緑の長靴

オキタクミ

緑の長靴

 夢と呼べるほどの形をとってもいない茫洋とした世界の中、彼は温められたバターの匂いを嗅いだ。もちろん、そのときまだ半ば以上眠っていた彼は、それがバターの匂いだとは理解できなかった。ただ、眠りの外から忍び込んできたその匂いは、頭の中でこしらえられたほかのものたちとは違う、くっきりとした輪郭を持っていたから、彼の意識は勝手にそれを追いかけ、眠りの世界の外側へと引っ張られていった。それにつれて、茫洋とした世界は徐々に腑分けされ、並び替えられた。その世界は彼が目を開ける一歩手前の刹那、なにかのバグのように、現実とはまるで関係のない像を結んだ。

 雪の降る小さな公園の真ん中、小さな女の子が、キャラクターの柄の散りばめられた傘をめいっぱい高くささげ持ち、つま先立ちで踊るようにはしゃいでいる。薄く積もった雪の上で、女の子の緑色の長靴ひと組が、互いに位置を入れ替えながら跳ね回る。それを見ながら、女の子と同じ小さな子どもの彼は、まるで長靴が生きているみたいだと思う。そう思う彼の左手の甲には、さっき女の子にもらったばかりの、傘に描かれているのと同じキャラクターのシールが貼られている。

 その女の子は桜子ちゃんという名前で、彼が保育園のころ、大きくなったら結婚しようねと言い合っていた相手だ。けれど彼はもうそのことを憶えていなかった。桜子ちゃんという名前も、その場面の意味も思い出せず、ただ映像だけがあった。当時の自分が桜子ちゃんに対してどういう感情を抱いていたのかも、結婚というのをどんなものだと思っていたのかも、当然忘れていた。

 彼がまぶたを薄く開くと、彼の視界は現実の光景に占領されて、雪の降る公園の映像は再びぼやけながら、どこか後頭部のほうへ押しやられた。けれど、消えたわけではなく、ぼやけた輪郭のまま、桜子ちゃんはループ再生のように踊り続けていた。ただ、彼はもうほとんどそれを意識しなかった。

 とはいえ、起きたばかりの彼の寝ぼけ眼には、現実の光景のほうもまたぼやけていた。意識もまだ半覚醒といったところだった。そこへ、バターの匂いに混ざるようにして、じゅーっという音が遠くから聞こえた。彼の同居人である雪広が、鍋底で融けるバターの上に、薄く切った玉ねぎをどさっと入れたのだった。しかし今度もまた、彼はそこまでのことは理解していなかった。ただ、玉ねぎが熱されて柔らかく透き通っていくにつれて強まる、甘い香りを嗅いだ。雪広がそこに水を加えるとバターと玉ねぎの香りは弱まった。続いて雪広が月桂樹の葉の入った袋を開けると、やはり彼はその香りを嗅いだ。まとまりのない思考がたまさか言葉の形をとったすきに、彼は言った。

 「なにつくってんの」

 彼の視界の外で雪広は応えた。

 「オニオングラタンスープ」

 ただそのころには、彼の思考はまた言葉を失っていて、そのフレーズを理解することができなかった。

 換気扇の音が止まった。それまでずっと換気扇が鳴っていたことに、そこで初めて彼は気づいた。起きなければという無意識の義務感に駆られて、左手の甲で左目を擦った。手の甲を目から遠ざけたとき、そこに、彼はキャラクターシールの幻を見た。

 「いつまで寝てんの」

 呆れたような笑いの混じる声。それを言葉として認識することは相変わらず彼にはできなかったものの、その声は、彼の記憶の中の雪広という存在と自動的に結びついた。反射的にやましさを感じた彼は、幻のシールを右手で剥がし、寝ぼけながらも、それをベッドと壁の隙間に押し込んだ。剥がすとき、手の甲に傷とは言えないほどの赤く細い跡がついたが、彼は気づかなかった。

 彼は自分の上半身が地面ごと一段沈み込むのを感じた。ベッドの上、彼の頭の横あたりに、雪広が腰を下ろしたのだ。それから雪広は彼の頭をくしゃくしゃと撫でた。撫でられているうちに、やっと彼の意識は覚醒し切った。彼は自分の頭から雪広の手を払い除けながら、ベッドの上に身を起こした。

 「おはよう」

 と雪広が言った。

 「おはよ」

 と彼も返し、両手で顔を擦りながら、雪広のほうへ体をねじった。

 「スープできた?」

 寝ぼけているあいだのやりとりが、時間差をもって彼の頭の中で意味をなしていた。彼自身は、雪広がスープをつくっていることを自分がいつ知ったのか、はっきりしなかった。

 「スープはね。あとはカップに入れて、バゲット入れてチーズかけて、オーブンで焼かないと」

 朝から手間のかかるものをつくるなあと思いながら、彼は両手を下ろした。ほんの数十センチのところに彼の良く知る雪広の顔があり、そこには穏やかな、それでいてかすかにこちらをからかうような色が含まれていた。その笑みもまた、彼の良く知るものだった。彼の意識の中で、視覚に入力される映像と記憶の中にある印象とが手を取り合って雪広の像をつくりあげていき、それにつられて彼の思考は徐々に言葉の支配下に置かれていった。

 雪広。端的に言ってとても整っている顔だった。整っているあまりほとんど特徴がなく、人間味を欠くくらいだったが、唯一、耳が平均よりも少なからず大きく、そのせいで全体を見たときにわずかにちぐはぐな印象があった。だが、そのちぐはぐさの由来には、よほど注意しないと気付けなかった。だからその違和感は、整っているのにどこかが普通と違うという蠱惑的な印象を与えた。加えて、雪広の表情や仕草には、いつもどこか薄っすらと、こちらを下に見ているところがあった。雪広のほうがやや背が高いのも関係しているかもしれなかったが、そればかりとも思えなかった。かすかな違和感以外に人間的欠陥の感じられない雪広の身体の端々に、邪気のない不遜さを見出すたび、彼はついどきりとした。

 雪広の右手が伸びてきて、彼の髪のはねたところを弄んだ。

 「寝癖ひどいね」

 言い訳のように雪広は言った。そう言う雪広のほうは、部屋着ではあったが髪も顔もこざっぱりとしていて、彼が寝ているあいだに顔を洗って髪も梳かしたみたいだった。なんだったら、シャワーまで浴びたのかもしれなかった。翻って、自分の乱れた髪と目やにのついた両目を自覚した彼は、

 「シャワー浴びてくる」

 と言いながら、起き上がったときのように雪広の手を優しく払い除け、腰を浮かせようとした。ところが、雪広がさっきまで髪を触っていた手で逆に彼の手を掴んだので、彼は浮かせかけた腰をまたベッドに下ろした。雪広の手の熱を自分の手に感じていると、

 「体温低いね」

 「起きたばっかりだから」

 「確かに」

 雪広は悪戯っぽく笑った。彼は目を逸らしてキッチンのほうを見た。

 「シャワー浴びてくるから。そのあいだに料理しなよ。途中なんでしょ」

 雪広は笑うばかりだった。それから彼のほうに覆い被さってきた。彼は気怠い諦めに身を任せながら再びベッドの上に倒された。彼の左手は掴まれたままふたりの顔のあいだに持って来られ、雪広がその甲を噛む感触がした。彼の意識からはまた、言葉がぼろぼろ剥がれ落ちていった。

 言葉が剥落し降りしきる向こう、奥行きのない一面の白を背景に、ふたつの緑色が最後のターンを決め、消えた。

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