第35話 濛々たる悪夢

 おかげで1時限目と2時限目をそれなりに気楽に過ごすことができた。

 ところが3時限目が始業してから数分後のことだった。


 ひとりの女子生徒が絹を切り裂くかのような悲鳴を上げた。

 何事か、と誰かが問いかけるより先に、クラス中にどよめきが走る。

 誰もが外を見て、顔に恐怖を張り付かせていた。

 多分、ぼくもそのひとりだった。


 それは、どこからか風に流されて、流れ込んできたわけではない。また気象によって産み落とされたわけでもない。唐突に現れた――唐突に現れて、暗雲のような密度で、濃霧のように広がり、見る間に学校に至るまで街並みを呑み込んでいくのである。


 ――暗黒の霧。


 それは、そう呼ばれる超常であった。



 学校をも餌食にしようとしたところで暗黒の霧は進行を止めた。


 暗黒の中に、ぽっかりと学校だけが残される形だ。


 助かった、と安堵するものはいなかった。


 暗黒の霧に異形の影が映る。大きなもの、小さなもの、その中間のもの……。


 影法師の悪戯だったらどんなによかったことか。


 しかし、暗黒のベールを引き裂き、現れたものに、影法師による誇張はなかった。


 先陣を切ったのは、2メートルほどの牛頭の巨人――ミノタウロス。


 彼らの足下に続くのは、黒い肌に、頭に角を生やした小鬼――ゴブリン・オーガ。


 続いて、黒い体毛を持つ、痩せこけた犬のような魔物――ブラック・ドギー。


 そして――


 最後に現れたのは、灰色の濁った体毛に、隆々とした筋肉を鎧のように纏う、3メートルほどの巨躯を誇るミノタウロス――


「ミノタウロス・グレート!? ――まっ、魔王だ!?」


 3限目を担当していた英語教諭の叫びに、クラスの緊張が走った。

 英語教諭はすぐさま生徒に武装を命じて、


「わ、わたしは他の先生方とあれを迎撃せねばならん。君たちは机と椅子でバリケードを築き、何人も通すな。壁を登ってくる奴らもいるかもしれんから、外にも気を配るように」


 矢継ぎ早やに指示を飛ばすと、教室を飛び出していった。

 残された生徒は、英語教諭の指示を忠実にこなしていく。

 誰も彼も顔には余裕がない。恐怖を紛らわすために必死に体を動かしている。


 そんな中、ぼくは――


「……」


「……」


 美國と目配せして、こっそりと教室を後にしたのだった。



 屋上に着くのを待てずにぼくはM/Mでセシルちゃんに連絡を入れた。


「せ、セシルちゃん、大変だ! 学校に魔物が!」


「なんと、学校にもか!!」


「そっ……え? にも?」


 屋上に辿り着く。眼下では、暗黒の霧からわらわらと現れる魔物に対して、教職員と――おそらく三年生や二年生の成績優秀者による即席パーティが迎え撃つ構えを見せている。


「街中ぢゃ。大型の施設は軒並み襲撃を受けているようぢゃな」


「お、お婆ちゃんは?」


「そのセシリアからの情報ぢゃ。ギルドメンバーを引き連れて方々を転戦しているらしい」


「学校には来ないの?」


「どうぢゃろうな。ろくに防衛能力のないスーパーやホームセンターまで襲われているせいで、民間人を避難させるので手一杯のようぢゃが」


「お、お母さんは?」


「ご近所の防衛に駆けずり回っておる」


「せ、セシルちゃんは?」


「わしか? 残念ながらセリアの援護で手一杯ぢゃ」


「うううぅ……」


 あわよくば祖母か、母親か、ダメ元でセシルちゃんに助けに来て欲しかったのに。

 どれもこれも色よい返事がない


「学校も襲われてるんだけどぉ~?」


「さっき聞いた。――もういいから帰ってこい!」


「え?」


「義理立てする理由などどこにもあるまい? お前を貶めた、ろくでもない連中の巣窟ぢゃ。やつらのために骨を折る必要がどこにある? 『いのちだいじに』ぢゃ」


「そ、そうかもだけど……」


 眼下では、魔物の大群が学校の正面玄関目掛けて殺到するのが見えた。


 対する学校側は魔法や弓で遠距離から応戦。結果、何体かの魔物は脱落するが、ただそれだけだ。大河に小石を投げ込むかのように、魔物の勢いは止まらない。


 前衛を打ち破られ、あっという間に乱戦になった。

 前衛も後衛も関係なく魔物に取り囲まれ、数の暴力で包囲殲滅……と思いきや、ゴブリン・オーガやダーク・ドギーは、彼らを捨て置き、学校へと雪崩れ込む。


 学校のダンジョン化を最優先したのだろう。あるいは、相手ではないと見下されたか。


 魔物の意図に気づいた者は背後から迎撃を試みようとした。だが、試みはことごとく失敗に終わった。ほうほうの体でミノタウロスの戦斧から身を守らねばならなかったからだ。


「どうした? 何かあったか?」


 セシルちゃんに問われ、ごきゅん、と喉が鳴った。


「学校が……魔物に侵入された」


「学校裏がまだ無事ならそこから学校を迂回して帰ってこい」


「でも……」


 自分で何が言いたいのかもわからず、ただ言い淀んだ、そのとき、


「春空――」


 呼ばれて、振り返る。

 いつの間にか、メイド服に着替えた美國がいた。


「美國……」


「春空、どうしますか?」


「どう、って?」


「撤退するのなら逃げ支度と退路の確保を、傍観するのならおやつと飲み物の準備を、もしも、戦うというのなら使い魔に命じて情報の収集に当たらせます」


「む、むぅ……」


 困った。困り果てた。……いや、嘘だ。

 本当は困ってさえいない。

 心はすでにひとつに決まっている。


 確かに、身勝手に期待して、失望して、その代償を押しつけてきた連中など、知ったことではない。魔物に喰われてざま~、美味しく喰われてしまえ、って感じだ。


 ……だが、


 酷く残念なことに、ぼくには人が喰われるのを見て、拍手喝采で喜ぶほどの狂気はない。

 きっと母親や祖母、セシルちゃんの教育が良かったのだろう。


 魔物が押し寄せるのを見て、ぼくは衝動的にこう思ってしまったのだ。


 ――助けたい。


 正義、と呼ぶのもおこがましい、気の迷いにも似た願望だ。

 もしくはハイエルフの力に溺れた、ただのうぬぼれか。


「……やる」


 我ながら損な性格だと思う。


 学校が滅茶苦茶になるのを楽しめるような加虐趣味もなければ、無能オークでもそれなりに気に掛けてくれた先生方が死にゆくのを黙って見てられる非情さもないのだから。


 ぼくを虐めた連中まで助けるのは業腹だが、誰かのおまけと思えば多少は気が晴れる。


「なんぢゃって?」


 セシルちゃん妖精が意地悪な笑みを浮かべて、わざとらしく耳に手をかざして聞き返してきた。


「やるよ! やってやる!」

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