、っほ、えっほ、――で、す!」」」」
女子生徒が見たのは、四人の女の子に運ばれるゴブリンの死体だったからだ。
「……っ」
ごくんっ、と女子生徒は生唾を飲み込み、女の子を追って廊下を出てみた。
たった一歩で、ぱしゃん、と水が跳ねた。
「――え?」
廊下は水浸しだった。
女子生徒は魔物が手洗い場の蛇口でも破壊したのかと思った。
……そうではなかった。
トイレの洗面台同様、手洗い場の蛇口という蛇口が全開にされ、排水能力の限界を超えた水がスロップシンクから溢れ出し、廊下を浸していたのである。
なぜ? と女子生徒が首を傾げた、そのとき。
「「「「「わああああああああああ~!」」」」」
あの女の子の声が何重にも声が響き渡った。
舌足らずで、寝起きみたいな、ふにゃふにゃした声だった。
だから、女子生徒は終ぞ気づかなかった――それが「雄叫び」であることに。
声に振り返り、女子生徒は、ただ圧倒された。
廊下の果てから白波を上げて怒濤が迫ってくるのが見えた。
あまりに現実味のない光景だった。
学校で、しかも廊下で、なぜ? と思った。
普通、氾濫した川や大荒れの海でしか見られない光景のはずだ。
どどどどどどっ、とあまりの勢いに学校そのものが揺れ動く。
怒濤は容赦なく魔物を呑み込み、その渦の中に巻き込んでいく。
女子生徒は為す術もなく、ぺたんっ、と尻餅をついた。
魔物に自らの運命を見たような気がして、ぎゅっと眼を閉じる。
苦しめずに死ねることを祈った、その瞬間。
「「「「「わああああああああああ~!」」」」」
女子生徒の目の前を、あの女の子たちの叫び声が駆け抜けていった。
「――え?」
恐る恐る目を開けると、女子生徒の目の前には水の壁があった。
凄い勢いで流動し、時折、魔物が流されていくのが見える。
「……」
女子生徒は自分の正気を疑ったが、確かめようがないので、自分で自分の頬を張った。
普通に、痛かった。夢ではないらしい。だが、まだ信じられない。
怒濤が自分を避けて通っている――奇跡の目撃者どころか当事者になるなんて。
「お、さわがせ、する、――で、す!」
あの女の子が、ぺこっ、と会釈して通り過ぎていった。
「……ふぇ?」
このときになって女子生徒はようやく女の子の正体に気づくが、そのデタラメっぷりにもう笑うしかなかった。
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