第3話

 森の中を、黒檀の馬車が行く。影のような馬の嘶きが、木漏れ日の中を駆け抜けていった。その馬車の中には読書にふける若い娘と、うたた寝に沈む父親が座っている。その蹄の音が目的の場所に辿り着いたのは、太陽が真上に登るころだった。

「父上、街に入りましたが」

「うん……!? もうそんな時間か」

 土を蹴っていた足取りは硬質な石畳の音に変わり、外からは微かにざわついた往来の気配がする。男が舟を漕いでいる間に、馬車は遠く離れた街へ、目的の場所へと迫っていたのだ。蓋に大粒の翠玉エメラルドをはめ込んだ懐中時計をパチンとしめつつ、男は向かいに座った娘をじっと睨んだ。

「分かっておるだろうな、スクリア。くれぐれも大人しくしておるのだぞ。向こうの次男は、お前と丁度同い年と聞いている。提示した条件に対する当主の返信も悪くなかった。後はお前さえ向こうに気に入られれば良いのだ」

「善処はしますが、上手く行くかどうか。早々に追い出される前に、馬に水でも飲ませた方がよろしいかと」

 どうせまた、相手側の引きつった笑顔に見送られて帰ることになるのだろうからと、彼女は目を瞑る。縁談など、まったくもって乗り気ではなかった。第一、このご時世に見合いを勝手に組んでくる親というのも厄介で仕方がないと、スクリアはため息をそっと飲み込んだ。

 不要だとは、散々言った。だが聞き入れられなかったのだ。家がどうとか女の身で何だとかというそれらしい言葉を並べる父にうんざりして、彼女はその言葉を根こそぎ聞き流した。長女とはいえ、上に好いた相手と婚姻を結んだ兄がいる以上、家がどうのなどという問題はないはずだと、スクリアは思っている。確かに邪魔なコブかもしれないが、邪魔なだけでさして問題のないものだと。

 静かに、スクリアは深緑色の眼差しを外に向けている。その眼差しは右目だけであり、左目は柘榴石でできた豪華な義眼だった。古傷の走った彼女の鼻頭を、硝子越しの日差しが暖かく照らしている。小さな塵が、眼前を舞い落ちていった。

 これは、父を満足させるためだけの馬鹿な消費だ。時間と金の無駄というものである。

 この馬鹿げた消費につき合ってやることが、今までしてこなかった親孝行なのかもしれないなと、スクリアは渋々めかした格好でお見合いに向かっているのである。ただただ、本当にその気持ちしかない彼女にとって、それは相手側に幾分かの申し訳なさを含むものであった。

 馬車が止まる。目的地に辿り着いたのだろうかと彼女が窓の外を覗いた。次の瞬間、彼女はさっと馬車から飛び降りる。父親の遅すぎる静止の声が、馬車の中に残った。

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