うぐいす2
自動車教習所に通うために帰郷したので、すぐ教習所に入った。入校式と仰々しい名前がついていても、ただ人の話を聞くだけだった。その間、窓際に座っていて、背後の窓の向こうにすっかり若々しく色づいた空が広がっているのを感じていた。その朗らかな光のせいでホワイトボードは暗くて、ふいに頭に浮かんだブラームスの三番が教官の声を滅した。
その教室、といってもただパイプ椅子と安い机が並べらただけの部屋は、夏の始まりを知るのにあつらえたかのような、涼しくて静かな部屋であった。陰気なわたしにはスポーツマンの流すような煌めきを帯びた汗も、屈託のない笑顔に彩られた青空も似合わない。私に似合うのは、いや、わたしが好むのは、こういった静けさだけであった。一人静かに季節の訪れを感じる時ほど贅沢な時間はない。そういった瞬間に、わたしは背中から首にかけて何か冷たい風のような波のような者が通るのを感じる。ただ一人、それらの時間の移ろいに対面している感覚。静かに流れていく生と死の確証を眺めいている時間、、、、
そんな酔いのひと時も過ぎて、それから数日、わたしは強張りながら自動車を走らす練習をした。これはまっすぐ行っているのか?と五つ日間ほど悩み続けた。どうも真っ直ぐ走っていないような気がする。違う、と思った時に助手席の教官はこれで良いのだと言い、これだ、と私が思っている時に助手席の教官は違う、と言う。そのうち私は何を信じていいかわからなくなって、頭を空っぽにする術を覚えた。日が流れて、わたしは真っ直ぐ走れるようになっていた。だが気を抜けばすぐ道を逸れてしまう下手さのままであった。
無線教習というのがあった。指定された時間、無線機のついた車に乗って一人でコースを周るのだが、これがどうも楽しかった。うるさい教官はそのときばかりは助手席からいなくなっているし、無線機の電源が入っていないときはいくらでも独り言を言っていられる。わたしはすっかり調子に乗って鼻歌をうたったりした。そうして2度3度集会していたのだが、数回目にわたしは顔をあげて驚いた。いつのまにか、教習の開始時刻にはなかった巨きな雲が、林の向こうに聳えていた。他の季節には決してない夏だけの巨きな雲が、空に立っていた。教習所のコースを走る未熟なドライバーたちを睥睨して聳えていた。わたしはしばらくその雲に見惚れていた。無線機が入って、指定時間の終わりを告げた。わたしは雲が見れないのを惜しんだ。車を降りてもう一度振り返った頃には、雲はあの真っ盛りの輝きを失って崩れていた。
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